名なき画家が描いた聖母
【怪異二】安楽椅子の妊婦
画壇で名の知れた、高齢の男性画商の邸宅。
その一室へ案内された遊神来夏は、普段通りのパーカーにデニムパンツ姿。
猫背、肥満体型、落ち武者ヘアー、四つ足の杖……という、老醜感を漂わせる画商は、曾孫相当の年下の来夏を、目で嘗め回す。
しかしそれは性的なものではなく、長年の画商稼業で培われた値踏みの習性。
画商は来夏の普通すぎる風体の中に、一般人とは異なるものを感じ取っていた。
その魂は、妖怪の域に踏み込んでいるのかもしれない。
「……お嬢さん。この名画をその若さで目にできるのは、宝くじを当てる以上の強運なんだよ?」
「存じています。この『安楽椅子の妊婦』は、絵の世界で一度も表舞台に上がらなかった、幻の名画」
「そしてもうしばらく、世に出ることはない。
六畳ほどの、窓のない部屋。
入り口正面の壁に、作者不詳の絵画「安楽椅子の妊婦」が飾られている。
その手前には、厚いクッションを背もたれと座部に備えた安楽椅子。
それ以外は天井の空調施設と、ひたすらな肌色の壁。
画商は画中の安楽椅子とほぼ同じデザインの椅子へ腰を下ろすと、体を軽く前後に揺らした。
来夏は画商の背後から、禿げた頭部越しにその絵を見る。
(お久しぶり……ね)
安楽椅子の妊婦──。
くすんだ白いワンピースに身を包む、出産間近と思しき腹部を抱えた女性。
ブラウンのウェービーヘアーを、肩の辺りでシニヨンに束ねる。
愛し気に両手を腹部に当て、穏やかな笑みを見る者へと向けている。
美しさ、愛らしさ、純朴、普通──。
それらを絶妙なバランスで内包した、化粧っけのない、恐らくは市井の女性。
ほんのり肉づきのいい頬をした、年のころ二十代後半から三十路。
板張りの部屋の中には、安楽椅子以外の家具はなく、質素な生活ぶりが伺える。
画商が禿げ頭越しに、来夏へ語りだした。
「紙質、顔料、安楽椅子のデザインから、一九〇〇年前後の作。ある者はモナ・リザのオマージュと評し、またある者は……」
「聖母マリアの、アンチテーゼ」
「……ほほう。この絵を見たがるだけあって、勉強しておるな」
「恐縮です」
「そう。このあまりにも一市民然としたなりと、人肌の生々しさが滲み出る筆致。鼻筋に蓄えたソバカスがまた、親しみを湧かせる。処女懐妊の聖母マリアとは異なり、愛する男性との度重なる性交ののちに、一市民の子を宿したかのよう。聖母マリアのアンチテーゼという評に、
「ヒトラーの作という、風説もあるようですが」
「あれは俗説もいいところだ。彼は悪戯に技巧に走った、手先が器用なだけの男。こんな生気が溢れ出す絵は描けんよ。最古の所蔵の記録がドイツであること、戦火を逃れていまあること……だけが根拠の、珍説にすぎん」
(まるで彼と知人のような口ぶりだけれど、戦禍、戦後の貧困を越えてきたこの男には、そう語る資格はあるのかも)
少し口調を荒くした画商は、しばし息を整えてから、また語りだす。
「この絵を見て、妊婦が『見て、動いたわよ』と語りかけてくる……などと述べる
「──わたしの
「ほう! その若さで、その慧眼とは!」
画商が重そうに身を起こし、振り返って来夏と向き合う。
「……そう! この絵のテーマは胎内回帰!
およそ赤子とは無縁な老いた背中を来夏へ向け、画商は絵へと一歩寄る。
「この絵を手に入れるために、ずいぶんと苦労をした。搦め手も用いた。いや、魑魅魍魎どもが巣食う画商の世界で生き残るために、
(……到達点ではなく、終着点になると思うけれど)
来夏はそう内心でつぶやいたのち、質問。
「先ほど、『しばらく世に出ることはない』と仰っていましたね。失礼ながらあなたの鬼籍後は、世に出るという解釈でよろしいですか?」
「ふふ、失礼ということはない。没後の絵の処遇は、絵に関わる者の当然の話題。無論この名画は、
「でも結局は、搦め手を用いた者に独占されるのでは? いまのあなたのように」
「……それは否定すまいよ。その繰り返しで、この絵はいまここにあるのだからな。この絵を欲する者とは、彼女を独占したがる者のことだ────」
────数日後、画商の訃報が地方紙の片隅に載る。
死因は老衰。
来夏はその記事を、スターバックスコーヒーの窓際の席で、スマホで確認。
(やはり、魂を赤子にさせられたわね。それがあの絵を独占する者への、妊婦からの裁き。ま、あの
来夏はフレンチローストを紙ストローで飲み飲み、思案を継続。
(あの絵は、モナ・リザのオマージュでもなければ、聖母マリアのアンチテーゼでもない。まして胎内回帰が主題でもない。ただ子を想う母親。作者の記憶の中の
(彼は類まれな画才に恵まれながら、贋作に手を染めた。母親の治療費のために。あの絵は母の死後、彼がただ一枚描いた、オリジナルの作品)
(絵の中の妊婦は、どれだけの時を経ても出産することはない。彼が一度も、画壇へ立てなかったように)
(あの絵は、わが子に贋作を作らせたことを悔いた母へ宛てた、あなたに罪はない、罪はすべてわたしにある……という、息子からのメッセージ。無垢な命を抱える無原罪の母。あえてなぞらえるなら、聖母マリアのオマージュ……)
(……次こそはマザコン
来夏がスマホのディスプレイを暗転させ、デニムパンツのポケットへしまいつつ、席を立つ。
(……紙ストローって、言うほど悪くないわよね)
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