命の水は微笑まない Ⅵ

 漁船が、はやい。

 あきらかに、ただの巡航という速度ではない。

 まるで、なにかから逃げているかのような猛スピードだ。


 その意味は、すぐに判明した。


「みんな、逃げろぉぉーーー!!!」


 いちばんはじめに岸についた船に乗る、漁師組合のマスクをかぶった男が、そう叫んだ。


「漁船が、アレーナホエールに捕まったんだ。すぐに、この港まで追いついちまう! 家を捨てて、はやく陸にあがれっ」


 アリエッタは驚いた。

 アレーナホエール? なんとめずらしいことだろう。

 それは、海に生きる砂塵共生生物の名だ。


 海中に棲む魚たちは、砂塵の毒に侵されることが、ほとんどない。それゆえに、特別な排塵加工を施さなくても食べられる貴重な天然食品といわれている。

 が、それでも、砂塵に狂わされなかった生き物が、海にいないわけではない。

 それが、哺乳類だ。外気に触れて呼吸するうちに、順当に変異していき、陸の生物と同じく、化け物の姿になってしまった生き物がいる。

 その代表格が、アレーナホエールだった。


 なによりも血肉をこのむ、海の世界の最大の捕食者だ。

 ときおり船団を襲うことがあり、漁師からはおそれられている。とくに、いちど人間の味を知った個体はタチが悪く、どこまでも追いかけてきて、岸の近くを縄張りとすることがあるという。


「すまない。せめて向こうの岸に行きたかったんだが、海流の運が悪かったんだ。みんな、はやく逃げてくれ!」


 続々と船が到着して、漁師たちも逃げはじめる。

 はやくも一大事の騒動となった港で、悲鳴と避難勧告の声が入り混じった。

 そのなかで、アリエッタだけが突っ立っていた。

 なるほど。魚影というにはあきらかに大きすぎる、真っ黒い影が、沖からこちらに近づいてきていた。


「きみも、はやく逃げろ!」

「んー、あたしは平気。それより、グイン・ルクタの船が見えないんだけど」

「ああ、グインたちなら、はやめに二手に分かれたから平気だと思うが……って、あ、アリエッタか?」

「そ、とりあえず安心した。それにしても、巡り合わせってあるものねー。毎日仕事をがんばっていたおかげかしら」


 アリエッタがインジェクターを起動したのと、海中の影が盛り上がり、アレーナホエールが姿をあらわしたのは、ほとんど同時だった。

 数十メートル近くもある、とくに巨大な個体だ。血走った両のまなこのあいだからは、信じられないほど鋭利な角が、天を指すようにそびえていた。


 怪物の登場にともなって、大きな波が立つ。

 津波とさえ言えそうな荒波が、停留している船たちを巻きこもうとする。

 しかし、被害は起きなかった。

 船を襲う水の流れが、ぴたりと止まったからだった。


「だいじょうぶ、だれも逃げなくていいわよ。フィールドが港で、ここにいるのがあたしなら、どんな危険も許さないわ」


 アリエッタの周囲には、コバルトブルーの砂塵粒子が散布していた。

 それらは海を伝わり、同色として混ざりあって、水の動きをせき止めていた。

 それだけではない。

 次の瞬間のできごとに、その場にいた者たちはみな、驚愕した。


 大きな水のかたまりとともに、アレーナホエールが浮かび上がっていく。

 それは、あたかも規格外の金魚鉢のようだった。宙に浮く海水のなかに閉じこめられた怪物は、暴れることさえなかった。まるで水圧によって動きを制限されているかのように、ぴくりともしない。


 アリエッタ・ルクタ警弐級粛清官。

 水流の砂塵能力者。

 周囲にある水を、自由自在に操る能力だ。それが水であるかぎり、すべてはアリエッタの管理下となる。水を空に逆巻かせることも、対象を閉じこめて浮かばせるも、アリエッタにとっては造作もないことだ。


 人間が相手なら、500mlのペットボトルにおさまる程度の水が、アリエッタにとっては機関銃以上の威力を持つ武器となる。

 まして海沿いであるならば、いうまでもない。この環境にかぎっては、警壱級さえも凌ぐという評を、アリエッタはあえて否定しない。

 海に面する工獄の勤務に飛ばされたのも、しかたのないことだと思っている。


「みんな、そこどいてー。そうそう、もっと離れてー」


 に閉じこめたアレーナホエールを、アリエッタは港へと運んだ。あっけにとられた住民たちが離れたのを確認して、大きな金魚鉢を陸で解放した。

 ざっぱぁんと水滴が飛び散って、きらきらと光を反射する。大半の海水は、そのまま母なる海へと静かに還っていった。

 打ち上げられたアレーナホエールは、すでに絶命していた。水に閉じこめているときに、内部で水の槍を形成して、頭頂部を複数回刺していたからだった。


「船を追っていたのはこいつ一匹?」

「あ、ああ……」

「あっそ。なら、これで問題ないわね。連盟に連絡すれば、害獣駆除の部署のひとたちが来て、処理してくれると思うわ。まあ、どうするのでも任せるけど」


 アリエッタは、インジェクターを解除した。

 そのとき、


「すっっっ……ごおおおーーい!!!!! アリエッタねえちゃん、すっごおおおーーーーーーー!!!」


 さきほど能力披露をねだってきたこどもたちが、大声を上げた。

 おとなたちも、それに続いた。


「は、ははははは! なんてこった、こりゃあたまげた!」

「港住民の誇りだな、アリエッタは!」

「すごいとは思っていたけど、まさかこんなことができるなんてなあ」

「おかげで、うちが破壊されずに済んだよ!」


 ひとびとは、アリエッタを取り囲んだり、怪物の死骸をしげしげと眺めたり、アリエッタを褒めちぎったり、お礼を言ったり、きゅうに賑やかになった。


「それ、アリエッタ! あそら、アリエッタ!」

「あーーーもうっ、やめて! べつにお礼とかいいから。うちのおばあちゃんのところに持っていくのも禁止ね、あのひと全部返そうとするから。ってコラ、からだ触るな、胴上げはほんとにやめて!」


 手当たりしだいに頭をぽかぽか叩いて、アリエッタは脱出した。

 生来、目立つことはきらいだった。とくに能力関係は、好きではなかった。どうしたって、普通のひとたちから乖離してしまうような気がするからだった。

 アリエッタの理想は、港にあるルクタ家のひとり娘のアリエッタとして扱ってもらうことだった。


 父が帰ってくる前にはやく退散しようと、足早に去ろうとする。

 そのとき、離れた場所から自分を見ている者がいることに気がついた。

 シャープな車のすぐ傍で、箱のような物を持っている。

 とてつもなく、見覚えのある男だった。


「さすがだったな、アリエッタ。じつにみごとな手腕だった」

「シーリオ。あんた、どうして戻ってきたのよ」

「おばあさまから聞かなかったのか? ちょっと外に行って、すぐに戻ると伝えておいたのだが」

「その箱は?」

「一泊の恩と、以前いただいた饅頭のお礼をかねて、甘味などをな。わけあって、朝から開いている店を知っているのだ。おくちにあうとよいのだが」

「お礼って、あんた……」


 マスクのなかで、アリエッタは微妙な表情になった。

 礼というなら、あきらかにこちら側がするべきだった。酔い潰れたのを送ってもらったうえに、あんな居心地の悪い場所で一泊させてしまったのだから。

 思うままに、文句を言おうとする。

 が――


「……まあ、いいわ。わかった、あんまりもたもたしていると、おばあちゃん以外の家族も帰ってくるし、とっとと食べちゃいましょ」

「きみのご両親か? なにか不都合があるのか」

「あのねえ、独り身の娘が男を連れて実家にいたら、どうしたってそういうふうに見えちゃうでしょ。あたしもあんたも困るっての」

「……ああ、なるほど。理解した。が、もしもそうなったとしても、うまく立ち回ってみせよう」

「あんたにそういうのは無理だってば」


 アリエッタは、きびすを返した。優秀なはずなのに、なんだか間の抜けた同期の男と、港を歩く。

 かなり変なやつよね、とアリエッタはあらためて思った。連盟内では、頭にバカがつくほど真面目で知られている粛清官なのだが、その素顔を知っているのは、同期の自分たちくらいのものだろう。


 アリエッタ・ルクタ。

 シーリオ・ナハト。

 モモゼ・クライン。

 それから――ウォール・ガレット。


 この仕事をしていて、つらいことはたくさんある。

 ほんとうに、たくさんある。

 それでもアリエッタは、真につらいと思うことだけは、だれにも明かすことはなかった。かりに、ほかの同期たちが気づいていたとしても、それでも。


 少なくとも、今のアリエッタは、まだ平穏な気持ちだ。


「あんたさあ、昨日も聞いたけど、彼女のこと、ちゃんと好きなわけ?」

「ああ。その点にかんしては、まちがいない」

「あっそ。それなら、だいじにしときなよ。できれば、一生」

「無論、そのつもりだ……が、どうしてだ?」


 アリエッタは、小走りで船に向かった。マスク越しでも、振り向けば表情が見られる気がして、前を見たまま、こう言った。


「そうじゃないと、あたしが後悔する気がするから!」


 曇りの朝であった。

 が、昼からは、よく陽光が射す日でもあった。

 ふたりの粛清官は、めずらしく午前休を取ったが、午後からは、いつもどおりの職務に戻った。

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