ジャーヴィス・ロックステイル警弐級

問題爺かく語りき Ⅰ

 ――これは、本編のずっと前のことである。


「小生が思うに、主従関係というものは、であるといえる。主人はわがままにふるまうことが許され、従者はそのわがままを聞き入れることを強要されている。しかし、主人とはかならずしも自由な存在ではない。この主人が、仕えるにふさわしい格の持ち主であるということが不断に証明できなければ、まともな従者は離れてゆくものだ。主人のふるまいは、そうした前提のうえにこそ成り立っているものだ。――つまり、けして一方的な関係ではないのだ」


 男はひと息にそこまで言うと、プラスチックの容器にくちをつけた。

 その掌には、迷宮のようなしわが刻まれている。くちもとには、白く輝かんばかりのりっぱなカイゼルひげが蓄えてあった。

 老人である。

 対して、その前に座るのは、ひとりの少女であった。

 黙っているときの彼女は、その表情から感情を読み取るのがむずかしい。今もマゼンタカラーの瞳で老人を見つめているが、相手を尊敬しているのか、いないのか、話を聞いていたのか、いなかったのか、そんな簡単な推察さえも許していなかった。


 場所は、広大なジムナジウムの隅。

 中央の屋内グラウンドでは、十数人の男子が、ふたりずつに分かれて取っ組み合っている。レスリングの試合のようだった。履いているシューズが床と擦れあう、キュッキュという音と、男たちの荒い息遣いが、ジムのなかを包んでいた。

 

 その端っこに作られた簡易的な茶会の場は、我関せずといった様を呈していたが、そこで優雅にプロテインを飲んでいる老人は、ちらとグラウンドに目線を向けると、


「二番、四番、七番、腰の入りが浅い。つねづね言っているだろう、大樹の幹のように、どっしり構えるのだと!」


 その一喝に、指摘されたジャージナンバーの男たちは反応して、


「はっ、教官マスター!」


 と、元気よく返事をした。

 対面の少女が、あきれたように目をつむった。


「日ごろ、つまらないつまらないと言うわりには、なかなか楽しそうに指導しているではありませんか、ジャーヴィス」

「む。そのようなことを言っているかね」

「耄碌するほどの年齢ではないでしょう。ついさきほど、私があなたをたずねたときも、『つまらぬ、ああつまらぬ』なんて言いながら腕立て伏せをしていましたよ」

「むむ。であるならば、無意識の所作である。許せよ、チェチェリィ警壱級」


 指先でカイゼルひげをひっぱる、いつもの癖を披露して、ジャーヴィス・ロックステイルは笑った。硬い表情筋だが、いざ笑うときはなかなかに豪快であった。

 反面、話し相手であるリィリン・チェチェリィは笑わなかった。

 むしろ、不満げだった。


 組み手にいそしんでいた青年たちの、最後のひと組が勝負を終える。

 本日はここまで、という老人の一声に、みなは至極丁寧な礼を残すと、更衣室へとはけていった。

 最後のひとりが消えるのを待ってから、リィリンが聞いた。


「それで?」

「それで、とは?」

「なんのおはなしだったか、忘れてしまいましたか? もしそうなら、教えてあげましょう」


 はてなんだったか、と首をかしげるジャーヴィスに苛立ちを覚えて、リィリンは言った。


「いいですか。粛清官には、パートナーが必要です。これは、規則でそう決まっているのです。にもかかわらず、なんとパートナーを持つことをずっと拒否して、ひとりで活動し、仕事がないときは訓練場で補佐課の若者たちを鍛えてばかりの、非常に困ったさんの粛清官がいます」

「ふむ。だれだ?」

「あなたですよ、ロックステイル警弐級! もう、どうしてとぼけるんですか」

「とぼけているわけではない。まず第一に、小生はパートナーを拒否しているのではない。むしろ欲しがっているが、条件が合致しないのだ。そしてこの訓練場で鍛えているのは、おのれ自身だ。補佐課の若造どもを指導するのも、おのれに返ってくるものが多いからだ」


 その減らず口に、リィリンはぐぬぬと下唇を噛んだ。

 ――問題爺もんだいじい

 この男についているあだ名を、心中だけでつぶやく。

 持参してきた自信◎のお茶のブレンドを拒否されて、目の前でいかにもまずそうなプロテインドリンクをごくごく飲まれても怒らないリィリンだが、なんど業務上の問題を説明してもわかってもらえないことには、やはり立腹もする。


「おじいさんの屁理屈なんて聞きたくありません。こうならないように、私も日ごろから気をつけないと」

「む。きみは年を取らないだろう」

「でも、感性は確実に老いていますからね。すぐに問題婆なんて呼ばれるようになりますよ」


 絶対にならない気がする、というジャーヴィスの目線を、リィリンは無視した。


「とにかく、困るのですよ、あなたのような人材にいつまでもこんなところで遊ばれていると」

「ふむ。遊んでいるようにみえるかね」

「ことばの綾ですよ。ここで教官役をやってもらっていること自体は助かっています。おかげさまで補佐課のレベルは着実に上がっていますし、粛清官に直接の指導を受けて、彼らのモチベーションの向上にも繋がっているようですし」


 このジムは、本部の敷地内にある。

 いつのまにやらジャーヴィスの占有する体育館のようになっており、補佐課に配属された新人たちは、ここで本職の肉体派粛清官から一流の体術を教わるというのが、もうずいぶん前から慣習となっている。


「ですが、本来の職務を忘れてもらっては困ります。粛清官は、粛清官と組んで現場に出てください」

「む。悪者退治の仕事なら、ときおり受けているだろう」

「ほら、その言い方! その素人みたいな表現が、あなたに粛清官意識が皆無であることを明かしているのですよ。だいたい、就任から何十年も経つのに、これまでパートナーを持たずにやってきたなんていうのがおかしな話なのですよ」

「逆ではあるまいか。これまでやってこられたのだから、この先も必要ないという結論になるではないか」

「あなたが昇進したのは、黒抗争の臨時態勢のなかで功績を挙げたからですよ。いまの偉大都市はあくまで平時ということになっているのですから、きちんと規則に従ってもらわないと」

「むむむ」

「なにを初耳みたいな顔をしているんですか! 全部、これまでに話したことです!」


 そのとおりなのだった。

 なお、ジャーヴィスの所属は、第二指揮だ。いちおう、リィリンは所属のボスということになっている。

 いくら古い付き合いといえど、上官に対してこの言動というのが、ジャーヴィスという老人の、手のつけられない性格をあらわしていた。


「それなのにあなたときたら、いっつもいつも、言いわけばかり。いったいどんな粛清官なら組む気になれるのですかと聞いたら、『自分が仕えるにふさわしい主人のみ』だなんて、こんなに返答に困ることもありません。まずもって、パートナーというのは主従関係なんかではありませんからね」

「それは、小生以外の者にとっての話だ。小生が望むのは、漢一匹であることか、あるいは、この漢が認める真の強者――わが首に、鉄の輪を繋ぐ主人のみ。それが叶わぬなら、連盟の籍を抜けることもやぶさかではない」

「そう極端なことを言われても困ります。そもそも私としては、あなたのことを警壱級位に推したいくらいなのですよ。ここでの訓練風景を見るに、後進教育は嫌いではないのでしょう? それならおとなしく年下の優秀なパートナーをみつけて、正しく指導してですね……」


 くどくどと説教する最中、リィリンは相手がカイゼルひげの両端を指でひっぱっていることに気がついた。

 あきらかにふざけている。


「高い高ーい、しますよ?」

「それもけっこう。小生としては、蒼白天使にしっかりと敗北して仕えることができるならば、まったく異存はない」

「あいにく、私は身内と本気で戦う気なんて、これっぽっちもありませんよ。もっとも、あなたを引き取ることもこれまで考えなかったわけではないですが、タイミングに恵まれないことばかりでしたね。本心をいうなら、必要以上にあなたの世話をさせられずに済んだのは嬉しいのですが」

「ふはっは、こいつは手厳しい」


 笑い、プロテインをがぶっと飲むジャーヴィス。

 もちろん、笑っている場合などではない。

 リィリンは嘆息した。


「……あなたが尊敬できる主人とやらを求めるのは、大昔に通っていた学校の影響という話でしたか?」


 老人はうなずいた。

 ジャーヴィスが若かりしころ、中央連盟にまつわる各名家では、深刻な人手不足が起きていた。

 信用できる実力を持った従者の数が、絶対的に足りていなかったのだ。

 そこで、名家に仕えるに値する知力や武力を有したうえで、作法にも詳しい一流の人材を育て上げることが目的の養成機関が作られたのだった。


 ジャーヴィスにしてみれば、輝かしき青春の一ページである。

 よく学び、鍛え、友と笑い合った。

 そして仲間たちは、みな立派に巣立っていった。

 もっとも仲のよかったビルケット・ナウンという男は、かの盟主シュテルン家に送られて、漢としての生涯を同家に捧げるという意思を固めていた。

 だが、ジャーヴィスだけは、いつまで経っても、自分が求めるだけの「格」を持った主人に出会うことができなかった。

 こころから尊敬できる人物に仕えたい――そうした欲望を、ジャーヴィスは高望みだとは思っていなかったが、少なくとも、決定的に誤算していた。


 ジャーヴィスが真の敬意を払えるのは、武力の持ち主だった。

 ほかの仲間たちとは違って、ジャーヴィスは根からの武闘世界の男だったのだ。

 頭では、相手が自分よりも優れた人物であることは理解している。

 信じられないほどの大金を稼いでいたり、広く社会の役に立つ砂塵能力の持ち主に出会うたびに、ジャーヴィスは、この相手はとてもすばらしい人間で、自分の主人となる資格を立派に有しているのだと、そう強く思いこもうとした。


 だが、うまくいかなかった。

 自分は、自分よりも力で劣る人間に仕えることはできない――。

 そんな事実に気づいたとき、ジャーヴィスは愕然とした。どこにもまともに奉仕できない、不能な執事であるとして学校を追い出されて、路頭に迷った。

 ひょんな偶然から粛清官の肩書きを得なければ、どんな人生を送ることになっていたのか、自分でも想像がつかなかった。


 あれから何十年と経過しても、ジャーヴィスの呪いは解けないままだった。

 今でも、ジャーヴィスは出会うことのできなかった主人の姿を探している。

 ゆえに、彼はいまもひとりだ。まるで理想の花嫁像を追い続けた独身男性のように、そのとなりにはだれの姿もない。

 

 そして現在は、なかばあきらめの境地に達していた。

 老人らしからぬ筋骨隆々の肉体ながら、その威圧感は、以前よりも薄れている。

 いつか仕える主人のために、半世紀もの長いあいだ鍛えた心身も、いずれはその存在意義を完全に見失い、萎んでいくのかもしれない。


 だが、いいかげん説得にやってきたこの少女姿の粛清官は、それを許すつもりはなかった。


「ジャーヴィス」

「うむ」

「働いてください」

「そうしているつもりだ」

「粛清官として、です」


 堂々巡りになるかと思いきや、リィリンは「ですが」と言葉を継いだ。


「私も、いよいよ骨身に染みて、あなたが本心から……いえ、もはや魂といえる深い領域から、パートナーの実力に警壱級クラスを求めているということは、理解しました。もっとも、めんどうなことに、ではおめがねにかなわないみたいですが」

「む。こちらの希望を理解してもらえてなによりだ」

「そういうわけで――あなたには、来月に官林院を出る、とある新人の粛清官と組んでもらおうかと思っています」


 ジャーヴィスは、固まった。

 反面、リィリンは、ここにきてにっこり笑顔である。


「……前後関係がおかしくないか? 警壱級」

「おかしくありませんよ。私が言っている新人は、その実力が警壱級クラスなのですから。特例で入学が認められた子で、まだ十三なのですけどね」


 ジャーヴィスの疑惑のまなざしが、いっそう強くなった。


「少女どころか、へたすれば幼女ではないか。まさか自分の話でもしているか」

「失礼な! 幼女どころか、私はもう中年もいいところですよ」

「ならば、冗談ではないと?」

「ええ、まったくそのつもりはありません。あなたは、この訓練場にひきこもってトレーニングばかりしているから聞いていなかったかもしれませんが、本部では噂で持ち切りだったのですよ――この百年で、おそらく最高の才能が現れたと」


 ジャーヴィスは、相手の蒼白の顔色を窺った。

 いつまでも艶をうしなわない陶器のごとき肌には、一切の動揺は見えなかった。どうやら本心で言っているようだ――だが、そうだとして、まだ疑念は残る。


「小生は、小生以外の評を信用していない。チェチェリィ警壱級、あなたのことは認めているが、それとはべつの話だ。第一、強さとは、経験を免れることはできない。精神が幼い者には、真の強さは宿らない」

「であればこそ、その目でたしかめなさい。これから会う人物が、あなたが長年追い求めた、理想の主人のうつわであるかどうかを、ほかならぬ自分自身の目で」


 ジャーヴィスは、即答できなかった。

 その理由を、相手は正確に見抜いていた。


「こわいのはわかりますよ。いいか悪いかはさておき、年を取ると、どうしても変化がおそろしく感じるものです。きっと、あなたは孤独に慣れすぎたのでしょう」


 なぜだかうらやましそうな声色に、ジャーヴィスは耳をかたむける。


「ですが、勇気を出さねば、だれも真に幸福にはなれません。……幸運のチケットを持ってきた古い知り合いに、多少なりとも感謝してもらいたいものなのですが?」


 だれもが絆される可憐な笑みに向けてジャーヴィスがうなずいたのは、たっぷり数十秒も経ってからのことだった。

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