命の水は微笑まない Ⅴ

 静かな揺れで、アリエッタは目を覚ました。

 からだを揺すられているわけではなかった。

 単純に、床が揺れていた。床だけではなく、壁も天井も、視界のすべてが、一定の感覚で左右に揺れ動いている。

 

 それは、アリエッタにとっては身近な感覚だった。

 なにもめずらしくはない。

 ここは、船のなかだ。偉大都市の港に泊まっている、数ある小舟のなか。

 ――アリエッタの、生まれた家である。


「……なんだ、実家じゃん」


 つぶやいて、アリエッタは二度寝に入ろうとする。

 が。


「って、いやいやいやいや!!! なんで実家にいるのよ、あたし!!」


 そんな違和感にきづいて、起き上がる。二日酔いのせいか、頭がガンガン痛むが、そんなことに構ってはいられなかった。

 昨日はどうしたのだったか。

 シーリオと飲みに行ったのは覚えている。階級が上がってからは、ああして素で話せる相手もいなくなってきたから、まあまあ楽しかったのも覚えている。

 会話の内容も、ある程度は覚えている。

 最後は怒って、というより怒りでごまかして、席を立った気がする。

 ……それで、それからは?

 

 まるで覚えていない。

 服装は、きのうのままだ。念のため確認したが、脱いだ形跡はなかった。

 アリエッタは、おそるおそる部屋の外を覗いてみた。

 そこにいたのは――


「おばあちゃん」

「ふご」


 目を疑うほどに狭いリビングでお茶を飲む、祖母の姿であった。

 顔には、深いしわが刻まれて、表情もよくわからない。だが、体調はそこまで悪くなさそうだ。


「おばあちゃん、あたし昨日、どうやって帰ってきた? スーツの男のひとが、送りにきたりしちゃってた?」

「ふご。ふごごふご」

「あ、来た? 車で? それで、どうしたの?」


 歯槽が悪くて、入れ歯がすぐに取れてしまうから、最近の祖母の話は、常人にはなにを言っているのかわからない。それでも、アリエッタは孫娘パワーで解読できるのだった。


「ふごふーご」

「えっ。うそ、泊まっていったの? お茶を出したら、座ったまま寝ちゃったから、お父さんの部屋に移動してもらったって?」

「ふごふごふごふご」

「それで、ついさっき起きて、出て行った? えー……うそ、それほんとう? うわー、それって。うわぁ、まじー?」


 アリエッタは悶絶した。

 過去に、訳あってアリエッタの生家がここであることは、同期たちに知られていた。それでも、家のなかに招いたことがある者はおらず、恥ずかしく思った。

 しかし、もとを辿れば自分の落ち度。

 もうにどとお酒は飲まない、とアリエッタは生涯200回目くらいの誓いを立てた。


「ふご!」

「ああ、お茶? うん、もらう……」


 アリエッタは、渡された湯呑みに口をつけた。

 上等な茶ではない。粗茶のたぐいだ。それでも、肝臓を酷使した次の日には、染みわたるようでおいしかった。

 期せずしてくつろぎなら、アリエッタはなんとはなしに内装を確認した。生活に必須なもの、とくにインフラが壊れたり、欠けたりはしていないか。

 ただでさえ砂塵世界で生きるのは大変なのに、船中生活には、さらに多くの困難がつきまとう。船が悪いと、いつ沈んでもおかしくないから、死活問題だ。


 アリエッタの住まいは、いちおう十番街の工業地帯の傍にあるマンションということになっている。

 が、実際に寝泊まりしているのは、ほとんどの場合で工獄だ。そして、たまに留守にすることがあっても、心配ですぐに実家の様子を見にくるから、家に帰ることはあまりなかった。


 アリエッタの家族は、みなこの港に住んでいる。

 住居を持つことができなかった貧困層が、苦肉の策で住まうことに決めた船の社会。男たちの多くは漁師で、ここから夜半遊郭へと出稼ぎにいく。

 アリエッタの父もそうした生業で、今は遠洋に出ているから、留守にしているようだった。壁にかかった共有カレンダーには、ちょうど本日帰還する予定とあった。


「お母さんは? ああ、普通に働きに行っているんだ。今はどこなんだっけ。十四番街で、ガイドさん?」

「ふごんご」

「ずいぶん楽しそうにしているって? なら、いいけどさ」


 アリエッタは、ほんの少しだけ不満を覚えた。

 働く理由のひとつは、家族をラクにするためで、毎月仕送りをしているのに、両親は仕事をやめることはなかった。

 もっとも、彼らの場合は生きるため以上に、やりがいを感じてのことだとはわかっているのだが。

 ワーカホリックは、血筋なのかもしれない。その証拠に、祖母も今、手が空いたとみるやいなや、裁縫の内職をはじめた。


「おばあちゃん、前も言ったけどさ、あたし、いつまでも船の生活って心配なんだけど。どこか家を買うか、借りるかしない? あたし、援助するからさ」

「ふごー」

「船から出る気はないって? いやー、ずっとここで暮らしてきて愛着があるのはわかるけどさー。おばあちゃん、病気なんだし。病院生活にしろなんて言わないけど、もっとゆっくりできる環境はあるじゃん」

「ふんご!」


 うるさいと怒られてしまった。

 ちょびっとイラつくアリエッタだが、怒りだすようなことはしなかった。頭の血管を太くするのは、職場だけでじゅうぶんだ。


「わかったわよ。それじゃあたし、また来週末くらいには帰ってくるから、またね。お父さんとお母さんによろしく」

「ふごふご」

「危険のないようにって? あはは、悪いけど、それだけは保証できない仕事かな。って言っても、今あたしほとんど現場に出ないし、めったなことは起きないけどねー」


 工獄のことが気がかりで、アリエッタは席を立った。軽く洗面台で準備をして、マスクをすぽりと被る。きょうのような一日の始まり方でも、マスクさえすればいろいろと不都合なものを隠せるのは、この仮面社会のいいところだと言えた。


 アリエッタは、船を出た。

 昨日の晴天はどこへやら、いつもの曇り空である。

 港には、アリエッタの家と同じく、厳密には不法のかたちの小舟がずらりと並んでいた。なかには、櫓櫂船のような外見のものもある。どれもが、ホーサーと呼ばれる縄で、係留柱にくくりつけられて、波に揺れていた。

 アリエッタとしては、少なくとも船自体をグレードアップさせたかったが、亡くなった祖父の残した家だということで、それも断られてしまっていた。

 が、今ではそれで正解だったと考えている。このあたりは、よその住宅地よりも住民たちの結びつきが強い。変に目立つよりも、横並びで同じほうが、ご近所付き合いもうまくいくというものだ。


 その証拠に、港を歩くアリエッタは、次から次へと声をかけられた。


「おっ、グインんところのじゃじゃ馬娘じゃないか、元気か?」

「元気でーす」

「なんかだるそうにみえるけどなあ。また酒の飲みすぎか? 父親譲りだよなあ」

「うるさいでーす」

「ほらよ、もってけ、けさ獲れたばかりの魚だ!」

「ちょっと、生魚なんて要るわけないでしょ。せめて焼いたのちょうだいよ」

「つってもなぁ」

「おばあちゃんとこ届けといてよ。きっとおかえしがあるから」


「アリエッタおねえちゃーん」

「おー、よしよし、ちびっこども」

「おねえちゃん、インジェクター使ってー」

「だーめ。見世物じゃないんだからね。それにあれ、痛いんだから」

「よわむしー!」

「そー、おねえちゃん弱虫なの。ほら、海沿いは危ないからあっち行って遊びな」

「しゅくせーかんなのに弱いのー?」

「そうなの、くびにならないように必死なのよ」


 きもちいいな。

 波風になびく赤い癖毛をおさえながら、アリエッタは沖合いに目をやった。

 漁船の群れが、こちらに帰ってきていた。

 きっと、どれかに父親のグインが乗っているはずだ。アリエッタは挨拶するか迷った。が、心配症の父親は、顔をあわせるといろいろと聞いてきて長いから、今日のところはやめておこうと考える。

 それよりも気がかりなのは、シーリオだった。

 さすがに迷惑をかけた自覚がある。戻り次第、電話をかけよう。


 だが、アリエッタはそのまま歩き去らなかった。

 とある異変に、気がついたからだ。

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