命の水は微笑まない Ⅳ
「それなら、ど-なのよ、あっちのほうは」
「なにがだ」
「そりゃプライベートよ。なにか変わったことってあるわけ? さきに言っておくけど、あたしはとくにないわ。でも、そりゃそうよね。毎日あれだけ仕事させられて、しかも職場にばっかり泊まらされて」
アリエッタが普段相手にするといえば、品性下劣な囚人ばかりだ。
遊女と会うのが趣味の上官を叱る毎日なのも相まって、すっかりセクハラに強くなってしまった今日このごろだった。
「まあでも、あんたにも変化なんてあるわけないか。あたしと同じ状況なわけだし、へたしたらあたし以上に業務にフルコミットだし……って、どうしたのよ」
「……いや」
「なんで顔をそむけているのよ」
「いや……ナンデモナイゾ」
「なんか変よ⁉ えっ嘘、まさかいいことあったの? 女できたの⁉ あんたにかぎって、そんなはずないわよね」
肩をゆすられたシーリオの返事は、無であった。
能面がめずらしく、汗を流して、くちを真一文字に結んでいる。
焦っている証拠であった。
むしろ、困っている様子であった。
「うそよ、なんであんたが……。ていうか、どこでどう捕まえたわけ⁉ あたしたちみたいな組織の歯車に、そもそも出会いなんてないじゃないのよ!」
「やめたまえ。この状況にもっとも頭を抱えているのは私自身なのだ」
「どういうこと。意味わかんない」
「なぜ私が、というのは私自身が言いたいことだ。捕まえたというより、捕まったというほうが近いのか……。いや、それもおかしいのだが……。とにかく、私にも私のことがわからないのだ、最近は」
「な、なんかわかんないけど深刻なのね」
どうやらすばらしく羨ましい状況というわけではなさそうだとみて、アリエッタの精神はどうにか均衡を保つことができた。
そうすると、芽生えるのはただの興味だった。
「ねえねえ、どんなひとなの? 年上? 年下? まさか仕事関係……じゃないわよね。部下に手を出すタイプでもないし」
「すまない、これにかんしては完全に黙秘させてもらう」
「それはずるすぎるわよ!」
「私の命にかかわる話なのだ!」
「どんな恋愛よ、それ!」
それではただの脅迫である。
あまり思い出したくないことだったのか、シーリオはずーんと暗くなった。
肘をつき、額のまえに両手を組む。
「アリエッタ、きみならばどうする? もしも長いあいだ、こうだという関係が完全に決まっていたはずの相手と、ある日突然、関係性が変わったとしたら」
「……抽象的すぎない?」
「もうしわけないが、これが限界だ」
「まあ、いいけど。うーん、でもむずかしい話ね。それって、ようはあんたとあたしが急に付き合うみたいな話でしょ」
「比べ物にならないくらいレベルに差があるが、方向性は合っている」
自分で言っておきながら、その返答にじみに傷ついたアリエッタだが、当人が認めていないので、問題はないということになった。
「わかんないけど、だいじなのはこれまでじゃなくて、これからなんじゃないの? つまり、あんたが今相手のこと好きなんだったら、べつにどうにかなるんじゃないの? それはどうなのよ」
「……その点にかんしては、問題ない。むしろこの場合、好意があるから問題であるとさえ言える」
「やっぱりあんた、頭いいぶっているけどバカね」
アリエッタのデコピンが炸裂した。
「あのねえ、そんなわけないでしょ。好きだったらどうにでもなるのよ、最終」
「そんなに単純な話ではないのだが……」
「そう思っているんだとしたら、それはあんたが勝手に複雑にしているだけよ。当ててあげようか? 向こうは、自分たちがこうなって当然みたいにしているでしょ」
「なぜわかる?」
「まあ~そりゃあんたと違って経験が豊富なんだから当然……」
言いながら、どんどん萎んでいくアリエッタ。
「だったはずなんだけど、今となっちゃこの堅物眼鏡のほうが先をいっているか……。あ~~~もうっ、あたしもはやくいい男見つけなきゃ」
「どうしたのだ、藪から棒に」
「……あんたさ、あたしのおばあちゃんのこと、覚えてる?」
シーリオは、昔の記憶を掘り出した。
覚えている。むしろ、かなりよく覚えている部類の思い出だった。
官林院時代、最後の卒業試験で、シーリオが組んだのが、ほかでもないアリエッタだった。
院の評価でも能力的な相性がいいとされており、また当人たちも優れたチームワークを発揮した。実際に配属されたあとは、互いに違う部署で、ほかの粛清官と組むことになりはしたが、いい経験であったことには違いない。
ともあれ、その卒業試験の前日に、官林院にたずねてきたのが、アリエッタの祖母だった。孫娘をよろしくと、手作りの饅頭を持ってきた彼女に、アリエッタは恥ずかしいからやめてと叱りつけたが、シーリオはありがたく頂戴した。
聞くところによると、その祖母は、かなりめずらしい症例で、肉体が砂塵障害とうまく付き合っており、ほかの病気でいう寛解に近い状態となっているようだった。
いまいちなにを言っているのかわからなかったのは、同病気によくある言語障害かとシーリオは思ったが、アリエッタいわくそうではなく、たんに老化と抜け歯にともなうものだったらしい。
「あのおばあさまがどうかしたのか?」
「……しかたないことだけど、いよいよちょっと、限界みたい。まあ、ようは老衰よ、老衰」
「そうだったのか……あまりよくないのか?」
「そうね、正直。あたしとしては、十年以上まえから覚悟していたことだから、今そこまで悲しいかっていうと、むしろ大往生で喜ばしいって感じなんだけど……」
アリエッタは、不満げに唇をゆがませると、
「おばあちゃん、あたしがちっちゃいころから、あたしの花嫁姿が見たいってうるさかったなーと思って。しかもあたしも、十代のころはこんな仕事に就くなんて思ってなかったから、どうせすぐに結婚して子育てに追われるような二十代になるわよなんて適当なこと言っちゃって、そのせいで早々にウェディングドレスまで作っちゃってさー。あ、裁縫やってたのよ、おばあちゃん。あの世代で、ブランカーだったから、手に職をつけていて」
「いいご家族ではないか」
「そりゃそうよ。でもプレッシャーっていうか、気がかりっていうか。もう、こんな仕事やめたろうかなって思うっていうか。……まあ、あのバカ上官を置いてあたしがやめたら、あの組織は終わるんじゃないかって思うんだけど」
あながち冗談ともいえない話だった。今の工獄は、アリエッタ抜きでは回らないだろう。
「ジレンマよ。どーしようもないって感じ。あんたに話してもどうしようもないっていうのもわかっているし。ああ、くさくさするわ」
「ふむ。たしかに私には、月並みな意見しか返せないが」
シーリオは二杯目を飲み干すと、言った。
「きみのおばあさまからしても、きみが無理な時期に、無理な相手を見つけて結婚するよりも、偉大都市のために立派な職務に就いて、多少つらくとも充実した毎日を送っているほうが、喜ばしいのではないだろうか」
「……卒のない回答ね。さすがは首席さまだわ」
「卒はないかもしれないが、少なくとも私自身の経験を基にした、自信のある意見ではある。なんといっても、きみのおばあさまは、きみが今の職に就くことを心の底から誇りに思っていたようだったからな。きみが離席しているあいだに、私に嬉しそうに話していたよ」
アリエッタは、なにも返さなかった。
いつのまにか机に突っ伏して、シーリオのほうではなく、静かに回る円盤フロアの外に目を向けていた。
夜景の向こう側には、一部、光がまったくない空間があった。
海ということだ。
そしてそこは、アリエッタの故郷でもある。
「……アリエッタ?」
「……。」
「よもや私の話が退屈で寝てしまったわけではあるまいな」
「……。」
「耳が赤いが、やはり飲みすぎたのか?」
「あーもう、うっさい、うっさい! ばかばかばかばーーーーか」
顔をあげてみれば、やはりアリエッタの顔は、彼女の赤毛に劣らず、燃えさかるように染まっていた。
「ひどい言い草だ」
「もう、ムカつくわね、ほんとに」
「なにがそうきみの逆鱗に触れたのか、私にはいまいちわからないのだが」
「そういうところよ。なんかこう、あたしのなかの乙女的な欲求が、ある程度のところまであんたで解消されているっていう、そういう状況がムカつくのよっ。それも自覚がないうえに、今は彼女持ちっていうのがもう、超ムカつく」
うぎーっと、およそ乙女らしくない声をあげると、アリエッタは席を立った。
「もう帰る。ごちそうさまっ」
「待ちたまえ。その足取りを見るに、酔いが回っているのだろう。フロントに言って、ロータリーに車を持ってきてもらう」
「いーわよ、歩いて帰るからっ」
「どこに戻るつもりかは知らないが、どこであろうとも長距離に……」
言葉の最中、シーリオは慌てて腕を伸ばした。
ふらついたアリエッタが、あやうく倒れるところだった。
腕のなかにおさまったとき、アリエッタは驚いたように目を見開いたが、すぐに文句が飛び出ると思ったシーリオの予感とは裏腹に、そのまま眠るようにして目を閉じてしまった。
なんとはなしにまわりを見ると、バーテンと目が合った。
気まずい。
「……彼女、普段はもっと強かったと思うのですがね」
「お疲れなのでしょう。先に軽食を勧めるべきでございました」
バーテンは受話器を手にすると、ナハトさまがお帰りです、お車を準備するように、とフロントに通達した。
さすがは一流ホテル、気配りの行き届いたスタッフが揃っているといえた。
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