命の水は微笑まない Ⅱ
――以下に、お役立ち情報を記す。
シーリオ・ナハトという男の疲労具合を図るのには、ふたつの判断材料がある。
その一は、吸い殻の量である。
第七執務室のおおきな灰皿がこんもりしていたら、激務に追われている合図だ。
その二は、髪がぴょんぴょんしているかどうかだ。
なぜだか、疲れてくると髪が何束か、ポニーテールの結び目から暴れて飛び出してくる。理屈は、謎である。
この日のシーリオの頭は、八束ぴょんぴょんくらいだった。
かつ、こんもり灰皿はふた皿めである。
シーリオという男は、じつは整理や掃除のたぐいが得意で、かつ大好きなため、清掃員に頼らずに自分で執務室を清潔に保っている。
本来の部屋のあるじがいつ帰ってきてもいいように万全にするのが今の自分の使命であると思っているが、この日はそんな殊勝な志も萎れてしまうほどの激務であった。
(終わらない)
(まるで書類地獄だ)
(なぜ第七指揮はこうも人手が足りない)
思わず環境を恨んでしまうのも詮無きことだった。
偉大都市の犯罪は止まらないし、自分は次から次へと降ってくる粛清の提案書を適切に処置して、上に返したり下に送ったりしなければならないし、本来その仕事をするはずの上官は、もう三週間は姿を見ていない。
どうしようもないのだ。
昨日などは、半分眠ったまま現場でインジェクターを起動したが、気がついたときには、周囲で七人ほどの人間が凍っていた。
「寝たまま雑魚が処理できるようになりゃ一人前だ」とはいつかの上官の言葉だったが、いつのまにかできるようになっている自分に覚えるのは、満足感ではなく憐憫であったりした。
ともあれ。
(なぜだ)
(なぜ仕事が終わらないのだ)
(なぜこの街からは犯罪が消えないのか)
頭のなかに大量のクエスチョンマークを浮かべながらも仕事の手は止めないあたり、さすがのハイスペックといえたが――。
ベルルルルルル
ベルルンルンルンルン
ベルベルーーーーーーッッ
けたたましく室内にベルが鳴れば、さすがのシーリオも顔を上げざるを得なかった。
訪問者だ。
しかし、この時間は、なんのアポイントメントもないはずだ。
シーリオは考える。
部下の場合、ノックをしてから自分の手帳でロックを解除する。
もっとも、数年前に入った失礼な部下はノックをしないが、かといえベルを鳴らすこともない。はじめのうちは叱っていたが、最近はめんどうになってきた。
比較的に最近入った、天真爛漫を超えて破天荒といえる部下は、たまにロックの解除を忘れてドアノブを回し、その怪力で破壊して普通に入ってくることもあるが、その場合でもベルは鳴らない。鳴るのは警報だ。
つまり、今は外部の者がここに来ているということになる。
が、連盟の職員がなにかを持ってくるのであれば、事前に内線があるのが普通だ。
寝耳に水のアラーム。
いやな予感がする。
やりすごしたい、とシーリオは思った。
居留守は使えないだろうか? 使える気がする。
シーリオは息をひそめた。
「おかしいわね、いないのかしら」
扉越し、声がした。
「ちょっとシーリオ、いるんでしょ。開けなさい」
いやな予感が的中したかたちとなる。
「こら、めがね太郎、開けなさーい! ……とか言っているけど、これでなかにいるのがシーリオじゃなかったら気まずいわね。万が一タイダラ警壱級だったらどうしようかしら。まあ、そうしたら呼び出されたことにすればいっか」
なにか好き勝手を言っている。
「あのねえ、せっかく僻地に飛ばされたかわいそうな同期が挨拶に来ているのよ。どうせ最後には開けるんだからはやくしなさいよ。はやく開けないと、あんたが官林院時代に人気のないところで隠れて泣いていたのを言いふらすわよ」
限界であった。
「そんなことはしていない!」バタン!
「していたでしょうが。あたしちゃんと見たんだからね」
「あれは……タバコの煙が目に染みただけだ」
「そういえばあんた、あのころに背伸びして吸いはじめていたわね。今となっては立派なヘビースモーカーよねー。べつにいいけど、たまには換気しなさいよ。自動換気だけだと、結局無理があるんだから」
勝手にずかずかと踏み入ってくる女性に、シーリオは苦々しい表情を浮かべた。
アリエッタ・ルクタ。
官林院時代の、同期である。
彼女と顔を合わせるのは、おもに警壱・警弐合同会議のときだ。
会議のタイミング以外だと、年度末に企画される同期の飲み会がおもだが、アリエッタの場合は、時おりこうして訪ねてくることがあった。
本部の外にいる彼女がここに来る理由は、まちまちである。
「ああ、疲れたわ。でも、せいせいした! これできょうはフリーになったしね」
「今回はなんの用で本部に来たのだ」
「ちょっと輸送の頻度を減らしてもらいたかったから、その直談判。あとは――こっちのがメインだけど――白縫警壱級の職務怠慢の報告! 深刻だから、きちんと口で言いにきたわ。バックオフィスのひとたち、困ってたけど!」
「無駄なことを。治安局の内部の問題は、治安局にしか解決できまい」
「あたしに言わせれば、まったく悪しき風習ね。だいじなのは第三者委員会の存在よ。適切な監視が、風通しのいい組織を作るの! それになにがムカつくって、粛清官以外だとそういう制度がちゃんとしているのがムカつく!」
しかたないことだろう、とシーリオは思う。
強さがそのまま偉さになる自分たち実働部隊に、外の常識はあまり通じないものだ。
とはいえやりすぎると、自分の上官のように深刻に訴えられたりもするのだが。
「あーーーもう、なんであたしばっかりあのだらだら色ボケ粛清官の世話しなきゃいけないのよー! あたしの仕事なんか、もうほとんど工獄の全部よ!? わかる? 全部! 第三指揮の仕事は、ぜーんぶこのあたしが回しているの! そんな粛清官、ほかにいるわけが……」
言葉の最中、アリエッタは第七執務室の机に視線をやった。
そこにあるのは、まるで城塞のようになっている書類の山だった。
それと、作画が崩れているシーリオの姿である。
「……いたわね、ここに」
「苦労しているのはきみだけではないぞ」
「まあ、あんたにかんしては認めてあげるわ……」
「私も、きみの勤務状況に改善の余地があることは認めよう」
あくまで遠回しな言い方を貫くあたり、この男である。
ふたりには、共通点が多い。
同期であることは前述したが、年齢も同じで、就任時期も同じで、今や階級も同じ。そして、数少ない警壱級位のパートナー粛清官である。
もっとも、より厳密にいうなら、シーリオたちの代は、そのほとんどが警壱級に付くことになった、後にも先にも唯一と思われる大豊作の世代ではあるのだが。
なお、本部にはモモゼ・クラインというべつの同期もおり、女性同士ということもあって、本来アエリッタが訪ねる優先順位は彼女のほうが上なのだが、そちらはそちらでうまくいかない事情があった。
「クラインくんはいそがしかったのか? 私よりも先に訪ねたのだろう」
「モモゼ? うん、まあ、ダメもとでね。でもほら、あの子は第一でしょ、さすがに情報局のベルを三十回も鳴らせないし」
「ここだからといって三十回も鳴らしていいわけではないぞ」
「三百回だって鳴らせるわ――とにかく、そんなことはどうでもよくて」
バン! とアリエッタは机を叩いた。
「飲みに行くわよ、シーリオ!」
なにをいうかと思えば、そんな提案だった。
「無理を言わないでくれ。まだ仕事が終わっていない」
「あんたって、頭いいけどバカよね。あのねえ、終わるわけないでしょ、こんなの。やらせようとしてくるほうが間違っているのよ」
「……それも一理あるが、こちら側の非でもあるのだ。単純に、第七の処理速度が高くないというのは」
「タイダラ警壱級はしょうがないとして、あんたの部下はなにをやっているのよ」
「ソファで勝手に居眠りをしたり、そこのドアを元気に破壊したりしている」
「なんで第七っていつもメンツが終わっているのよ……」
自分に聞かれても困る、というのがシーリオの本音だった。なぜかは知らないが、やってくる増員はひと癖超えて、千癖ほどある人間ばかりなのだった。
「というか有能なのもいたでしょ。あの銀髪の美人の子。あの子にやらせなさいよ」
「バレト警肆級か? 彼女なら、あいにく今はいそがしい。タイダラ警壱級の働きで、新規の後方支援部隊が作られてな、その教官に選出されたのだ。事実上、彼女の管轄部隊となるから、そのための訓練に追われているのだ」
「ああ、噂に聞いたわ。例の狙撃部隊ね。あれ、タイダラ警壱級の息がかかっていたのね。ふぅん」
余計なことを言ってしまった、とシーリオは思った。疲れていると、どうも口が滑りやすくなる。
「まあいいわ。で、今日付けで返しておきたいのはどれ?」
「……ここからここまでは、本日ちゅうにあげておきたい」
「なんだ、たいした量じゃないじゃない。しょうがないわね……ほら、ペン貸して」
サイドテーブルにつくと、アリエッタは上から目を通し始めた。
シーリオは、顔をゆがめた。
「きみにこの指揮の状況がわかるとは思えないのだが?」
「そりゃ第七の事情は知らないけど、提案書を読んで、現場側の判断で難易度を出すくらいはできるわよ。どうせ、実際に欲しいのなんて人日の目途くらいでしょ? あんたんとこの所属のスケジュールがあれば、なんとなく当たりはつけられるわよ。最終チェックはあんたがすれば、それで問題なくない? 違う?」
……なにも異論はなかった。
どうあってもひとりでは終わりそうにない量に、シーリオは虚勢を張る気概すらなくなった。
「すまない」
「べつにいいわよ。そのかわり、おいしいところ連れて行きなさいよ」
「店は私が決めるのか」
「そりゃそうよ。工獄から出られなくて中央街の情報に疎くなっていく怖さ、いつかあんたも知ればいいのよ」
かりに疎くなくとも激務のせいで遊びになど行かれないと思ったが、せっかく手伝ってもらっている以上、なにも言わないでおくシーリオであった。
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