楽園殺し外典: Happy Days
呂暇郁夫@書籍5冊発売中
アリエッタ・ルクタ警弐級
命の水は微笑まない Ⅰ
よく照りつける正午であった。
偉大都市に曇天が多いのは、大局的な天候変遷のせいとも、科学的なスモッグのせいとも、あるいは砂塵粒子のせいとも言われているが――
ともあれ。
その日は、ひさかたぶりの晴れであった。
太陽燦々の、これは遊郭のできごと。
〈眠らぬ街〉の午睡の時間、街角にひっそり建つ高級料亭「
奏者は、妙齢のおんな。とうが立った芸者が袖を通すには、いささか柄に遊びがすぎるが、当人もそれは承知ずみのこと、わざとであった。
いちばんの上客が、それを好むからであった。
かのじょが現在もてなしているのは、その上客ただひとり。
大事な観客に向けて、彼女は、心ここにあらずといった表情で腕前を披露している。
客は、だれもが息を呑むような美丈夫であった。
背のついた脇息に身を預け、煙管をひと吸い、紫煙をなびかせている。
髪は、すべて白。なだらかな川を思わせる、腰ほどの長さで、あたかも表面に椿油を塗ったばかりのように艶めいている。
切れ長だが、柔和と取れる目線が、静かにおんなの演奏するさまをみつめていた。
そんな彼の年齢が、わからない。
若人とも、壮年とも、どちらともいえない。そのなぞは、自然、かれの内面的な妖しさを呼んでおり、またその妖しさこそが、一流の遊女をも夢中にさせるような魅力を放っているのだった。
……そう、得も言われぬ、魅力である。
突如、おとこが立ち上がった。
威圧があるわけではない。優美なる立ち姿に、男性の持つ険しさは皆無だった。それでも遊女がおびえたのは、彼がうつくしすぎたゆえか。
「近く寄ってもいいかい。もっと間近で、きみのおとが聴きたい」
答えない遊女は、しかし表情で応えていた。おとこは膝をつくと、相手の髪を漉い、隠れていた耳を露出させ、そこに口をつけた。
「演奏はやめないで。できるかぎりでいい、続けてくれないか」
そうは言っても無理があった。
おとこのほうは、あきらかに
それでも、おんなには怒ることができなかった。
手練手管は、むしろおとこのほうにあった。きづけば、振袖の帯は解かれている。かようにまだ昼も昼、障子をつらぬいて差す陽光に、生娘に戻ったかのような恥じらいを覚え、せめて屏風の内側で、と懇願したが、上客は聞き入れてはくれなかった。
しかし、なにを聞き入れなくとも、おんながその門戸を閉じることはなかったことだろう。
この一連の時間が、いずれの色恋によるものかといえば、それは明白なものであった。
「あ、いけません。いけません……」
「ふふふ、よいではないか、よいではないか」
おとのなくなった空間に、煙だけが散る。
いざ行為がはじまろうという、そのときだった。
「はいはいはいはーーーーい!!!!!! そこまで、そこまでにしなさーい!!」
ガラガラッ、バタムッッと、襖が開いた。
あらわれたのは、怒り心頭の様子の、ひとりの女性だった。
年齢は、二十をいくつか過ぎたくらいか。顔立ちだけみれば、もう少々幼くも見えるが、表情の険しさが、実年齢を映していた。
ふたつ結びにした赤い髪。やや重たい印象を与える毛量の下の素顔は、髪色に負けず劣らずに、赤く染まっていた。
「ちょっと、なにやってんの⁉ ばっっっかじゃないのこんな真っ昼間っから盛って! ほらほら、さっさと離れる! 二秒以内に離れる!」
「やあ、アリエッタ。どうしたんだい、こわい顔をして」
「どうしたんだいじゃないでしょ! なーに公務ほっぽり出して色町なんかに来ているんですか、この女ったらしの脳みそ下半身粛清官!」
「おお、すごいことを言う」
「いいからはやく戻りますよ! ほら、そこの遊女も、胸はだけさせてないで支度して帰る、とっとと帰る! お会計もろもろは後日〈工獄〉にご連絡を!」
闖入者が名刺を突きつけた。
そこに載る名は――アリエッタ・ルクタ。
階級は、警弐級粛清官とある。
中央連盟の管轄、〈工獄〉の所属であり、収容管理官・会計官・獄中裁判官・獄吏指揮官など、さまざまな役職を兼任する才女であった。
「おや、まさか代金を公費で賄ってくれるのかい」
「そんなわけないでしょぉ~~~~⁉⁉ 後日あなたのお給料から八倍にして天引きしたうえで領収書まで切って本部に証拠として突きつけてやるためです」
「あ、あの、
「ああ、もちろんだよ、朝霧。つぎは邪魔が入らないときに遊びに来るよ」
「あー、うっさい! にどと来ないから! あんたらはにどと会えない! なぜならこのひとは仕事をさぼりすぎてもう未来永劫休日がないから! わかったらとっとと帰った帰った!」
遊女をむりやり追い出してもなお、アリエッタの怒りはおさまらなかった。
怒らせた当の本人は、飄々としている。
むしろ、なにやら愉しげである。
「それにしてもよくわかったね、ここが」
「あなたがお忍びで遊びにくるところなんて限られているでしょう。妓楼だっていくつも利用するわけじゃなし、片っ端から電話をかければすぐでしたよ」
「店だって黙秘するだろうに」
「嘘ついたら工獄にぶちこむわよって言いました!」
「なるほど。それ以上の殺し文句はない」
たははと笑う上官に、アリエッタの腹の虫はますます不機嫌になった。
「もう、なんですかこのやけに濃い香のかおり、ほんっといやらしい! 窓開けますよ、窓!」
がるると歯をむき出しにして、アリエッタは障子を開き、さらにその向こうの強化ガラスをぴしゃりと開いた。
豪快な性格か、開けてからマスクをかぶる。
砂塵は素肌に悪いとされているから、大半の女は頑として仮面をしてから外気に触れる手順を守ろうとするが、アエリッタはそのへん、無頓着なのだった。
錨をモチーフとしたドレスマスク。
アエリッタがそれを着用して振り向いたとき、男のほうも、ゆるゆるとマスクをつけている。いちいち演技がかった、というより、婀娜めいた動作の男だった。
――白い狐。
色気に尽きる和装の上、白き長髪と、白い獣の面が、妖しく笑っている。
反省の色は、まったくみえない。しかしなにより腹立たしいことに、反省という言葉は、このおとこにはまったく似合わない。
アリエッタは、きにいらない。
工獄においては〝典獄〟。
より広くは〝白狐〟として名の知られる、現行の警壱級のひとりである。
とはいえ、その人柄には難があった。きょうもこうして職場を抜け出しては商売女と乳繰り合っている始末だ。
アリエッタはこういう適当な人間には腹が立つし、こんな適当な人間がトップの座にいる組織にも、腹が立っている。
それでも、自分のいる場所でがんばらねばならないのが、俗世人の常だ。
たとえ上官が、それこそ俗世からは程遠い存在だったとしても。
ふわわ、と識流はあくびをすると、
「さてアリエッタ、昼食でもどうだろう。この部屋……は嫌だろうから、下の部屋に料理を運んでもらってもいい。この料亭の食事は一流だそうだよ」
「……警壱級は、物を食べないでしょう」
「
「はいセクハラ! 総務に訴えます! というか帰りますよ、もう。処理しなきゃいけない書類が何百枚あると思っているんですか! 甲棟なんか囚人どもが結託して今は大変なことになっているんですから。警壱級がちゃんと取り締まってください!」
識流の背を押して、アリエッタは持ち場へ返そうとした。
「アエリッタ、正直なことを言っても?」
「ダメです」
「仕事なんかしないでおんなと遊びたいよ、己は」
「ダメだって言ったでしょ!!!!!」
その後、怒号を響かせながら、アリエッタがずるずると上官をひきずる姿が、遊郭の表通りで目撃されたという。
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