第16話 いってらっしゃい、千花

 灯子の言葉に千花は開いた口が塞がらなかった。


「お母さん?」

「ずっと何かに迷ってるわよね。家族にも友達にも言えないけど、とても大事なこと」


 灯子にはとっくに気づかれていた。

 千花が1人で大きな悩みを抱えていることに。


「えっと……」


『他言無用でお願いします』


 邦彦の忠告が頭を巡る。

 吐き出せたらどんなに楽か。

 言い淀んでいる千花をしばらく待った後、灯子は席を立つ。


「まあ、嫌なら話さなくていいわ。知られたくないことだってあるでしょ。おやすみ千花」

「ま、待って!」


 部屋を出ようとする灯子を咄嗟に引き止める。


「あの、えっと」


 灯子は待っていてくれるが、千花からは言葉が出てこない。

 しかしいつまでも灯子の時間を奪ってもいられない。


「あの、ただの妄想だと思ってくれて構わないんだけど」


 千花は目を合わせずに俯きながら話す。


「私、悪魔と戦う力を持ってるの」

「……」


 灯子は茶化すことなく黙って続きを待つ。


「悪魔は地球とは別の異世界の敵で、その異世界に住んでいる人達は皆悪魔に苦しめられていて。私はそんな世界を救える力を持ってて」


 自分でも信じがたい話をしていることはわかっているが、今までせき止めていたものが溢れたように言葉が出てくる。


「異世界に行けばそこの人達を救えるの。でも、悪魔と戦うことは死ぬ危険がとても高いし、最悪二度と故郷へは帰れないって言われて」

「……」

「死ぬのも帰れないのも怖いし、考えただけで泣きそうになるけど。この力で1人でも多くの命を救えるなら役に立ちたいとも考えてて。でも、お母さん達と後少ししか一緒にいられないことは辛くて、私もうどうすればいいかわからない」


 最後の方は話というよりも千花の感情をそのまま吐露したようになってしまう。

 千花の話が全て終わった後、灯子は少し沈黙し、口を開いた。


「そうね。確かに作り話みたいね」


 やはり灯子でも急にこんな話をされたら戸惑うだろう。

 千花が混乱した感情を顔に貼りつけたまま目線を上げると、灯子が再び声を上げる。


「もし私がその子に言うとしたら、そうね……」


 しばしの間くうを見上げて思案し、灯子は千花と目を合わせる。


「異世界に行ってきなさい」

「……え?」


 灯子の意外すぎる返答に千花は目を見開いて驚いたまま反応できずに固まった。

 そんな中灯子は自分の意見を臆さずに伝える。


「私だって自分が手塩にかけて大事に育てた子どもを他の誰かに殺されるなんて絶対許さないわ。でも、それは異世界で悪魔に怯えている子どもの親だってそうでしょう。自分の子を目の前で殺されて、何もできないほど悔しいことはない」

「うん」

「それに、この世に絶対はない。悪魔と戦うことで死のリスクは高くなっても、100%死ぬわけじゃない」

「……うん」

「今、迷っているというのなら私は堂々と背中を押すわ。戦ってきなさいと。そして約束する。絶対帰ってきなさい」


 灯子の言葉に千花は驚いたように言葉を失う。


「死ぬなんて考えない。あなたは強いんだから。あの日、私を救ってくれたように、あなたは異世界を救う。だから安心して行ってきなさい、千花」


 気づけば千花の両目からはとめどなく涙が流れていた。

 離れ離れになる悲しさからではない。

 灯子が自分を信じてくれているからだ。


「ずっと、待っててくれる?」

「もちろん。10年だろうが100年だろうが待ってるわ」

「……わかった。約束する。絶対異世界を救って、帰ってくるから」


 次に顔を上げた時、千花の顔は晴れていた。






 千花の部屋から出た後、灯子はマグカップを洗いながら先程の話を思い出していた。


(異世界なんて、おとぎ話みたい。でも千花のあの反応は本当よね)


 本音を言えば、灯子は千花にどこにも行ってほしくなかった。

 絶対なんてありえない。

 だから、千花が生き残って帰ることが絶対だとは限らないのだ。


(でも千花は、そう言っても行くでしょう。迷ってるなんて言ってたけど。あの子はちゃんと、決意のある目をしてたんだから)


 15年間一緒にいて、千花が人を無下にしたことは一度もない。

 捨て子だとからかわれた時も、自分達を拒絶した時も、どんな時でも千花は優しい子だった。


(千花は大人になりつつある。あの子の巣立ちがもうすぐだと言うのなら、それを応援してあげるのが親というものよね)


 灯子は寂しい気持ちを押し殺したまま、キッチンを出て自室に戻った。


 翌日、千花は寝坊することなく学校へと向かった。

 話したいことがあるからだ。


「あ、おはよう千花ちゃん」

「修学旅行の翌日から学校ってありえなくない?」

「春子ちゃんずっと言ってるね」


 先に登校していた春子と雪奈の前に立ち、千花は息も整っていない中、意を決して口を開く。


「私、来年から東京に行く」


 千花の突然の告白に2人は談笑を止め、呆然と千花を見上げる。


「やりたいことが見つかったの。でも、それを叶えるまではこっちに帰ることはできない。もしかしたら何年も何十年もかかるかもしれない。だから2人には先にお別れを……」

「何言ってんの」


 千花の言葉の途中で春子が一言声を上げる。


「いや、だからお別れを」

「なんで戻ってこれないこと前提なのよ。千花の夢が何かは知らないけど要は同窓会は数十年待ってろって意味でしょ」


 春子が簡単に言うので千花は豆鉄砲を喰らったかのように目を丸くする。


「いや、数十年って随分長いよ」

「千花ちゃんと永遠に会えないって考えるよりは短いよ。それに、ようやくやりたいことが決まったんだね」

「雪奈の言う通り。1年でも何十年でも私達は千花の友達を辞めたりしないわ」

「──っ」


 春子と雪奈の言葉に千花は目頭が熱くなる。

 しかしここは学校だ。泣いて騒がれても困る。

 我慢しようとした千花に「あ」と春子が声を上げた。


「千花、ずっと言い忘れてたんだけど」

「何?」

「私達、あんたのこと可哀想な子だと思ったことないから」

「え?」


 何のことを言われているのか千花はすぐに理解できた。

 小学生の頃から心ない人達から言われた『捨て子』のことだ。


「どうしたの急に」

「ずっと言い忘れてたからこの際言おうと思って」

「前にクラスメイトから私と春子ちゃんは同情で千花ちゃんと友達になってるって言われて。その時から千花ちゃんに何も言えてなかったなって思ったの」

「そりゃ最初は驚いたけど、可哀想だから友達を続けようとは考えてなかったし、千花がどんな境遇でいようが千花は千花だから」


 春子と雪奈の目の前で千花は耐えきれずに机に手を置いて膝から崩れ落ちる。

 その顔は見えないが1滴、2滴と床に涙が落ちていくのがわかる。


「どこに行こうが何年離れようが私達は友達なんだから。安心して行ってきな、千花」

「……うん」


 千花はしゃくりあげながら小さく首を縦に動かした。






 次の朝。

 千花はメモに書かれていた番号をかけた。

 電話の相手はすぐに応答した。


『はい』

「おはようございます安城先生。田上千花です」


 千花が名乗ると邦彦はすぐに用件に気づいた。


『結論が出ましたか』

「はい」

『そうですか。それでは』

「私を異世界へ連れていってください」


 邦彦の言葉を遮って千花は結果だけを伝える。

 千花の堂々とした声に邦彦は沈黙を貫いた。


「安城先生?」

『ああすみません。あまりにも予想外すぎて反応が遅れました』


 邦彦の表情はわからないが、いつもの声音より上ずっているように千花は聞こえた。


『それで、田上さん。あなたまさかこちらを選びましたか』

「はい」


 千花は手短に返事をする。

 電話の向こうで邦彦の溜息が聞こえてきた。


『正気ですか。あの説明をしてこちら側を選ぶとは』

「ちゃんと悩んで、考えて、結果を出しました。必ず私は悪魔に立ち向かいます」


 千花の決意が伝わったのか、二度目の溜息を吐きながらも力を抜いたように空気が緩んだ。


『わかりました。こちらの手続きはやっておきましょう。あなたは中学校を無事に卒業してください』

「はい。これからよろしくお願いします」


 千花は電話を切った後、ふと何かを思い出したように急いで引き出しを漁り、何かを取り出した。

 それは歪に割れている緑色に光る石だった。


「……あれ? なんで急に思い出したんだろう」


 自分でもほぼ無意識に石を取り出していた。

 10歳の誕生日、枕元に転がっていた石。


「もしかして、これも何か関係してるの?」

「千花、遅刻するわよ!」

「ごめん、今行く!」


 千花は石を机に置いたまま鞄を手に玄関まで走る。

 靴を履いた後、自転車の元まで行こうと千花が外へ出た時だった。


「あなたが、光の巫女」


 目の前に腰まである銀色の髪を頭の上で1つに結び、血のような赤い目をした少女が立っていた。

 少女はおよそこの付近では見かけない、黒いコウモリのようなワンピースに肘まである黒い手袋、そして10センチ以上ありそうなヒールのあるブーツを履いていた。

 少女は薄く口角を上げると口を小さく開いた。


「あなたを、この世界へ歓迎しましょう」

「え?」

「千花、いつまで突っ立てるの」

「いやお母さん。ここに変な子が」


 千花が少女を指さそうと顔を向けるが、そこには誰もいなかった。


「あれ?」

「どこにもいないじゃない。ほら、行ってきなさい」

「うん……?」


 千花は首を傾げながら自転車を押して外に出る。


「行ってらっしゃい千花」

「行ってきますお母さん」


 千花は自転車に乗り出し、一歩を踏み出す。

 そして舞台は半年後、異世界へと移る。

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