第5話 気持ち悪い夢

 次に千花が目を覚ましたのは夜中の2時。

 千花は腫れた目を擦りながら部屋を出て1階に降りる。

 リビングの電気を点けても誰もいない。

 ふとダイニングテーブルに目を移すと茶碗とコップ、灯子のメモが置いてあった。


『千花へ。具合はどう? お腹が空いたら冷蔵庫にご飯があるからお茶漬けにして食べてね。苦しかったら明日病院に行こう』


 灯子のメモに千花は嬉しそうに笑う。

 夕飯を食べていない千花の腹は正直に悲鳴を上げる。

 深夜だが千花は冷蔵庫から冷やしてある白米を電子レンジに入れ、簡単な食事の準備を始める。


「いただきます」


 千花は出来上がったお茶漬けをたった数回で全て口に含んでしまう。

 それだけ腹が減っていたということだろう。

 千花はすぐに食器を片づけるとそのまま2階へ上がる。


「……あ、制服のままだ」


 そのまま寝てしまったから当然だが千花はジャケットにワイシャツ、プリーツスカートという学生服のままだった。

 急いでスウェットに着替え、ジャケットとスカートをハンガーにかける。


「シワになってないかな」


 千花は特に異常がないことを確認すると電気を消して再びベッドに潜る。

 だが先程必要以上に寝てしまった千花の目は冴えている。

 仕方ないのでそのまま枕に頭を乗せた状態で目を閉じる。

 邦彦への怒りが収まったわけではないが、一度落ち着いてみると冷静に考えることができる。


(そうだ。先生は無理矢理東京に連れていこうとしているわけじゃない。断ればいいんだ。今日みたいに)


 千花が1人納得している間にも段々と穏やかな眠気がやってくる。

 千花は抗うことなく眠りに落ちた。




「千花ちゃん! 起きて千花ちゃん!」


 雪奈の声が聞こえる。

 いつもの優しい声ではない。焦ったような、怯えているような声だ。


「早く逃げないと。春子ちゃんが」

(春子? 雪奈? 一体どうしたの……)


 千花が目を開けて頭を上げるとジャージ姿の雪奈がいた。

 雪奈の表情は恐怖と困惑に塗れている。


「千花ちゃん、あれ……」


 雪奈が指す方向に視線を向け愕然とする。

 目の前にいたのは体育館のコート半分を覆い尽くす程巨大な黒く蠢く物体。

 そしてその物体に呑みこまれているのは気を失っている春子の姿。


(春子!!)


 千花は春子の元へ駆け寄ろうとするが、後ろから何かに足を引っ張られ動けなくなる。

 そうこうしているうちに春子の体は吸収されていく。


「千花ちゃん!」


 雪奈に呼ばれてそちらを見る。

 そこには黒い物体に捕らえられた雪奈が手を伸ばし助けを求めていた。

 千花が走り出す直前、雪奈は黒い物体に体を貫かれ、血を吐く。


(──っ!)

「ち、かちゃ……たす、け」


 床に叩きつけられた雪奈はもう動かない。辺りには雪奈の血が広がっていく。


(い……)

「いやあああああ!!」


 叫び声を上げながら千花はベッドから飛び起きる。

 カーテンの隙間から陽の光が部屋に入ってくる。


「……夢?」


 息を荒げながら千花は呆然と呟く。額に浮き出た汗がそのまま布団に落ちる。


「気持ち悪い。お風呂」


 シャツが汗で張りついている。

 時計を見ると本来起床するより1時間早く目が覚めたらしい。

 千花はすぐにベッドから出て浴室へ向かった。

 シャワーを浴びながら千花は夢の内容を思い出す。


「気持ち悪かった」


 体を貫かれた雪奈、体を異常な速さで呑みこまれていった春子、そして正体不明の黒い何か。

 あれ程の悪夢を見るのは初めてだ。


「あれは夢だ。疲れてたからあんな夢を見たの。絶対そう」


 千花は自分に言い聞かせるように1人で何度も小さく呟く。

 ある程度落ち着いたところで風呂から上がり、タオルで体を拭く。


「ふぅ」

「千花? 起きたの?」

「!?」


 完全に気が緩んでいた千花は外からの声に思わず体を跳ねあがらせた。

 声の主は灯子らしい。


「開けていい? 顔洗いたいんだけど」

「ま、待って! 今着替えるから」


 千花は用意していた替えの服を急いで纏い、鍵を開ける。


「お待たせ!」

「そこまで急がなくても。体調は大丈夫なの」

「う、うん。寝たら平気になったよ」

「それならいいわ。朝ご飯用意するから手伝って」


 洗顔を終えた灯子の後をついて千花もキッチンに向かう。

 灯子は慣れた手つきで3人分の朝食を作り始める。


「千花、パン3枚焼いといて」

「はーい」


 千花は棚から食パンを3枚取り出しトースターに入れる。

 一応ある程度料理はできる千花だが、何故か灯子は家であまり料理をさせてくれない。

 今のように機械に入れればいいだけのものがほとんどだ。


「後はテーブルにコップとお箸を並べておいて。終わったら学校の準備をしておいで」

「恭さんは?」

「自分で起きるでしょ」


 朝に弱い恭を起こしに行こうとする千花だが、灯子の言う通りやめた。

 灯子が料理をしている間に千花は制服に着替え、スクールバッグを持って下に降りる。


「よし。千花、先に食べてて。恭さん起こしてくるから」

「結局起こすんだ。いただきます」


 灯子が軽やかに2階へ上がっていくのを見送りながら千花は目の前のトーストに齧りついた。


 それから30分後、身支度を済ませた千花はバッグを肩に下げ、ローファーを履く。


「行ってくるよ灯子さん」

「はいはい。気をつけてね。ほら恭さん、遅刻するわよ」

「わかってるから背中叩かないでくれ。パンが変な所に入ってしまう」


 2人の会話を尻目に千花は玄関を出て自転車の鍵を差す。


「今日は遅刻しないで済むかな」


 千花が自転車に跨り、いつもの道を進もうとする。

 だがその直前、どこからか声が聞こえた。


『……巫女様』

「え?」


 声の方に千花は顔を向けるがあるのは閑散とした道路と等間隔に並ぶ住宅のみ。


「気のせいか」


 千花はすぐに前を向き、学校へと自転車を走らせた。




 千花が教室へ着くと一気に視線がこちらへ向いた。


「え、何? 私何かおかしい?」


 千花が扉の前で狼狽えていると近くにいた女子のグループが自分を囲んできた。


「田上さん、昨日何話したの?」

「昨日って?」

「安城先生に呼び出されてたでしょ。何の話をしたの?」


 女子の言葉に千花は顔を引きつらせる。

 悪夢の件で頭から抜けていたが元凶は全てあの男が仕向けたものだ。

 思い出すと怒りが湧いてくる。


「田上さん?」

「……特に何も話してないよ」

「嘘。何もないなら2人きりで話さないでしょ」

「本当に何もないから。だから通して」


 千花は早々に話を切り上げて自分の席に着きたい。

 だが曖昧に話す千花に納得がいかない女子達は更に詰め寄ってくる。

 どう切り抜けようか千花が考えていると背後から最も聞きたくない声が響いた。


「どうしたんですか皆さん。ホームルームを始めますよ」


 邦彦が現れたことにより女子達は一気に頬を赤らめる。

  一方の千花は顔から血の気を引かせる。


「あ、安城先生。どうしてここに?」


 女子の1人が声のトーンを上げながら邦彦に質問する。

 邦彦はそちらに目を合わせ、人当たりの良い笑みを向ける。


「担任の先生の出張が長引いてしまったらしく、ホームルームまでは僕が受け持つことになりました」


 邦彦は話しながら教室へ入ろうとする。

 それを女子は輪になって止める。


「先生。昨日田上さんと何話してたんですか」

「昨日ですか」

「放課後2人で話してましたよね」


 ああ、と納得したように邦彦は表情を変える。千花は更に顔色を悪くする。

 邦彦なら昨日のことを都合のいいように変えられるだろう。

 それこそ千花が一方的に非を押しつけられる可能性も。


「事務仕事を頼んでいました」

「は?」

「え?」


 邦彦の言葉に千花と女子達はそれぞれ疑問の声を上げる。


「ほら。この前の遅弁で田上さん叱られていたでしょう。それで担任の先生がどう罰するか考えていたので手伝いをしてもらっていたんです。ね、田上さん」


 邦彦に同意を求められ千花は促されるまま頷く。

 一方の女子達は拍子抜けしたように自分の席へ戻る。


「田上さんも席に着いてください。始めますよ」

「は、はい!」


 邦彦の言葉に千花は小走りで自身の机へ向かう。前には春子が座っていた。


「あ、春子……」

「おはよう千花。私の顔に何かついてる?」


 春子の顔を見て千花は一度動きを止める。

 あの悪夢を見た後では、普通の表情にも違和感を覚える。


「千花?」

「う、ううん。ちょっとボーっとしてただけ。気にしないでね」

「ふーん?」


 春子に首を傾げられながら千花は席に着く。

 邦彦が出欠を取っている間に先程できなかった授業の準備を行う。


(大丈夫。あれは夢。全部夢だから)


 千花はずっと自分に言い聞かせていた。

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