第3話 罠にはめられた
翌朝、千花は全力で自転車を漕いでいた。
その額には玉のような汗が浮かび上がる。
「30分も寝坊するとか、これで遅刻したら反省文どころじゃ済まされないっ」
学校の門限は後40分。千花が自転車を漕がなくてはならない時間は残り50分。
全速力で間に合うか間に合わないかのラインに千花は立っている。
息を切らせて自転車を漕ぐ千花だが、運悪く赤信号に足止めを喰らってしまった。
(誰も見てないしいいよね)
千花がペダルに足を乗せた瞬間、隣から車のクラクションが鳴り響いた。
「駄目ですよ田上さん。信号無視は違反です」
「え、なんで私の名前」
「おはようございます。遅弁の田上さん」
「あ、安城先生」
今千花が最も会いたくない教師であり、昨日特別講義に来た安城邦彦が車の窓から千花に手を振っていた。
「毎日自転車通学とは感心します。ただ、この距離でこの時間だと遅刻すると思うんですが」
「ええそうです。遅刻します。なので赤信号でもお許しいただけると」
「駄目ですよ」
千花の言葉を遮るように邦彦は首を横に振る。
ここの赤信号は長い。
千花はまた説教されるのかと重い溜息を吐きながら信号を待とうとする。
「良ければ乗っていきますか」
「へ?」
邦彦の提案に千花は素っ頓狂な声を出してしまう。
「僕も生徒が説教を受けるのはあまり見ていて楽しいものではないので。その自転車なら車にもギリギリ乗せられそうですし良かったら」
「お願いします!」
この際教師だろうが体裁だろうが構わない。
家に連絡が行くよりマシだ。
千花は二つ返事で邦彦の車に自転車と自分を乗せてもらう。
「生徒がいない所で降ろしますからね。噂されても困るので」
「はあ」
噂も何もきっと千花が東京のイケメン教師と仲良くしていても情けをもらっているとしか思わないだろうと千花は考える。
「いつもこんな時間なんですか」
「いいえ。いつもはもう少し早いです。今日は寝坊しました」
「おやおや。夜更かしでもしてたんですかね」
「ははは……ちょっとね」
自分の境遇のことで寝過ごしたなんて口が裂けても言えない。
そんな千花の感情を知ってか知らずか邦彦は口を開く。
「ところで田上さん。進路は決まってますか」
「え!? え、えっと、それなりに」
千花の曖昧な返答に邦彦は「そうですか」とだけ返す。
「あ、あのぉ、進路が何か」
あまりその話題を出したくなかった千花は邦彦の返しが気になった。
邦彦はその形のいい唇を上げる。
「少しあなたと話がしたくて」
「お話?」
「はい。ただ長くなるのでここでは無理ですが。そうですね、簡単に内容だけ伝えると」
邦彦は車を運転しながら横目で戸惑っている千花の顔を見る。
「田上さん、東京に来ませんか」
「……はい?」
千花は邦彦の相談の意図が全く理解できない。というよりこれで理解できる方がどうかしている。
「僕が本来勤務している東京の高校に来ませんか、と言いました」
「いや、何でですか。昨日会ったばかりですよね」
千花の反論も予想していたとばかりに邦彦は首を縦に動かす。
「はい。それを含めても話をしたいんですが、正直もう時間がないので放課後に時間を作っていただきたいです。今日は空いてますか」
「え? ええまあ」
「では放課後、個別相談をしましょう。着きましたよ。降りてください」
千花は言われるがままに車から降り、自転車とバッグを持って学校へ向かう。
その後数分経って邦彦が車で門をくぐってきた。
「あ、千花おはよう。どう? 反省文書いてきた?」
「今日は遅弁しないようにね。もちろん早弁も……ってどうしたの千花ちゃん。顔色悪いよ」
「は、春子、雪奈。どうしよう」
「「?」」
「私、拉致されるかも」
千花は混乱したまま、友人に衝撃的な発言をしてしまった。
案の定、千花の前にいる2人は一切理解できない顔を向けた。
「千花。あんたが馬鹿なのはよくわかってたけど、まさか拉致の意味も知らなかったとは」
「知ってるよ! 知ってるうえで使ったの」
「千花ちゃん、一から説明できる? 誰に拉致されるの?」
「安城先生……」
千花は登校までの流れを力説する。
自転車を漕いでいたら邦彦に会ったこと。遅刻しそうになったので車に乗せてもらってこと。車中で突然東京に来ないかと言われたこと。
全て説明し終わった千花を2人は微妙な表情で見る。
「千花、やっぱりあんた馬鹿だわ」
「は!?」
「千花ちゃん、私もそう思う」
「雪奈まで!?」
春子はともかく雪奈にまで馬鹿呼ばわりされた千花は信じられないというように2人の顔を凝視する。
「せ、折角私が力説したのに信じてくれないなんてひどい」
「酷いのはどっちよ。あんたそれで拉致されたと思ってるんなら100回安城先生に土下座してこい」
否定されるどころか逆に説教された千花はショックを隠し切れないとでも言うような表情を見せる。
「千花ちゃん、安城先生がやったのは拉致じゃなくてただの勧誘だよ。推薦と同じもの。そもそもまだ返事もしてないし先生もちゃんと説明してくれるんでしょ」
「で、でもさ、昨日の今日で勧誘されたんだよ。絶対いい意味じゃないことはわかるでしょ」
「そりゃもちろん。安城先生も最初の授業を遅弁で崩されたから怒ってんじゃん?」
「……よし、バックレよう。そうだ。放課後すぐに逃げればいいんだ」
千花の暴論に説得を試みようとした2人だが、その前に担任がやってきた。
「席に着け。ホームルーム始めるぞ」
どうやら邦彦は担任に朝の顛末を話していないらしい。
当たり前だ。緊急事態とはいえ教師の車に生徒が乗っていたなど、事案になりかねない。
(先生も知らないしあれは安城先生の私情だと思おう。私は関係ない。そう、無視してもいい)
「それと、俺は午後から出張に行くので、今日の終礼は安城先生に行ってもらう。お前ら、迷惑かけるなよ」
担任の言葉がまるで死刑宣告のように千花には聞こえた。
終礼があの邦彦だと、千花は逃げられない。
恐らく呼び出しを喰らうだろう。そうなれば必然と自分は目立つことになる。
「ああああどうしよう」
「まだ悩んでんの。もう諦めなよ。ほら、お待ちかねの安城先生」
「待っとらんわ!」
あれよあれよという間に1日は過ぎていく。
気づいたら太陽は西に傾き、橙色の光が窓から眩しいくらいに照っている。
そして同時に担任の代わりである邦彦が教室にやってきた。
生徒はすぐに自分の席へ戻る。
「担任とはえらい違いだね」
「この様子を見たら先生泣くね」
人によって態度を変えるのも中学生ならではだ。
全員が着席したところで邦彦が壇上から連絡を始めた。
「明日は保護者会の出欠が締め切りになります。まだ出していない人は必ず提出しましょう。明日の授業連絡は……」
邦彦は慣れているというように淡々と連絡を済ませていく。東京で教師をしているだけある。
千花が半ば話を右から左へ流していると、不意に邦彦と目が合う。
「それと、田上さん。少し用があるので後で僕の所まで来てください」
クラス中の視線が一気に千花に集まる。
一方の千花は一気に背筋が凍る。
(や、やりやがったこの男)
邦彦から呼び出しを喰らえば何かしら噂はされる。
それを防ぐために大人しくしていたのに、邦彦は全く気にしない素振りで教室中に連絡した。
(私を地獄に堕とす気かこの男。そんなに遅弁をされたのが気に食わなかったか)
「それでは皆さん、また明日もよろしくお願いします。さようなら」
邦彦との挨拶は何の問題もなく終わった。
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