第2話 捨てられていた子

 千花が帰宅したのは18時丁度だった。

 学校を出たのが17時を少し過ぎた頃なのでいつも通り帰宅できた。

 千花は家の玄関口付近に自転車を停めるとそのまま家の中に入る。


「ただいま」


 疲れが溜まったような声で千花は家にいる者に呼びかける。

 そのままリビングに続く扉を開けるとソファーに座っていた中年女性が振り返る。


「おかえり千花。今日はいつもより遅かったわね。どっちが先?」

「ご飯」


 帰宅時間が遅くなったことについては言わないでおいて、簡単に自分の要求を伝える。


「今日はカレーだからね」

「カレー!」


 女性の言葉に千花の顔が一気に輝く。


「用意しておくから着替えておいで。弁当箱は洗っておいてね」

「うん。ありがとう灯子とうこさん」


 灯子と呼ばれた女性に礼を言い、千花は自分の部屋に戻る。電気のスイッチを点け、バッグを床に置いて一息吐くと、不意に腹の虫が大きく鳴った。


「お腹空いたぁ……カレーぇ……」


 近くに放ってあったスウェットに着替え、弁当箱を手に下へ降りる。

 ダイニングに着くと灯子が温めているカレーの匂いが漂う。


「いい匂いー」

「はいはい食べる前にお弁当箱洗ってきて」


 近づいてくる千花を一旦水道に追いやり、灯子は洗い物をさせるよう命じる。

 千花は自分の弁当箱と、ついでに灯子が溜めていた食器をすぐに片づける。

 全て終わった後、テーブルの方に向かうと夕飯の仕度ができていた。


「わーい! いただきます!」

「召し上がれ」


 千花は両手を合わせるとすぐにスプーンを手に取りカレーに口をつけていく。


「本当、千花の食べっぷりを見てると作り甲斐があるわ」

「だって美味しいし」

「はいはい、ありがとう」


 千花は灯子と話しながらものの数分で全ての料理を平らげた。


「ごちそうさまでした」

「お粗末様でした。相変わらず清々しい食べっぷりなのに、太らないのが羨ましいわ。流石成長期」


 千花はそこまで太っているわけではない。中肉中背という言葉が合っているような娘だ。

 そんな千花の食事風景に灯子も満足そうに笑う。


「灯子さん、今日きょうさんは?」

「残業で遅くなるって」

「ふーん」


 他愛もない会話をしながら千花は灯子が洗った食器を1つずつ拭いて元の位置に戻していく。


「ところで千花。1つ確認したいんだけど」

「何?」

「志望校は決まったの?」


 灯子の問いに千花は言葉を呑みこみ、黙る。

 その様子に灯子は眉を寄せる。


「この前の模試とアンケート調査、もう返ってきたんでしょ。さっきスーパーでクラスメイトのお母さんと話をしたのよ」

「うっ」


 3か月前に返却された全国模試の結果を思い出し、千花は目を泳がせる。


「千花? 持ってるわよね」


 灯子の威圧に千花は布巾と食器を置くと急いで自室へ駆け込むファイルに入れたままの模試結果を手にリビングに戻った。


「はい!」

「よろしい。おか……私はそれ見てくるから食器拭いて戻しておいて」

「わかった」


 灯子がテーブルにつき薄い紙を広げている間、千花はなるべく音を立てないように食器を片づける。

 2人の間にしばらく沈黙の時間が過ぎ去る。

 千花が食器を全て片づけ終わるのと同時に灯子も紙から目を離した。


「千花、座りなさい」

「は、はい」


 灯子に言われた通り千花は大人しく向かいの席に座る。

 灯子は模試の結果と千花を交互に見て溜息を吐く。


「まあ、学力はいつも通りね。ええ、クラスで下から5番目。全国でもまあ予想通り。そう、いつも通りね」

「あ、あの、一応それでも努力はしたんです。本当に」


 千花の点数を見て灯子は同じ言葉を何度も繰り返す。

 いつものことだが千花はただ言い訳じみた言葉しか返せない。


「ええわかってるわ。あなたのテスト用紙は小学生の頃から見ているもの」

「うぅ……」


 軽く嫌味が含まれた灯子の言葉に千花はぐうの音も出ず情けない声を出す。


「それよりも、問題はこっちよ千花」

「はい?」

「あなた、志望校を1つしか書いてないってどういうことなの」


 灯子が引っ張り出してきたのは、模試と一緒に毎回書かされる志望校である。

 欄は合わせて8つあるが、千花が書いたのは左上の1つのみ。それもこの近くにあるほとんど地元民しか知らないような小さい高校だ。


「いや、ここから通えて私の学力でも入れる所と言ったらそこくらいじゃない?」

「地元以外なら沢山あるでしょ。大体半数以上がここを離れて寮暮らしをしたり一人暮らしをしたりしているのよ。あなただってそうすればいいじゃない」

「だってお金かかるし」


 千花の言い訳に灯子は呆れたように深く溜息を吐く。


「あなたはこういう話をするとすぐにお金の心配をする」

「だって」

「何を遠慮しているのか知らないけどね。私も恭さんも出し惜しみする気はないの。何度も言ってきたでしょ」

「……そんなこと言われたって」


 千花は言葉に困ったように目線を逸らす。


「実の子どもじゃないのに、これ以上わがまま言えないし」

「あなたねっ」


 千花の言葉に灯子が声を荒げようとするが、その前に玄関の扉が開く音がした。


「ただいま。うん? どうしたんだ2人とも」


 灯子と同じように中年の男性がリビングに入ってきた。


「これは?」

「おかえりなさい恭さん。聞いてよ、千花がね」

「私勉強してくる。明日テストだから」

「ちょっと千花!」


 灯子の言葉を最後まで待たずに千花は逃げるようにリビングを出ていった。


「あの子は本当に」

「何かあったのかい? これは模試結果?」


 灯子は帰宅した旦那──恭に先程までの会話を説明する。


「私達のこと、お母さんお父さんって呼ばなくなって3年。あの子が遠慮するようになってこっちもどうすればいいのか」

「まあまあ。この時期は何に対しても反抗したい時期だから」

「でも、養子だからってあんな言い方しなくても」

「千花もわかってはいると思う。ただ、心が追いついていないんだろう」

「……何とかならないかしらね」


 灯子は千花の志望校記入欄を手に取り、寂しそうに呟いた。

 千花は自室に戻るとそのままベッドに仰向けで寝転んだ。

 勉強すると言ったが、実際はこうやって寝るまで過ごしている。

 だからいつまでも成績が伸びないのだが、本人もそれは自覚している。


「これが学生の性」


 1人で意味のわからない言い訳を呟きながら千花はベッドから離れない。

 近くに放り投げていたスマホを手にし、表示されている画面を見続ける。

 そこには1年の時、遠足で東京へ行った際に春子、雪奈、そして千花の3人で撮った写真が載っている。


「進路か……」


 雪奈は頭がいい。恐らくここから少し離れた県内の進学校を目指すだろう。

 春子は千花と同等の成績だが、服飾関係の学校がいいと言っていたので地元を離れるに違いない。

 皆進路についてはある程度意思が固まっている。それもそうだろう

 今は中学3年の5月。受験生は志望校に向けて勉強に励んでいる時期だ。


「私は、特に夢なんてないし」


 誰に聞かせるわけでもなく千花はぼやきながらスマホを隣に置き、静かに目を閉じる。


『ごめんね千花。嘘吐いてて』


 3年前、気まずそうに謝罪をしてきた灯子の顔が今でも千花の脳裏に焼きつく。

 千花が自分を捨て子だと認識したのは12歳の時だった。

 小学校で親へ作文を書いていた時、当時隣の席に座っていた男子が揶揄からかってきたのだ。


『田上は本当の親なんていないから書けないじゃん、俺の親が言ってたよ。田上は山に捨てられてた可哀想な子だって』


 千花は衝撃的な言葉に男子の方を見て固まるしかなかった。

 今まで実の親だと思っていた灯子と恭は全く血の繋がっていない他人だった。

 その後すぐに男子は担任に叱られていたが、千花の胸にはしこりが残った。

 暗い面持ちで帰ってきた千花にいつも通り変わらない笑顔で出迎えてくれた灯子を見るのが辛かった。


『お母さん、私って捨て子なの?』


 千花が思いの丈をぶつけると灯子は驚きと困惑の表情を浮かべた。


『お母さん達は嘘の親だったの?』


 千花の問いに灯子は無言で視線を逸らした。

 そのまま小さく震える口を開く。


『ごめんね、千花』


 灯子の謝罪に千花は絶望や哀しみといった表情を浮かべる。

 心のどこかで、本当は、灯子達は本当の親だと信じていた自分がいた。

 それも灯子の言葉で打ち砕かれてしまった。


『……私、部屋に戻るね』


 灯子の何か言いたげな視線を余所に千花は自室に戻る。

 この日から、千花は灯子達のことを「お母さん、お父さん」と呼ばなくなった。

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