終章(6) ブランシャール宝石店
業務終了後の執務室で、アルベリクは己の私物を整理していた。
新しいトップがローランになることを知るや、事務所の面々は一部を除き、喜色を隠そうともせず祝い始めた。だが、アルベリクはそのような仕打ちにも動じることはなかった。もはやこの店も、今のアルベリクにとっては固執すべき場所ではなかった。
片付けは遅々として進まなかった。作業が粗方終わる頃には、既に日も暮れかけていた。従業員は皆退勤しており、事務所の中に人の気配はない。
アルベリクはふと、事務所の中を散策しようと思い立った。
綺羅びやかに整った店舗と裏腹に、事務所の中は雑然としていて、薄汚かった。
うんざりするほど、見慣れた風景である。にも関わらず、いざこれで見納めかと思うと、ひどく名残惜しい気持ちがした。
十年近く働いてきた職場だった。当然、若かりしころから積み上げた思い出もある。碌でもない思い出ばかりだったが、楽しい思い出もないわけではなかった。
倉庫に足を向ける。背の高い棚が整然と並び、ラベル付けされた箱がぎっしりと詰め込まれている。箱の中には、多くの美しい宝飾品たちが、顧客の手に渡る日を夢見て眠っているのだ。
この場にいると思い出すのは、サラと過ごした記憶だった。
幼い頃のサラとは、この倉庫で多くの時間を過ごした。彼女と共に宝石を眺めている間だけは、野心も嫉妬も、あらゆる負の感情も忘れることができたものだった。
最後に、工房に立ち寄ることにした。
工房は聖域だった。規模の大小はあれど、どんな工房にも、どこか厳かな空気が立ち込めているものだ。多くの技師たちの無意識の祈りが、長い時間をかけてこの場所に堆積していったからに違いなかった。
ある聖人は言った。場が神聖性を帯びるのは、その場に集う精神が清廉であるためだと。その言葉が正しければ、この場は概ね神聖な場所であると呼んで差し支えないはずである。
薄暗がりの工房の一角に、ランプの明かりが点っているのが見えた。既視感を覚え、アルベリクはその明かりの元に近づいてゆく。
机の前で作業する男の横顔を、アルベリクは知っていた。ためらいがちに、その名を呼ぶ。
「──エミール。皇都に帰っていたのか」
呼ばれたエミールは、顔を上げてアルベリクの方を見やる。その瞳の中に、寂しげな笑みが滲んだ。
「ええ、リアーヌ急逝の知らせと同時に、辞令が来ましたんで。僕もようやく、製品チームの一員ですよ」
彼はおもむろに椅子から立ち上がると、アルベリクの顔を真っ向から見据えて問うた。
「……辞めるって、本当ですか」
「一応、建前上は、長期休暇ということになっている。だが、戻ってくる気はない」
そうですか、と答えるエミールの顔には、既に諦念のようなものが出来上がっていた。
「──これから、どうされるつもりですか?」
──決めていない。そう答えると、エミールは間髪おかず、こんな提案をよこしてきた。
「講師なんてどうですか? 宝飾技師のための講師です。マルブールの講師は、言っちゃ悪いが、しょうもない連中ばかりでしたよ。質が低い。才能ある若いのは、それが嫌で辞めていく」
「手厳しいな」
──だが、それも悪くない。
冗談めかしてそう答えると、エミールはようやく朗らかに笑ってみせた。
「じゃあ、僕が一番弟子ということで、良いんですよね?」
「──いや、君は二番だ」
「なら、一番弟子は誰なんです」
不服そうに問うてくるエミールに対し、一瞬の逡巡の後、アルベリクは呟くように答えた。
「……リアーヌだよ」
エミール・ジロ。彼は後に宝飾ブランド『ジロ』を立ち上げ、『リアーヌ』と共に、ブランシャールの屋台骨を支える存在へと成長してゆくことになる。
彼は生涯通してアルベリクを師と仰ぎ、自らを彼の一番弟子と公言して憚らなかったという。
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