終章(5) ブランシャール邸
ブランシャール邸に戻ったアルベリクは、自室のソファに身を沈めつつ思案していた。
彼の足元には旅行鞄が開け放たれ、その上に何着かの衣服が散乱している。
旅に出ると口にしたものの、彼には気がかりが一つ残されていた。
椅子に腰を掛けて長いこと黙考していると、ふいに部屋の扉を叩く音が聞こえてきた。
「アル、入っても良い?」
「──ああ……」
扉を開いて姿を現したのは、ルイーズだった。彼女は足音を控えてアルベリクの元まで近づくと、彼の座っている一人掛けのソファーの隙間に、その小さな尻をねじ込んだ。
それきり彼女が黙ったままだったので、アルベリクはしびれを切らして彼女に問うた。
「……何か用かね?」
「本を借りに来たのよ。私も経営のこと、ちょっとは勉強しなくちゃね」
ルイーズはそう
だが、アルベリクの旅行鞄には、それら書物の一冊も収められてはいなかった。本の内容はすでに彼の頭の中に入っていたし、そもそも、これから先をどう過ごすかすら、彼は決めていなかった。
アルベリクは静かに微笑んで、書架の方を顎で指し示した。
「そうか。好きに持っていけばいい。そのまま返さなくとも、一向に構わない」
ルイーズの口元が、真一文字に引き締まる。彼女は痛ましげに眉根を寄せ、顔を伏せた。
「……ローランから聞いたわ。亡くなったそうね、貴方の……その……大切な方」
「ああ」
「そう……願わくは、安らかに……。……ごめんなさい。こんな時、どう声をかけたら良いか……」
「気にすることはない。俺は大丈夫だ」
優しく微笑むアルベリクを横目で見て、ルイーズは居心地も悪そうに身を揺すった。
彼女は床に開かれたままの鞄に視線を滑らせる。
「……どこかに行こうというの……?」
「ああ」
「どこへ行くの?」
「決めていない」
「帰ってくるのよね?」
「それも、決めていない」
「……そう……」
寂しげな声が、その細い喉から漏れる。
アルベリクは、逡巡していた。彼に残された気がかりというのは、他でもない、このルイーズのことだったのだ。
彼はしばし黙していたが、やがて意を決して切り出した。
「ルイーズ、話がある」
小さく頷いて、ルイーズはアルベリクを見やる。無言で促されるままに、アルベリクは尋ねるべきを尋ねた。
「君は、ローランがどんな仕事をしているか知っているか?」
「……知ってる」
息を呑むアルベリク。ルイーズは僅かに瞼を細め、言葉を続ける。
「ベルティーユ様から、別れ際にご忠告いただいたわ」
ベルティーユ・ド・アルノーは、皇国内でのパヴァリア人の立場を鑑みて、いち早く国外に脱出していた。その間際に、彼女はルイーズにローランの武器商としての本性を告げたのだろう。
ルイーズがそれを知っているとあらば、話は早かった。
「……なら、俺と一緒に来ないか。俺の女友達も一緒に来ると言っている。きっと仲良くやっていけると思うが」
ルイーズは首を横に振って、この提案をやんわりと拒んだ。
「言ったでしょう。私はあの人を愛してる。心変わりはしない」
「だが……」
「私、頑張って勉強するわ。宝石店は一旦ローランに任せるけれど、貴方から返してもらった管財の権利は、絶対に彼には渡さない」
なおも食い下がろうとするアルベリクの目を、ルイーズは真正面から見据えて言った。
「心配しないで。しばらくは、何もわからないふりでもしながら、クラヴィエールの公爵様を頼ることにする。グリアエの歩き方に関しては、ローランより私のほうが一日の長があるのよ」
半ば呆れ、半ば感心した顔で、アルベリクはルイーズをまじまじ見やった。
「たくましいものだな」
「当たり前でしょう。私を誰だと思っているの?」
「貴族ブランシャールの血を引く女」
「そう。そして、豪商フランクの娘でもあるわ」
傲然と言い放ち、彼女はその小さな胸を反り返す。
その眼光には、強烈な才気が隠し難く溢れていた。
──彼女ならば、この皇都にあっても、したたかに生き残ることができるかもしれない。
そんな直感が、アルベリクの脳裏をかすめる。
もはや、平民出のアルベリクに、差し出る隙などどこにもないのだ。
アルベリクはルイーズに向かっておもむろに向き直り、頭を垂れた。
「……力になれず、すまない」
「良いのよ。でも、手紙だけは必ず書いてね。薄情は許さないから」
アルベリクは
ルイーズもまた、その腕をアルベリクの身体に回し、しがみつくように抱き返す。
彼女はアルベリクの肩に顔をうずめたまま、長いこと彼を固く抱きしめ続けていた。
──ルイーズ・ド・ブランシャール。彼女は新生ガロア皇国の世においても、社交界の蝶となって渡世したと伝えられている。
さらに後年、彼女はブランシャール宝石店の経営方針を巡って、夫であるローランと壮絶なお家騒動を繰り広げることになる。だが、それはまた別の物語である。
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