第一章(3) 山小屋

 食卓の上に広げられた帳簿や請求書を、アルベリクは一件ずつ丁寧に改めていた。記帳漏れがないか、金額に間違いはないか、期限を過ぎている取引はないか──。


 その手元を、ナタリーが落ち着かない様子で見つめている。


 彼女はふいに、胸元で握っていた拳を開く。その手には、指輪が一つ握られていた。指輪に目を落としたナタリーは、わずかに安堵の表情を浮かべ、ほっと息をついた。


「正直、途方に暮れておりました……。師匠が亡くなってからこのかた、怒り狂った男の人が大勢やってきて、借金の催促といって幾度も脅されました……。ですが、私は、お金のことは何もわからず……」


 帳簿の内容を撫でるようにして追っていたアルベリクの眼が、ちらとナタリーを、そして、彼女の掌の指輪を一瞥する。その指輪を目にした瞬間、僅かにアルベリクの顔が曇った。


 彼女が手にする指輪のことを、アルベリクはよく知っていた。


(あの指輪、まだ棄てられずに残っていたのか……)


 彼の視線は、無意識のうちに指輪から外れていた。それはひどく見苦しく、正視に耐えない代物だった。


 彼は再び帳簿に視線を戻しつつ、全く感情のこもっていない声でぽつりと尋ねた。


「面倒事をこれでもかと遺していったな。──やつを憎んでいるか?」

「いいえ、決して。ただ、借金のことは遺言にもなくて……。あの師匠がそんな迂闊なことをするなんて思えなくて」

「やつの遺品を処分すれば、多少なりとも借金が軽くなるかもしれんのに、なぜそうしない?」

「……それは……。やはり、思い出の品ですから……」


 アルベリクの赤眼が、彼自身の意思を無視して、眼前の女の潤んだ瞳に吸い寄せられていく。


 軽く一度だけ首を振り、「ふん」と鼻をひとつ鳴らしてから、アルベリクは音を立てて帳簿を閉じた。それを机の上に放り投げ、ぶっきらぼうに彼は尋ねる。


「ときに、君はこの帳簿の内容を見たことは?」

「い、いえ……お恥ずかしながら、お金のことは、本当に全然……。帳簿の見方もわからないのです……」

「一抹の不安を感じさせる発言だな。職人といえど、金のことくらいはしっかりしろ」


 辛辣な言葉に、ナタリーは文字通り身を縮ませて恐縮してしまった。


 アルベリクは再び帳簿に視線を投げる。そこに記された状況を忌憚なく説明すれば、目の前の女は少なからず動揺するであろう。だが、彼はそれを伝えることに、躊躇などしなかった。


「いいか、よく聞け。やつがこさえた借金はすべて、君が作品を作るための材料費だ」


 一切の気遣いを含まぬ冷たい声が、静かな部屋の中に響いた。


 このアルベリクの言葉を聞くや、ナタリーは息を呑んで、再び手の中の指輪に視線を落とした。頬から耳にかけてさっと赤みが差し、見る間に顔全体が泣き出しそうに歪んでいく。


 どうやら、彼女は本当に工房の台所事情を知らなかったらしい。


「……私宛の遺書を見せてもらえるか? おそらく、そこにやつの弁明の一つも書かれているだろう」


 ナタリーは神妙に頷くと、立ち上がって部屋の奥の戸棚を探り始めた。やがて、彼女は一通の封筒を手にして、それをおずおずとアルベリクの眼前に差し出した。


 封筒には蝋で封印がなされており、隅に青いインクで「アルベリクに宛てる」と示してあった。


 アルベリクはナタリーからペーパーナイフを受け取り、情緒のない手つきで遺言の入った封筒の口を切る。


 中に入っていた便箋は、たった一枚だった。二つ折りにされていたそれを指で開き、書かれている文字を目で拾う。


 しかしてそこに記された言葉を読みすすめると、アルベリクの表情はみるみるうちに曇っていった。というのもその手紙は、アルベリクの想像から甚だ逸脱した内容だったのである。




『親愛なるアル


 過ぎた日のことについて、今更許してくれとは言わない。


 だが、頼みがある。


 彼女を君の手元に置いて、決して世に出さないでほしい。


 彼女は私の最高傑作だ。よもや宝飾ではなく人間が最高傑作となるとは思わなかった。


 だが、彼女は恐ろしい女だ。



 彼女を大切にしてやってくれ。


 彼女はとても純粋で、心優しい女だ。


 なにより彼女の作品は素晴らしい。


 私は彼女の作品と、その存在に救われた。


 君も私と同じだ。いずれきっと、君も、彼女と彼女の作品に救われる日がくるだろう。



 だが、彼女の作品は、決して世に出すな。


 特に、泰皇や教皇をはじめとした権力者の手には、絶対に渡らないようにせよ。もし彼らが彼女の作品を手に入れれば、必ずや恐ろしいことになる。


 彼女を誰のものにもしてはならない。


 彼女を囲い込み、決して離すな。


 彼女の存在は、厳密に秘匿せねばならない。



 最後に、彼女に伝えてほしい。


 若き日の夢。


 あの日々の輝き。


 大切なことはすべて思い出した。ありがとう、と。



 宝飾技師ナタリー・ルルーの師 ガストン・ヴァルデック』



 末尾の署名まで通して読んだ後、アルベリクは素早く手紙を裏返し、追伸を探した。だが、今読んだ内容が、書かれていることの全てだった。


「やつは、気が狂ったのか……?」


 知らず、アルベリクの口からそのような言葉が漏れた。


「……師匠は亡くなる直前から、すこし心を患っていらっしゃいました。始終、貴方のことばかりをうわごとのように話して……」

けたか。哀れなことだな」

「何か、おかしなことが書いてありましたか?」


 おずおずとナタリーが尋ねてくる。


 何かおかしいどころではない。支離滅裂であった。


 そもそも、これほどの腕前の技師を囲い込んで世に出すななど、世迷い言も甚だしい。泰皇だの教皇だのと書かれたくだりに至っては、もはや誇大なる妄言である。


 しかし、彼女とその作品を二度『恐ろしい』と形容してある点は、流石のアルベリクも若干気になった。そこで彼は今一度、ナタリーの姿を見た。見るからに質朴な、一介の宝飾技師のたたずまいである。皇都で日夜、欲望の権化の如き人間たちを相手にしているアルベリクにしてみれば、彼女のような人物など、決して危険なものとは思えなかった。


 また、彼女の作品に何らかの力があるように書かれているが、科学技術の発展著しい当世において、かような呪いじみた力を信じるなど滑稽である。蝶のブローチにせよ、純粋な美としては極まっているが、救うだの救わないだのという修辞で飾られるのは、ひどく大仰に感じられた。


(やつは結局、死ぬまで変わりはしなかったということか。自分以外の技師を決して世に出そうとしないのだ。死んでも俺を縛り続けられると思うなよ、老いぼれめ)


 心のなかでしざまに毒づきつつ、アルベリクは何食わぬ顔でこう答えた。


「……君が気にするようなことは、書いていない」


 この狂気の遺言の内容を真面目にとる必要などないと、アルベリクはすでに決め込んでいた。


「それより、君に伝言だ。大切なことはすべて思い出した、ありがとう、だそうだ」

「そうですか……よかった」


 ナタリーが安堵に胸を撫で下ろす。その様子を見るや、アルベリクの眉が釣り上がった。


「何が良いものか。今気にすべきなのは、金の問題だろう」

「……おっしゃるとおりです。お金のことは、何か書かれていましたか……?」

「ただの一言も書かれていない。やつにとっては、些末なことだったのだろう」


 そう言うと、アルベリクはやにわに立ち上がり、チリチリと燃えるストーブの元へ歩み寄った。そして、ナタリーがあっという頃には、ストーブの天蓋を開けて、燃え盛る炎の中に手紙を放り込んでしまった。


 彼は振り返りざまに、ナタリーに向かって尋ねた。


「ときに、君はこれからどうしたい。まさかこの山小屋で一人、ガストンの遺品を胸に抱えて白骨化したいとでも言うのか」

「ま、まさか」

「なら、自分の力で君は稼がなければならない。そうだな?」


 彼は懐から縦長の冊子と万年筆を取り出すと、紙の上に淀みなく文字を書き付け始めた。一枚書く毎に、ページを千切ってナタリーの手元に滑らせてゆく。


 ナタリーは目の前に並べられていく紙片を不思議そうに見つめ、尋ねた。


「この紙は、なんでしょうか?」

「小切手も知らんのか……。これを銀行に持っていけば、ここに書かれた額の現金と引き換えてくれる」

「……そのような、便利なものがあるのですね」


 どこか他人事のようにつぶやきつつ、ナタリーは小切手の上に並ぶ数字を指で数える。


 一度数え終えたところで、彼女は訝しげに眉を寄せ、今度は「いち、じゅう、ひゃく、せん、まん……」と、声に出して数え直した。


「……三百万……!」


 書かれた金額に仰天して、ナタリーが叫ぶ。


 アルベリクはそんな彼女の反応に逐一付き合うことなどせず、自らが切った小切手について粛々と説明し始めた。


「額の多寡は判るようだな。最初のは当面の生活費だ。加えて、三箇所からの借金それぞれ二百万、五百万、五百二十万。〆て千五百二十万クルト、君に贈与する。返済は不要だ」


 ナタリーは、手にした都合四枚の小切手を凝視する。


 千五百二十万といえば、当時のごく普通の家庭であれば、切り詰めれば十年は働かずに暮らせる額だ。


 ナタリーの顔がみるみる青ざめ、彼女の小さく丸い肩が傍目に判るほど震え始めた。


 一方のアルベリクは対照的に、眉をぴくりとも動かさない。


 実際のところ、彼とて腹の底では沸き立つような期待と高揚を抱いていたのだが、それをおくびにも出さず交渉に臨んでいたのだった。


 彼は肩を僅かにすくめて、ナタリーをたしなめる。


「なんて顔をしている。別に無償でくれてやるというわけではない。対価として、ブランシャールと専属契約を結んで欲しい。無論、仕事の都度、報酬は別途用意する」


 アルベリクの目論見は、まさしくここにあった。


 ナタリーは、百年に一人の逸材である。うまく売り出せば、あるいは、ひと仕事で億単位の金を稼ぎ出す可能性を秘めている。


 千五百万ぽっちのはした金で金の卵を生むガチョウを買えるのならば、これほど安い買い物はない。また、そんな大事なガチョウを、みすみす競合にくれてやる気もなかった。


 この交渉の中で追加の金銭の要求があれば、ある程度応じる心算も彼の中にはあった。


 だが、アルベリクの提案に対するナタリーの反応は、彼の想像とは多分にかけ離れたものだった。


「──仕事までいただけるのですか!?」

「その通りだ。なぜ驚く?」

「今までここに来た方たちは、私の作ったものなど見向きもしなかったものですから……」


 驚くべき話だった。彼女ほどの腕があれば、他に契約を求める声があって然るべきなのだから。


 彼女が優れていることは、作品を一目見れば分かることなのだ。


 つまり、今まではガストンを除く誰ひとりとして、彼女の作品をその眼で見なかったということになる。


 あるいは、全員の眼が節穴だったのかもしれない。


 そして、もしも彼女の話が事実だというのなら──それはアルベリクにとって愉快ならざる事実があることを示唆していた。


「私の部下も、そうだったのか? 私に見せた時と同じように多層彫を最初に見せてもか?」


 ブランシャールとガストンとの間の直近のやりとりは全て、アルベリクの部下が執り行っていた。当然、その部下がこの工房を訪ねる機会は幾度もあり、その折にナタリーの作品を見る機会もあったはずである。


 だが、現実問題として、アルベリクがこうしてここにやってくるまで、ブランシャールとナタリーとの間に契約が生じることはなかった。


 その意味するところを想像して、アルベリクは目眩を覚えた。


 僅かの間、ナタリーは答えあぐねて言葉をつまらせていたが、やがて気まずそうに首を縦に振ってみせた。無言だったが、それが質問への答えだった。


 さしものアルベリクも、これにはため息をつくしかなかった。


「なるほど。それは、失礼なことをした……。地金を見る目もめる手も持たない人間は、耳と口だけで仕事をしようとする。だがそれは、三流の仕事だ」


 アルベリクは苦々しげに顔をしかめ、吐き捨てるようにそう言った。


 しかし、彼の苛立ちとは裏腹に、ナタリーの方は感じ入った様子で彼の言葉を聞いていた。


 その唇の先から、ポツリと呟きが漏れる。


「……師匠と同じことをおっしゃるのですね……」


 怪訝そうに眉を上げるアルベリク。


「何か言ったか?」

「い、いえ……」


 ナタリーは手の中の指輪にもう一度眼をやった。すがるような、問いかけるような眼差しであった。


 それが、瞬きをひとつする度に、確信を帯びた目つきに変わってゆく。


 アルベリクもまた、真摯な瞳でナタリーの表情の変化を見つめていた。一人の人生の大切な局面に立ち会っているという自覚が、無意識のうちに彼の顔つきを引き締める。


 やがて、アルベリクはある刹那、確かに目にした。彼女の中の、大きな変化を。


 ナタリーの眦に力が宿り、口元が引き締まる。直後、彼女は決然と顔を上げ、まっすぐな視線をアルベリクに向け投げかけていた。


「わかりました。要は、私も師匠と同じようにブランシャール様とお仕事できるということですね。それならば、微力ながら、お力添えいたします……! どうぞ、よろしくお願いします」

「そうか、よし、その返事が聞きたかった。いや、よかった。ありがとう。こちらこそ、よろしく頼む」


 アルベリクは思わず椅子から腰を浮かせ、たった今己の陣営に加わった新しい仲間に向けて手を差し出した。ナタリーは即座にこれに応じてアルベリクの手を握り返す。満面の笑みが、彼女の表情を輝かしく彩っていた。


 素敵な笑顔だと、アルベリクは素直にそう感じた。長らく遠ざかっていたまっすぐな人間の精神が、彼女の表情には溢れていた。


 しかし、ふと、アルベリクは我に返って思う。


 らしくない、と。


 彼は慌てて椅子を蹴り、立ち上がった。


「……すまないが、今からマルブールに戻らせてもらう。すぐ、皇都に手紙を送らなければならん。もし借金取りの連中が来たら、その小切手を掴ませて、二度とくるなと言っておけ。渡す金額を間違えるなよ」

「はい……!」


 微笑みと共に、ナタリーは大きく頷く。


(いま泣いた烏がもう笑っている)


 アルベリクは心の中で苦笑する。が、彼はすぐに思い直したように首を振り、


(いや、烏は俺の方か)


 自嘲気味に笑った。


 ナタリーがその様子を怪訝そうに見て、問うた。


「……何か?」

「いや、なんでもない」


 ナタリーは、不思議そうにアルベリクの様子を眺めていた。が、ふいに彼女は、いたずらっぽい笑みを浮かべてアルベリクの顔を覗き込んだ。


「アルベリク様は、どこか、師匠と似ていらっしゃいますね」

「……私をあんな男と一緒にするな。──失礼するぞ。また来るからな」


 アルベリクは逃げるように玄関に近づき、帽子掛けから帽子を取った。すると、後ろで待っていたナタリーが、彼の外套を手に持って、袖を通しやすいように掲げてくれていた。「ありがとう」アルベリクは呟いて、袖を通す。


 小娘のように世間知らずなところがあるかと思えば、このような細かな気遣いは抜かりなくこなす。不思議な女だとアルベリクは思いながら、山小屋を後にした。


 かんじきを履いて山道を下る。登るときにはひどく重かった脚も、今は嘘のように軽かった。全身に、異様な興奮と活力が充満していた。雪を踏みしめる度に、腹に封じきれなかった含み笑いが、アルベリクの喉から漏れた。


 山小屋の見えなくなる林道まで歩を進めた辺りで、アルベリクはこらえきれずに笑い出した。これから得られるであろう莫大な利益を思うと、笑わずにはいられなかった。欲望に染まった哄笑が、曇天の山嶺に長々とこだましていた。

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