第一章(2) 工房

 宝飾技師ガストンの工房は、マルブールより僅かに標高の高い場所にある。


 アルバール山は中腹にして既に雪深く、馬車などは到底立ち入ることができない。工房へ向かうには、山岳登山のために訓練された馬の背に乗るか、徒歩かの二択を強いられることになる。


 アルベリクは馬術をさほど得意としていなかったため、もっぱら徒歩で登ることを選んだ。


 最初に工房を訪れた際、何故このような辺鄙へんぴな場所に建てる必要があったのか、アルベリクは不思議に思ったものだった。この疑問は未だに解消していない。ガストン亡き今、永遠に謎のままとなるだろう。


 林の中の獣道に逸れ、脚に鞭打ち歩みゆくと、やがて林を抜け、小高い丘が目の前に開けた。夏は濃緑色の下生えが広がる清涼な高原であるのだが、今の時期はただ一面、忌々しい鉛色の雪に覆われているばかりだった。


 丘の中腹に、雪の色を凝り固めたような石造りの小屋が見える。それが、ガストンの工房だった。思うように動かない自分の脚を呪いつつ、アルベリクは薄い空気を肺いっぱいに吸い込んで、残りわずかの道程を踏破した。


 玄関前に設けられた吹雪よけの小屋に入り、かんじきを脱ぐ。すぐには扉を叩かず、しばらくの間息を整える。工房の中で一悶着あるかもしれない。その場合にみっともない姿を晒すわけにはいかない。


 やっと息も落ち着いてきたところで、アルベリクはおもむろに扉を叩いた。返事がない。呼び鈴を乱暴に鳴らすこと数十秒にして、ようやく家の中から微かな人の足音が聞こえてきた。


 玄関の戸が僅かに開き、隙間から暗い碧色へきしょくの瞳が覗く。その眼がアルベリクの姿を捉えた瞬間、怯えきった犬のように歪んだ。


 と、唐突に扉が閉まり、直後、扉の向こうからかんぬきを掛ける乾いた音が聞こえた。アルベリクの顔つきがにわかに不機嫌になり、眉間に皺が寄った。彼はぴたりと閉まった扉に向け、つばを飛ばして怒鳴りあげた。


「おい! 一言もなしに門前払いか。良識はないのか!」


 すると、扉の向こうから、か細くくぐもった声が聞こえてきた。


「…………失礼ですが、どちら様でしょうか……」


 女性の声だ。扉越しに怯えが伝わってくる。いまだ怒りの収まらないアルベリクは、この問いに対してぶっきらぼうに答えた。


「ガストンの古馴染みだ」

「……取り立ての方ですか……? すみません、今、持ち合わせが無いのです……」


 扉の向こうの声が、いっそう悲痛げにうわずる。


 この段になってようやく、アルベリクも冷静さを取り戻してきた。何においても感情的になってしまっては、うまくいかない。交渉事では特にそうだ。自分の感情に負けた方が交渉にも負ける。


 黒衣の商人は扉に顔を近づけると、向こうにいる相手に向かって語りかけた。声を一段低くし、一言一言諭すように。


「いや……怒鳴ってすまなかった。どうやら、君は誤解しているらしい。いいかね、私は借金取りではない。私は彼に前金で仕事を頼んだ。その成果物を受け取りに来ただけだ」


 二呼吸ほどの間、沈黙が続く。相対する女性の逡巡が、扉越しから容易に想像できた。


 アルベリクは震えながら足を踏み鳴らしていた。風防小屋の中とはいえ、高地の底冷えする寒さである。一年通して雪の降らない皇都に慣れきったアルベリクには、この寒さがたいそうこたえた。一つ大きなくしゃみをする。


 すると、このくしゃみの声を憐れに思ったのだろうか。かんぬきを上げる乾いた音が聞こえ、次いで扉がゆっくりと開いた。


 中から顔が覗く。存外若い女だった。アルベリクは、面食らって言葉を失う。後家と聞いていたので、もっと年嵩としかさと思い込んでいたのだ。


 女は顔を強張らせつつも、扉をさらに押し開いて、アルベリクを家の中に招いた。


「……中でお話しませんか? 風邪を引いてしまいますから……」

「すまない」


 アルベリクは素直に頭を垂れる。結果的にせよ、憐憫の情を誘って扉を開けさせることになったのは不本意だった。しかしながら、望む結果は得られたのでよしとすることにした。


 扉から身を滑り込ませると、暖気がアルベリクを押し抱いた。薪ストーブがカンカンに焚かれている。コートと帽子を脱ぐと、背後で待っていた女がそれを引き取ってハンガーに掛けてくれた。


 家の中をざっと見回す。ずいぶんとこざっぱりしている。アルベリクが以前訪ねた時は、雑然として足の踏み場に困る有様だったものだ。


 さらによく観察すると、いたるところにちょっとした飾り気が見て取れた。台所や階段前の柱などにはドライフラワーや小さな額縁などが飾られているし、今しも席につこうとしている食卓の上にも、深緑色の布地に蔦の刺繍をあしらったテーブルクロスが広げられている。おそらく全て、彼女の趣味なのだろう。


 しかし、これらの変化を見ても、アルベリクは仏頂面のまま眉のひとつも動かしはしなかった。住む人間が変われば家も変わっていくのが摂理だ。


 女は台所のケトルからマグカップにお湯を注ぐと、それをアルベリクの前にそっと置いた。その手が小さく震えているのを、アルベリクは見逃さなかった。


「どうぞ……」

「ありがとう」


 唇の先で僅かに白湯をすすり、適温だと分かると一気に飲み干す。おかわりを注ごうとする女を手で制し、アルベリクは目で座るように促した。


 食卓を挟んでアルベリクと向かい合いに座った女は、いかにも居心地悪そうにしていた。時折もじもじと身をゆすり、視線はあてどなく泳ぐ。その目が時折ちらりとアルベリクの方に向くのだが、視線がかち合った瞬間、磁石で反発でもしたかのようにくるりとよそを向いてしまう。


 どうやら相当の人見知りらしい。職人にはよくいる種類だ。


 アルベリクは女の挙動不審を気にするそぶりを見せず、居丈高に尋ねた。


「君がガストンの弟子か?」

「は、はい、おっしゃる通りです……。ナタリー・ルルーと申します……」


 女は上目遣いでアルベリクを見上げながら、消え入りそうな声で自らの名を名乗った。


 宝石商組合のテオドールの話では、彼女がガストンの遺産の分配を渋っているという。目の前の気弱そうな女がそこまでがめつい性根を持っているようには到底見えないが、人は見かけによらないものだ。油断はできない。アルベリクはそう判断した。


 彼はわずかに身を乗り出し、相手に強い印象を与えるはっきりとした声で自らの名を告げた。


「私はアルベリク・ド・ブランシャール。皇都のブランシャール宝飾店で店主をやっている」


 業界の人間相手にブランシャールの名前を出せば、大抵の場合相手は萎縮する。彼は今、まさにそれを狙っていた。だが、どうもこのナタリーという女には効果が薄いようだった。


 それどころか、アルベリクの名を聞いた途端、彼女はその目を輝かせる始末だった。希望にすがるような声で、女が訊いてくる。


「アルベリク……様? マルブールのアルベリク様ですか?」

「……出身はそうだが。それがどうかしたね?」


 不興げなアルベリクと対照的に、ナタリーの表情はにわかに明るく輝き始めた。それまでの怯えた様子から一転、人懐っこい笑顔が彼女の満面に広がる。その様子の変化には、さしものアルベリクも内心面食らっていた。


 彼女は食卓の上に身を乗り出し、興奮気味に語り始めた。


「ああ、貴方が……! よかった、本当にいらしてくださるなんて。実は私、貴方のことをずっとお待ちしていたのです」

「私を? なぜだ?」

「師匠が末期まつごの言葉で、後のことはアルベリクという方に頼れと……」


 ──あの老いぼれめ!


 思わず、アルベリクは心の中で亡き老技師に毒づいていた。


 これは、まず間違いなく、十中八九、ほぼ確実に、面倒事を背負い込む流れだ。


 アルベリクの目的は、納品物の回収。その一事である。それ以外の煩に堪えない話には、一秒たりとも関わる気がなかった。


 それがたとえ、古馴染みの遺言であったとしてもである。


 しかも、このナタリーという女は今、借金の取り立てに追われている。そうなれば、相談されるであろう内容などおのずと知れる。


 アルベリクは机を殴りつけたくなる衝動を必死に抑えながら、話を自分の目的の方に誘導していこうと試み始めた。


「……なるほどな。それで、やつからは他に何か遺言はあったか?」

「貴方宛に手紙を預かっています。ただ……」

「ただ、何だ?」

「その……手紙を見せる前に、私の作品を見てもらえと、そう師匠が……」

「作品? 君のか?」

「はい」


 向かいに座る女は、屈託のない微笑みと共にうべなう。彼女は、己の言葉がいかに大それた意味を持つか、全く理解できていないらしかった。天下のブランシャールの全権を握る人間が、無名の技師の作品をその目で品定めすることなど、余程のことがない限りあり得ない。本来ならば彼女のような輩は、自ら皇都まで出向きその手でブランシャールの戸口を叩く必要があるのだ。


 忌々しい気持ちを表に出さぬよう意識しつつ、アルベリクは問いを続ける。


「ふむ……それはどこにある?」

「工房です。今、お持ちしましょう」

「待て。……工房にはガストンの作品もあるな?」


 女が首肯するのを確認するや、アルベリクは即座に椅子を蹴って立ち上がった。


「なら、俺も工房に向かおう。そこの階段を下った半地下だったな」

「えっ、あっ、はい……」


 当然ながら、アルベリクには女の作品を見るつもりなど、毛頭なかった。自らの目的だけを最優先で達成し、しかる後、可及的速やかに退散する心算なのである。そうなると、女に作品を持ってこさせては流れが悪い。


 女がのんびり立ち上がった頃には、既にアルベリクは早足に部屋を横切り、半地下に向かう階段の手すりを掴んでいた。女があっけにとられている間にも、彼は工房へ続く階段を一気に下っていく。


 工房に入った瞬間、金属粉と松脂の匂いがアルベリクの鼻腔を刺激した。広い工房の中は小綺麗に整頓されており、そこに満ちる空気には適度な緊張感が漂っていた。


 部屋に入って左手には書架が据えられ、古いカタログなどが所狭しと並んでいる。


 正面に目を向けると、突き当りの壁に沿って工作台が二台据えられているのが見えた。そのうちの一台が、天井の採光窓から差す光によって神々しく照らされている。一瞥すると礼拝堂のごとき佇まいである。


 振り返って右手には、素材や作品を保管するための引き出しが数台、壁に沿って据え付けられていた。


 アルベリクは引き出しの前に立ち、ぐるりと首を巡らせた。引き出しにはラベル一つ貼られておらず、部外者であるアルベリクには、どこに何が収められているか判じ得なかった。


「ガストンの作品はどこだ?」

「師匠の作品は、こちらにまとめています。アルベリク様より頼まれた仕事も、おそらく、この中にあるかと思います」


 女が引き出しの一つを開けると、中には保管用のジュエリーケースが収められていた。


 ケースの数は都合三枚。そのうちの一枚に『ブランシャール納品物』と書かれた紙片が貼られていた。それを見たアルベリクは「これだ」と小さく呟いた。


 傍らの机の上にケースを置き、慎重な手つきで開く。ケースの上蓋が開いた瞬間、アルベリクは反射的に目を細めた。


 ケースの中は、別世界のような輝きに満ち満ちていた。色とりどりの宝石が散りばめられた肉厚の金の指輪や、大粒のダイヤを嵌め込んだ銀の指輪……。それらが、天鵞絨張りのベッドの上に静かに身を横たえている。


 デザインの異なる、十二個の指輪。これこそ、ガストンに発注していた品だった。


 アルベリクは懐から黒革の手帖と鑑定道具を取り出し、検品にとりかかった。仕様、個数、品質……。手帖に書かれた内容通りの作りかどうか、ルーペを使って一個一個慎重にしらべてゆく。


 やがて彼は口髭の奥からふっと一息漏らし、鑑定道具と手帖を懐にしまった。


「……よし、さすがはガストン。きっちり作って逝ったか」


 ジュエリーケースの蓋を閉め、身を翻す。そのまま黙って立ち去ろうとしたが、しかしそうは問屋がおろさない。背後を振り向くと、哀れな見習い技師の女が、身を固くして立っていた。


 アルベリクは女を一瞥すると、極めて事務的な口調で言い放った。


「これさえ手に入れば、もうここに用はない。邪魔して悪かった」


 その言葉を聞くや、ナタリーの眉が今にも泣き出しそうに八の字に曲がった。


「そんな……私の作品を、見ていただけないのですか……?」

「私も忙しい身でな。皇都の私の店まで来てもらえれば、職人採用試験をやっているからそこで……?」


 アルベリクの唇が、唐突に動きを止める。


 彼の目の端に、尋常ならざる『何か』が映っていた。黒髪の商人の赤い目が、すいと動いてその『何か』を正視する。


 それはナタリーの両手の中に収まっていた。


 黄金のブローチだ。


 彼女は両手で椀をつくり、その上に黄金製のブローチを載せていた。その手を、アルベリクに向かって控えめに差し出していたのだ。


「……君、その手に持っているものは?」

「これが、私の作品です……!」

「……よく見せてくれ」


 ブローチは大きさの割に、妙に軽かった。金のような光沢だが、どうやら本物の金ではないらしい。彼はもう一度ルーペを取り出し、作品を仔細に観察しはじめた。


「これは……」


 その構造をひと目見た瞬間、アルベリクは思わず喉の奥で唸った。


 ブローチが軽いのは、それが金に酷似した合金であるからだった。だが、アルベリクが驚いたのは、無論その点ではない。


 彼が唸ったのは、ブローチに施された細工の精緻さ、複雑さに対してだった。


 そのブローチは、大雑把に説明すると、縦半分に切った茹で卵の半球部分の土手っ腹に楕円形の穴を開けたような形状をしていた。そして、その中央の空洞部分に、大粒の翠玉すいぎょくが嵌められている。


 まず驚くのは、その翠玉すいぎょくを留める『爪』がどこにも見当たらない点だった。通常、宝石を地金に留めるには、爪などで宝石の縁を抑える必要がある。だが、この作品の場合、そういった留め金が宝石の周囲に見当たらない。そのため、翠玉はブローチの空洞の内部に、あたかも浮かんでいるように見えるのだ。


 おそらく、宝石と地金の死角に何らかの仕掛けをして留めているのだろう。古い時代の宝飾品に似たような技術を用いられているものがあるが、現在は技法が失われており、誰ひとりとして再現できていない。当然、アルベリクも実物を見るのは初めてであった。


 そして、もう一つ出色の出来なのが、その彫金の緻密さだった。


 彫金は外縁部と楕円形の中空部分、それぞれに施されている。外縁部の月桂樹の葉を模した透かし彫りは、これはこれで素晴らしい出来栄えである。だが、より目を引くのはやはり中空部分の構成であった。


 中空部分を覗き込むと、そこには一つの異空間が待ち構えている。上代の神殿内を彷彿とさせる情景が奥行きをもって表現され、翠玉すいぎょくの御神体に向かって祈りを捧げる人々の姿まで彫り込まれているのだ。人々の顔にはそれぞれ表情までついており、至福に笑うもの、神を前にして咽び泣くものなど、悲喜こもごもがはっきりと見て取れる。人々の群れは複数列の層をなしており、その層が中空部分に奥行きと現実感をもたらしている。


 しかも、このブローチはどこを見てもつなぎ目が無いため、複数の金属板を貼り合わせて作ったものではなく、全て鋳塊ちゅうかいから削り出したものだとわかる。


 アルベリクは、しばらくの間没我してこの神業のごとき作品を鑑賞していた。しかし、ふと、その黄金造りの神殿の中に魂を引き込まれるような錯覚に襲われ、彼は振り切るようにルーペから瞼を離した。


 我に返ったアルベリクは、己の上着が汗でじっとり濡れていることに気づいた。心臓の音が耳の奥でやけに大きく聞こえていた。


 その鼓動をかき消すように、背後から控えめな女の声が聞こえてきた。


「驚かれたでしょう。初見しょけんで心に留めていただくには、おそらくその子が一番だろうと思っていました」


 アルベリクはゆっくりと振り返り、ここに来て初めて、女の姿を正面から注意深く見据えた。


 ぶかぶかのつなぎとシャツを着た身なりは、どこにでもいる宝飾技師のそれである。風采もさしてぱっとせず、一瞥の限りにおいては、皇都に掃いて捨てるほどいる、平凡な町娘と変わりないように思われた。


 だが長いまつげの奥に収まる碧色へきしょくの瞳だけは、磨き上げられた裸石はだかいしのごとく、赫々かくかくたる輝きを放っている。


 アルベリクの目は、その瞳の奥をまっすぐに覗き込んでいた。先程彼が極微きょくびの神殿の内奥ないおうに感じたものを、瞳孔の向こう側にも探しているかのように。


 とはいえ、アルベリクの緋色の瞳に真正面から射すくめられれば、どんな人間とて平静ではいられない。ナタリーも例外ではなく、すっかり怯え切ってしまっていた。彼女の目は所在なげに右往左往した挙句、ついにはまるっきり床を向いてしまった。


 アルベリクは慌てて自らの視線を引き剥がす。


「……失礼。この眼はどうも、光り物に弱くていかん」


 などと弁明めいたことをひとしきり口の中でつぶやいたのち、彼は自らの手の中にあるブローチに話題を戻した。


「ときに君、これをどうやって作った? これは古代ロートシルト王朝の朝廷装飾で流行した高集積多層彫と中空留めだろう。どちらも失われた技法のはずだが……」

「師匠の蔵書していたカタログの中から、面白そうなものを見繕って見よう見真似で……。どこにも作り方が書かれてなかったので、だいぶん想像で補っています。このような細かい仕事は、師匠の老いた眼では難しかったようです」


(いや、盛時のガストンにしても、これほどの作品を作れたかどうか……)


 アルベリクは心の中でそう評していた。


 彼はナタリーを怯えさせぬよう慎重に視線を配しつつ、努めて穏やかに尋ねた。


「……他にもあるのか? あるなら見たい」

「ありがとうございます……! でも、そうなると、少し迷ってしまいますね……。その子のような習作を幾つも見せられても、所詮は人真似ですし、退屈してしまうでしょう……。……あっ、この子なんてどうかしら!」


(これで習作か……)


 アルベリクが己の手の中の小世界にいま一度眼を奪われていると、その視界を遮るように、ナタリーが手を差し伸べてきた。


 その手には、煌めくブローチがひとつ載っていた。


「最近作った中では、一番自信のある作品です」


 女はそう言って、はにかむような笑みを見せた。


 そのブローチの出来が尋常でないことを、アルベリクはひと目で見抜いた。


 一匹のアゲハ蝶を模した作品だった。標本のように大きく羽根を開いた形。虹色の光彩を放つブラックオパールを削り出して作られた四枚のはね。胴体と、

はねを巡る脈は金の地金。そして、胸部に秘めやかに収まる大粒の蒼玉。


 特筆すべきは、その質感だった。節の一本、脈の一筋、肌のざらつきに至るまで精緻に作り込まれている。硬い素材で作られているにもかかわらず、その肢体は今にも羽ばたき出しそうなほどに躍動的な流線を描く。


 それを宝飾品と呼ぶのをためらうほどに、あまりに生命的な造形だった。


 虹色の翅と黄金の身体を持つ、幻想世界のクロアゲハ。いまだかつて、誰一人として見た者のない、世界でただ一匹の──。


 アルベリクの喉が、知らずのうちに音を立てる。


 この装飾を見てしまっては、現在出回っている王侯貴族向けの旧態依然とした高級宝飾など、真鍮のドアノブかイボガエルの背中程度の出来にしか見えなくなってしまう。それほどまでに画期的な出来栄えだった。


 その至高の一品をめつすがめつしている内に、ふと、アルベリクは胸部の蒼玉に不思議な光を認めた。


「……この中央の蒼玉はカットが独特だな」

「さすが、よくお気づきですね……! まさに、おっしゃるとおりなのです。パビリオンのファセットに工夫があって、遠目ではきらびやかに、近くで見ると青の深みを味わえるように細工しています。こういったものは、ただ輝かせれば良いというものでもないと感じたのです」


 喜々として語るナタリーに、アルベリクはわずかながら目をみはった。どうもこの娘は、自作の解説をし始めると人が変わったように饒舌になるらしい。


 しかし、いま一度見ればなるほど、ナタリーの語るとおりだった。机に置いて遠くから眺めてみると、蝶の胸元は気を引くような輝きを見せる。そして近づいて見てみると、蠱惑的なほど深い青で吸い込まれそうになる。


 人の眼を誘引して離さぬ蝶の姿はまるで、はるか遠く手の届かない何かを、それでもしきりに恋い求めているかのようだった。アルベリクは脳の奥に心地よいまでのしびれを感じ、それに飲まれぬよう幾度も首を振る。


 青は藍より出でて藍より青し、という諺がアルベリクの脳裡をよぎった。しかし、彼女の技巧はガストンのそれとは次元が異なる。ガストンのやってきたことは、良くも悪くも宝飾工芸に過ぎなかった。しかし、彼女の仕事は、もはや芸術の域すら超えている。人の魂をたぶらかすほどの造形は、魔術や奇術の類と呼んでも良いかもしれない。


 赤眼の男はしばらくの間、ナタリーと彼女の蝶を交互に見比べていた。次いで、思案げに足元に視線を落とす。


 やがて、何らかの決心が固まったか、彼はその眼を真っ直ぐにナタリーに向けた。


「話をしたい。上に戻ろう」

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