第一章 藍より滴る深蒼

第一章(1) マルブールの宝石商組合

 垂れ込める曇天の下、鉛色の雪原が、いかにも不機嫌な面持ちで横たわっていた。


 遠く青々とそびえる山脈の足元まで、不動の大地が重く広がっている。


 この広大な雪原の上に、一台のちっぽけな馬車が、二本のわだちを細く刻んでゆく。


 絢爛たる箱型屋根付きの馬車である。黒い車体の四隅が銀の意匠で縁取られており、これがことさら見事だった。二頭立てであることや、御者の身なりからしても、貴族向けの馬車に相違なかった。


 車の中に見える姿は一人。黒の山高帽と、同色の外套を着込んだ黒髪の男である。おまけに口髭も黒い。帽子のつばの奥から覗く瞳だけが、黒尽くしの中にあって唯一、柘榴石のごとき猩々緋色しょうじょうひいろに光っている。


 この男こそ、若き日の宝石商アルベリク・ブランシャールその人だった。


 アルベリクは車窓の外に落ち降る雪などに目もくれず、身を乗り出し、御者に向かって怒鳴った。


「急げ。アルバールの馬の脚はこの程度の雪では折れん」

「アルベリクさん、馬は馬屋に任せてくださいよ」

「では、これで急いでいるつもりなのか? これでは駅馬車の方がよっぽど速い」

「馬車が重すぎるんです……!」


 御者の言は正しかった。馬車に施された銀の装飾で車体の重量がかさみ、それが馬の歩みに少なからぬ負担を強いていた。小さな起伏を越すだけで鼻息荒く汗かく二頭の牡馬の姿は、いかにも哀れだった。その上、街道の上に打ち粉された雪は、量こそ多くないものの、たびたび馬と車の足を滑らせた。


 アルベリクは心の中で密かに舌打ちしていた。御者や馬に対してではなく、己自身に対してである。この馬車を選び、この経路を指図したのは他ならぬ彼自身だった。十年余ぶりの帰郷に際し、貧相な馬車を使いたくなかったのだ。


(間抜けな話だ。皇都に慣れすぎてヤキが回ったか)


 荒い鼻息を吐きつつ、アルベリクは天鵞絨びろうど張りの座椅子に身を沈めた。


 平原に伸びる街道は、彼らがゆくこの一本のみである。この道を辿ってゆけば、やがてアルバール公領の領都マルブールまで行き着く。この都マルブールこそ、アルベリクの故郷であり、古馴染みの仕入先の一つでもあったのだ。


 平原を越え、森林地帯を迂回しきると一気に視界がひらける。すると、この一帯の最高峰であるアルバール山の威容が眼前いっぱいに飛び込んできた。


 目指すマルブールは、アルバール山の長い裾野の端に額づくようにしてその身を横たえていた。黒々とした玄武岩を城壁として巡らせるその街の姿は、なんとも無骨でいかめしい。国境の要地に位置するこの街は、要害としての役割も担っていた。


 御者は長大な城壁をその目に収めた途端、安堵に頬をほころばせた。一方、馬車の中のアルベリクはというと、相変わらずむっつりとした表情のまま故郷の姿をめ据えるばかりだった。


 馬車が城門をくぐり抜け、一軒の建物の前に横付けするやいなや、アルベリクは路上に文字通り飛び出した。その足が地についた瞬間、薄雪残る石畳を蹴り、眼前の建物──宝石商組合の屋舎に向かって駆け出していった。


 彼が急ぐのには理由があった。とある情報の真偽を確かめる必要に迫られていたのだ。


 一人の宝飾技師の訃報である。その宝飾技師は、アルベリクの古くからの取引先であり、彼を宝飾の道に進ませるきっかけを与えた男でもあった。


 組合の分厚い扉を押し開くと、屋内にこもった暖房の熱気がもうっと顔にかかってくる。


 屋内の構造は銀行のそれとほぼ同じだった。やや高い天井の下に長いカウンターが横たわり、それを差し挟んで商人と職員が交渉している。カウンターの向こう側には机が整然と並べられ、その机にへばりついた事務員たちが書類と懸命に格闘していた。


 アルベリクは脇目も振らずに建物の奥まで歩み進むと、カウンターの一番端で暇そうにしている初老の男の前に立ち止まった。


 男は客を一瞥して、それがアルベリクと分かると僅かに目を細めた。


「来たか、アル。お前を見るのはずいぶん久しぶりな気がするが……」


 のんびりとした口調で語りかける男とは対象的に、アルベリクは声音鋭く詰問した。


「テオ、ガストンがくたばったというのは本当か?」

「……ああ……」


 アルベリクの第一声は、それまで穏やかだった男の表情を曇らせた。明らかに失望した様子である。しかし、そんな様子を意に介すことなく、アルベリクは矢継ぎ早の質問を飛ばす。


「そうか。それで、今の状況は? 遺産はどうなっている?」

「もう葬儀はとっくに済んじまったよ。身寄りがないからなあ、寂しい葬式だった……。やつの弟子と、ワシと、ワシの妻と、それから神父様だけで棺を囲んで……」


 アルベリクが苛立たしげに唸りながら、喋る男の言葉を遮った。


「遺産はどうなっている? 部下が前金で頼んでいた仕事があったのだが」

「……詳しくは知らんが、やつの弟子が遺産の分配を渋っていると聞いとる。もともと身寄りもないし、相続の話にはその弟子とお前の同業者くらいしか関わっていないだろう」

「チッ……。直接やりあうしかないな。その弟子というのはどんなやつだ?」

「街に住んでた後家の女さ。もともとはカッター(宝石のカット職人のこと)だったんだが、装飾もやりたいというので、三年ほど前からやつのところで住み込みになった」

「道理でな。私がやつを最後に訪ねたのは……確か五年以上前のはずだ。その時は弟子など取っていなかった。──女だと言ったな? そうか、なら一人で行っても大丈夫か……」


 黒衣の商人はそう言って思案げに口髭をさすった。商売柄、この手の金銭トラブルはいかようにも避けて通れない。ときには暴力沙汰刃傷沙汰になることもある。その恐れがある場合は、あらかじめ用心棒を雇うことも考えなくてはならない。だが、少なくとも今回の事案では、その心配は無用のようだった。


 そうと判れば、一刻も無駄にはできない。時間が経てば経つほど、損失のリスクが増してゆくだけなのだから。


 簡潔な礼を言い置いて、アルベリクは機敏に身を翻す。その背中に向かって、テオが慌てて声をかけた。


「墓参りには行かんのか? 埋葬は……」

「どうせ共同墓所だろう? だが、まずは現物確保だ」


 アルベリクは出口に向かって歩きながら、振り返りもせずそう言い放った。


 テオは暫く呆気に取られたように口を開いていたが、やがて嘆かわしげに溜息をつき、かぶりをふった。


「……お前は変わったよ、アルベリク……昔とはまるっきり別人のようだ。あの頃のお前は……」


 入り口の把手に手を掛けたところで、アルベリクは首だけ僅かに振り返り、男を睥睨した。緋色の瞳を収めた瞼が、刃のように鋭く切れ上がる。


「私は、説教や思い出話を聞くために帰ってきたわけではない」


 しんと静まり返った室内に、声が冷たく響く。その声はしかしすぐ、扉の閉まる音に紛れて消えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る