蔵の内

@aterui1104

第1話

        「蔵の内」

                       城場 調布

 元禄十五年師走。日本橋界隈のとある町家に寄宿していた大石内蔵助の元を、一人の若侍が訪れた。

若侍が持参した書状を見て、内蔵助は我が目を疑った。何と、それは側用人の柳沢出羽守からのものだったのだ。天下の側用人が、今や市井の一浪人に過ぎぬこの身に、一体何の用があるというのか。

書状には“年の瀬の寒気払いの一献を共に傾けたく……”とあり、本所深川の豆腐料理屋「きぬや」の名が書き添えられていた。

 当日、内蔵助が「きぬや」に出向くと、通されたのは豪勢な誂えの部屋だった。

 ほどなく廊下に気配がして、御免、の声と共に二人の侍が部屋に入って来た。一人は五十歳ほどの人物で、その後ろに白髪頭の枯れ木のようなもう一人が続いた。

年若の方の侍が内蔵助の正面に座り、柳沢出羽守と名乗った。そしてこちらは、と言って、内蔵助の横に座った人物に目を遣った。

「吉良上野介殿にござる」

 驚く内蔵助に、上野介は丁重に頭を下げた。

「本日は、吉良殿が是非とも大石殿に申し入れたき儀ありとの事で、不肖柳沢が同行を仕った。暫し、吉良殿に耳をお貸し願いたい」

 一呼吸置いて、上野介が語り始めた。

「此度の殿中での一件、元々は身共の歳甲斐もなき振舞いから出た事で、赤面の至り」

「…………」

「されど、もし赤穂の方々が巷の噂の如くにこの身を討たば、全員の切腹は免れますまい。聞けば、赤穂の方々は既に百名もが腹を切るご覚悟とか……」

 されど、と上野介は内蔵助の顔を見据えた。

「身共のせいぜいあと三、四年のこの命たった一つに対し、赤穂の方々は皆お若く春秋に富まれ、しかも総勢は百名ほどにもなるとの由。残される父母や妻子も、こちらの身には僅かに数名。それに対して、そちらは恐らくは数百名。いかに忠義が本分の武士の道とは申せ、合わぬ算盤とは思し召さぬか?」

 そこに廊下から声か掛かり、仲居達が膳を運んで入ってきた。そして女等が退出すると、上野介は銚子を取り上げて正面の出羽守、そして横の内蔵助の盃に、それを傾けた。

 内蔵助は口に酒を一含みして、盃を置いた。

「此度の件は、我等藩士とて青天の霹靂。尤も藩主の短気短慮の性向は、日頃より我等が密かに危惧する所では、ありましたが……」

 そう言って、内蔵助は小さく溜息をついた。

「それにしても、殿中にて刃傷に及ぶ前に、己が振るう一太刀で一国を失い藩士達を路頭に迷わせると、些かなりとも案じては頂けなんだのか、と心中で恨まぬ者はおりませぬ」

 押し黙って耳を傾けていた出羽守が、呑み干した盃を脇に置いて正面の二人を見据えた。

「お二方のご存念、よく分かった。亡き浅野殿への忠義はあろうが、ここは残された方々を第一に考えねばなるまい。だが、世間はこの一件で沸き立っておる。世間が、赤穂の衆の仇討を今か今かと待っておるのだから、それを見ずば収まるまい。……厄介な事じゃ」

と、出羽守は膳の小鉢を一つ手に取って、

「これは、この店の名物料理の卯の花、おからでござる。たかが大豆の搾り粕ではござるが、淡雪のような口当たりとあっさりとした味は、酒の供にはもって来いでござるよ」

 そう言って出羽守は卯の花を一箸口に運ぶと、ふと内蔵助に向き直った。

「そう言えば、大石殿は西国のお方。お国では、この卯の花を何とお呼びかな?」

「きらず、と申します。豆の搾り粕ゆえ、煮炊きするにも食するにも、切るには及ばず。それゆえ、切ら……ず……」

そこで内蔵助は膝を叩き、ニヤリと笑った。

「さても、本日のこの席には、かかる仕掛けがござったとは……。切らず、などと吉良様の面前でこの大石、出羽守様には言わされてしまいましたわい」


 その年の暮れに、赤穂浪士による吉良邸討ち入りの騒動は、確かにあった。そして上野介は討たれ、内蔵助等四十七士は切腹、とか。

だが討ち入りも切腹も、いずれも武家屋敷の高い塀の中での出来事だから、庶民が知るとはいっても、筋立てはすべて己が見聞きした講談や芝居のまま。

後日。四十九名の侍が、吉良家所縁の米沢藩に入ったという。だが人数は二人多いし、仇討には邪魔になるだけの白髪頭の枯れ木や、短気そうな人物まで混じっていたとも言うし、件の四十七士とは関係なさそうだ。

この騒動が演目ならば芝居は大入り、庶民は日頃の憂さを晴らせたし、武士道も何とか面目を保てたようだ。

騒動の後はかように良い事尽くめで、さては台本でもあったのかい、などと冷やかす向きもあれば、そう言えば柳沢様にはお抱えの戯作者がおったそうだ、などと余計な事を申す者までおったがはて真相は、元禄芝居の蔵の内。チョーン!         

                  ―完―


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