2089/11/06 眠り
凄まじい衝撃があった。それでカズキは目を覚ました。たまさかの魔がイギリスのランズ・エンドから飛びたって一昼夜が経過した、2089年11月6日の朝のことだった。
目まぐるしく景色が変わり、カズキには何が何だか分からなかった。蝙蝠に似た翼、その翼膜に開いた大穴、曇った空、濁った海面、灰色の浜、それらが視界の中で回転して混ざり合う。
落ちる。
今の彼には存在しないはずの臓腑が浮き上がるような感覚を、カズキは覚えた。
そして、更に大きな衝撃。ばきばきばき、と何かが折れる凄まじい音がした。たまさかの魔が、巨大な翼をクッションにしながら砂浜に着陸――否、墜落していた。翼の骨は折れ、皮膜は破れ、爪が剥がれた。ばちん、と音を立てて、たまさかの魔の背中にトランクを固定していたベルトがちぎれて飛んだ。カズキには一瞬、宙を舞うトランクが見えた。
それだけ混沌とした状況にあっても、首だけのカズキには傷一つつかなかった。たまさかの魔がカズキを大事に抱え込んで庇っているのが、嫌でも分かった。
十数メートルほど浜を転がって、墜落はようやく終わった。くしゃくしゃに折れ曲がった翼は消え失せ、砂にまみれ、ボロボロになった石竹色のコートに戻っていた。
「おい、今のは」
カズキが声をかけたが、たまさかの魔からの反応はなかった。吸血鬼は右腕を下に、丸くなって横たわったまま沈黙していた。カズキの首を抱えていた両腕は力なく投げ出され、カズキは右の二の腕を枕にしていた。
たまさかの魔は眠っていた。あるいは、気を失っていた。
彼の服は変身を解けば元の形に戻る。しかし、ボロ同然のコートや、汚れてあちこち破れた燕尾服が再生する気配はなかった。吸血鬼の体は冷たく、呼吸の気配はない。彼らは息をしない。発声には空気が必要であるから肺は使うし、感情表現として息を吐くような仕草をすることはあるが、呼吸そのものは必要としない。だから呼吸の有無で生死確認はできなかったが、それでもカズキには、たまさかの魔が生きていることは分かった。
吸血鬼は死ねば灰になるからだ。例外なく。彼だってそうだった。二百年前、確かにカズキがその目で確認した。指の先から、見慣れた顔、栗色の髪の一本に至るまでが、残さず灰に変わるのを――。
今のたまさかの魔は意識を保ち、衣服を再生する余力もないほどに消耗しているようだった。
たまさかの魔は顔をカズキの方に向けていたから、その様子が観察できた。乱れた栗色の髪。閉じられた目。睫毛には砂粒がついている。青白い肌にはいたるところに擦り傷があり、それらが再生する気配はない。眠っている顔だけ見れば無害な青年のようだったが、わずかに開いた唇から覗く牙がそれを否定していた。
「……」
暇になったので、カズキは首だけでもがいてみた。今の彼には喉仏から下が存在しない。横を向こうとしても、土台となる体がないのではうまくいかなかった。悪魔祓いとしての訓練の中、肉体は全身が連動しているのだとカズキは理解していたつもりだったが、首だけではこうも不便なものかとカズキは辟易した。どんなに勢いをつけようとしても、彼の首はわずかに左右に動くだけだった。それでも、慣れていけばもう少しは動けるのではないかと苦闘していると。
ぱち、と吸血鬼の目が開いた。
「……カズキ!」
「うるせえ」
カズキの苦言は全く耳に入っていないらしく、たまさかの魔は横たわったままカズキを持ち上げ、あるいはひっくり返して、彼に怪我らしい怪我がないことを確認した。そうして、大きく安堵の息を吐いてみせた(呼吸なんてしていないくせに!)。
「よかった。怪我はないみたいですね。すみません、綺麗な髪が汚れてしまって」
そう言って、吸血鬼は手櫛でカズキの髪を
「下手くそ。着地ぐらいまともにできねえのか」
「いやあ、それが……あ、トランク!」
言いかけたところで、自分が背負っていたトランクが側にないことに気がついたらしい。
「ごめんなさい、少しお待ちを」
そう言ってたまさかの魔は身を起こすと、ズタボロのコートを脱いで浜の上に広げ、その比較的無事な布地の上にカズキの首を置いて立ち上がった。カズキからも、やや離れたところにトランクらしきものが落ちているのが見えていた。
吸血鬼がそこまで駆けていく。トランクを開ける。それからティーポットを取り出した彼が、その注ぎ口から直で『中身』を飲みはじめたのが見えた。
丸一日血をとっていない上に、この墜落である。たまさかの魔の空腹は相当のものだったに違いないが――時折口から溢しながら必死に血を飲むその姿は、やはり、彼が紛れもなく怪物であると言うことを表していた。
しばらくして、腹が満ちたのか、名残惜しそうにポットから口を離した吸血鬼は、トランクに入っていたタオルでポットと口元を拭ってから、そのままポットをタオルで包んでトランクに納め、カズキの元へと戻ってきた。
戻ってくるまでの十数歩の間に、先ほどまでズタズタだった燕尾服は新品同然に、擦り傷だらけだった白い肌には汚れひとつなくなっていた。ふと気がつけば、カズキが乗せられている石竹色のコートも、元の形を取り戻している。
化け物め、と、声に出さずにカズキはつぶやいた。
「うん? 何か言いました?」
「すみませんね、お待たせして。流石に消耗しすぎまして」
そうして右脇にカズキの首を抱えると、たまさかの魔は空いた左手でコートを拾い、バサバサと振って砂を落とし、袖は通さずに肩に掛けた。それだけなのに、吸い付いたようにコートは離れない。衣服もまたこの吸血鬼の一部であることを示していた。
「で、何だったんだよあの着地。あれだけ自信満々にアメリカ行きます! とか言っといてこれか?」
カズキの言葉に、たまさかの魔は思いがけないことを口にした。
「いやあ、俺としたことが、撃ち落とされました」
「は?」
「あれですよ。見えます?」
ひょい、と彼はカズキの首を高く掲げてみせた。
そうすると、嫌でも遠くまで見えるようになって――「それ」が見えた。
「何だ、あれ。大砲?」
「みたいなもの、だと思うんですけど……」
たまさかの魔の言葉も歯切れが悪い。そのはずで、「それ」は二人が生きていた時代よりはるかに発展し、進化していたからだ。
錆びついた黒鉄の台座に、錆色の六角柱を無数に束ねたような鉄塔――大砲が、空を向いていた。二人の語彙では「大砲」としか言いようがなかった。
それがずらりと、浜辺から少し離れたところに並んでいるのが見えた。十数台はあるだろうか。そのうちの一つが、その口から煙を吐いている。
「この辺りに生きた人間の気配はありませんから……おそらく、勝手に侵入者に反応するようにできてるんでしょうね。昨今の人間たちはそういったものを作れるようになっていた、とは聞いています」
「あんなもん、何でこんな何もないところに並べてるんだ?」
「大災害に乗じて随分と戦争も増えたようですから、おそらく防衛かと? とはいえ、まさかまだ動くものがあったなんて……って、ああ」
そこまで言いかけて、たまさかの魔は自嘲気味に笑った。
「油断したから『想定外に』撃たれたんですねえ、俺。気をつけなければ」
我ながら難儀な体質です、と呟く彼をよそに、カズキはいつになったらこの旅が終わるのかを考えていた。
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