2089/11/05 旅
2089年11月5日の夜明けを、たまさかの魔とカズキは大西洋の上空で迎えた。前日に続いて重苦しい曇りの日で、おまけに西に向かって飛んでいるために朝日は見えなかった。しかし、分厚い雲越しにも容赦なく陽光は差し込みつつあり、たまさかの魔が不快そうに身じろぐ気配がした。
それでも彼が翼を休める様子はない。カズキが過去に見たものよりも、そしてこの旅路での飛行で見せたものよりも倍は大きく、形状も異なる翼を広げ、向かい風をいなしながら、吸血鬼は大西洋を渡っていた。
カズキは眼下を見た。本当に生きていた頃、カズキは何度か大西洋を見たことがあった。しかし記憶の中の海と、今の海はまるで違った。大西洋は黒く濁り、ところどころでぶくぶくと、気味の悪い泡が噴き上げているところがあった。白い煙が何もない海面から上がっている場所さえ見える。
「海底で火山でも噴火しましたかね」
びょうびょうと風を切る音の中、たまさかの魔が言った。カズキは聞こえないふりをして答えなかった。
たまさかの魔は、カズキの沈黙に構わず話し続けている。
「アイスランドでしたか。もっともっと北にある島なんですがね、地が裂けていて、その裂け目がまるごと火口なのだと聞きましたよ。そこは常に陸が生まれ続ける場所なのだと——ふふ、おかしいですね、地獄にいた頃のことは思い出せないのに、地獄から見上げながら知った『今』の知識は覚えているなんて」
そうだ、本来火山活動が活発な場所は遥か北のアイスランドか、あるいはずっと南、モロッコ沖のカナリア諸島だ。その知識はカズキにもあった。天国で得たものだろう。天国でのことはカズキも思い出せないが、天国から移り変わる地上を見下ろして得た知識は持っていた。
だから今、この星が壊滅的な災害に襲われ、大西洋はもはやカズキの知る海ではないことも、知っていたのだった。知っていたのに強制的に、生首だけで蘇生されて、人類の終わりを目の当たりにさせられている。
「うーん、参りましたねえ……」
前日、2089年11月4日の夕暮れ時、ランズ・エンドの展望を眺めながらたまさかの魔は呻いていた。正確にはランズ・エンド「だったもの」を眺めていた。
「派手に崩れてんな」
吸血鬼の腕の中、気のない声でカズキの首が言う。
イングランド最西端の岬、ランズ・エンド。文字通り「地の果て」として古くから親しまれてきた場所だが、ここも例外なく変わり果てていた。
岬の突端までは遊歩道があったようなのだが、遊歩道の開始からそう遠くない地点からごっそりと、岬そのものが崩れ、途絶えていた。岬の手前にはカフェらしき建物があったがこれも崩れていて、生きたものの気配はなかった。世界が滅んだ時、ここにいた人々はどこかへ逃げたか、あるいは――崩落に巻き込まれたか。ここに来る途中にも、この岬にも、いくつも深い地割れや隆起が発生していた。
「岬の先に島があって、灯台が見えるそうなんですが……見えないな。崩れたんでしょう。この辺りも完全に地形が変わってますね。ある程度は覚悟してましたが、これほどとは」
目を細め、西の水平線を見ながらたまさかの魔が言った。空は曇り、大西洋に沈みかける太陽の光をわずかに透かして、不気味に赤黒く染まっていた。
「どうすんの、お前。世界の果てから世界の果てへ、とかカッコつけてたけど」
カズキが尋ねると、たまさかの魔は首を傾げて、
「え? 当然行きますよ。崩れたなら崩れたで、今の端っこが『ランズ・エンド』ということで。血の補給をしたら、すぐにでも発ちましょうか」
などと答えた。
「発つって……大西洋渡んの?」
「はい。北米大陸に向かいます」
なんでもないことのように吸血鬼は言う。
「今の偏西風がどうなっているか次第ですが、まあ、この感じではほぼほぼ向かい風でしょうから、一昼夜ってところですかね。丸一日は海の上です」
崩壊した後もなお、海の方からは強い西風が吹きつけていた。
「吸血鬼は流水渡れねえんじゃなかったのか」
「俺は日本出身ですよ? どうやって極東の島国から大陸に渡って、大英帝国まで行ったと思いますか?」
自慢げにたまさかの魔が笑う。
「故郷の土でも詰めた箱に入って密航したんだろ」
悪魔祓いたちの間ではある程度知られた「吸血鬼の流水対策」だ。図星だったのか、一瞬たまさかの魔は黙り込んだが、
「ドーバー海峡は飛んで渡りました」
それだけは妙に誇らしげに言ってみせた。
「つまるところ、太陽への耐性と同じく個体差が大きいということです。俺の場合、吸血鬼になって時間が経つにつれて耐性がついていった形ですね。ドーバー渡りまで二百年ぐらいかかりました。あちこちに十年ばかし滞在して、味見しながらシルクロードを西に――」
「で。結局どの程度、流水が平気なわけ」
話が長いので途中でカズキが遮ると、自慢げだったたまさかの魔の顔が少し曇った。
「ちょっと気持ち悪くなります。夜ならまだマシですが、昼は……そうですね、昼に陸にいる時よりもっと馬力が落ちます」
カズキは眉根を寄せた。
「お前、ドーバーと大西洋の差、分かってんだろうな?」
「分かってますよ」
「向かい風だって自分で言ったよな」
「ええ」
「丸一日飛ぶとか、意味分かって言ってんの?」
カズキの問いに、たまさかの魔がにこりと笑った。
「心配してくれてるんですか?」
「馬鹿、落とされる心配してるんだこっちは」
「あなたと一緒なら海の藻屑になっても俺は構わないですけど」
「前言撤回。お前と一緒なら海底で一ヶ月沈んでる方がマシ」
「もう、つれないんですから。大丈夫ですよ。絶対に落としたりなんてしませんから。それに」
吸血鬼の笑みが深くなる。
「俺は逆境の方が強いのは、あなたもよくご存知でしょう?」
その通りだった。カズキは黙ってたまさかの魔の顔から目を背けた。
日が沈んだ頃、ティーポットで多めに血の補給を行ったたまさかの魔は『ランズ・エンド』から飛び降りた。石竹色のコートを変形させた黒い翼で力強く羽ばたき(この吸血鬼は身につけた衣服ごと変身する)、向かい風を受け止めながら上昇し、胸にカズキの首をしっかと抱いて、彼は大西洋渡りを始めた。
夜の間、雲に閉ざされて月光は届かず、星も見えなかった。目を開けても閉じても一面の闇だったので、カズキは夜のほとんどを眠って過ごした。時折でひどく揺れたが、カズキの首を抱える腕はびくともしなかった。
そうしてどうにか、今も二人は大西洋の上にいる。雨でも降っているのか、水平線は霞んでいて、陸地はまだ見えない。
「カズキ」
やや余裕のない声で、たまさかの魔が言った。
「どうして我々が流水を——特に、海を苦手とするか、ご存知ですか」
「知らん」
素っ気なくカズキは答えた。弱点は弱点であればよく、理由は分からなくてもよかった。陽光に耐性がなければ昼間に寝床を暴き、聖水やニンニクが効くなら使ったし、銀が効くなら銀を使った。そしてどんな吸血鬼も、心臓が弱点であることに変わりはなかった。ある意味で彼らは血液が本体だった。故に、血を司る器官を破壊されると滅びる。それだけ知っていれば十分だった。
カズキの返答を、たまさかの魔は特に気にした様子はなかった。吸血鬼は続けた。
「これは俺個人の見解ですが、海水は血に似ているからです。あるいは、血が海に似ているのかもしれない。あなたたちの中には海がある。ですから——」
胸に抱えられているから、たまさかの魔の顔はカズキからは見えない。それでも、胸郭から細かな振動が伝わってきて、この吸血鬼が笑ったのが分かった。
「この海のすべてがあなたの血だと思えば、ええ、ええ、悪くないですね」
耳が塞げればいいのに、とカズキは思ったが、首だけの彼には叶わないことだった。
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