2089/11/04 温室
その日、カズキは屋敷の庭の片隅にある、小さな温室にいた。
晴れた晩秋の日だった。外は昼間でも冷え込むようになっていたが、温室の中は温度と、植物たちの蒸散による湿度が保たれていた。
温室は、カズキの死んだ父の手によるものだった。カズキの父は植物を集めることを好んでいた。今はシダの葉の間、秋咲きの薔薇が見事な大輪をいくつも咲かせている。父の死後は使用人のメアリが、家事の合間に面倒を見ていた。
カズキは植物に興味はなかった。ただ、半年前、父が悪魔祓いで返り討ちに
「ニシムラさん」
温室の扉が開く音と、若い男の声がした。外の冷気が忍び込む前に、声の主は温室に入って扉を閉めた。
「こちらにいらしたんですね」
カズキは振り返る。数日前から屋敷に下宿している、留学生の日本人がそこにいた。栗色の髪に細面の顔。目尻が釣った双眸は鳶色で、親しげにカズキの方を見つめている。年はカズキより一つ下の十八歳と聞いていた。
「……タマザカだっけ。何か用?」
「ごめんなさい、少し、お話がしたくて」
「話? お勉強だったら勘弁してくれよ、教えるのは専門じゃない」
留学生はトラノジョウ・タマザカといった。呼びづらいので「ジョー」とか、イニシャルの「TJ」などと呼ぶ者もいた。なんでも、日本の大学から神学を勉強するためにイギリスまで留学してきたのだという。そしてどういう
お勉強、と聞いて、ああ、とタマザカは笑った。
「いいえ、あの、雑談がしたかったんです。ニシムラさんと」
彼の英語は、若干の訛りこそあれ
「雑談? 何か話すことある? 俺たち」
「はい。俺にはありますよ」
礼儀正しいし、口調はあくまで丁寧なのだが、妙に譲らないところのある男だった。
「しばらくお世話になる身ですから……失礼がないように、あなたのことを知っておきたくて。……お邪魔でしたか?」
かと思えば、急にしおらしくなったりもする。カズキは眉根を寄せた。
タマザカがここに預けられた本当の理由は語られなかったが、推測は可能だった。カズキの父が日本人だったからだ。同じ東洋人の血が流れているならば……という軽率な、あるいは「異物は異物同士で」といった思惑。
しかし、それらはこの留学生には関係のないことだろう。カズキは息を吐いた。
「いいぜ、分かったよ。茶でも飲みながら話そう」
温室を出ようと歩き出したカズキの視界の端で、ぱっ、とタマザカの表情が輝いた。そうして、無邪気な笑顔。
「ありがとうございます!」
少しだけ身長の低い彼が後ろをついてくるのを、カズキは感じていた。
カズキは目を覚ました。
身じろぎしようとしても体はない。柔らかなクッションに乗せられた首が、わずかに動くだけ。現実が追いついてきて、過去の(不愉快で、忌々しく、どうしても懐かしい)夢の余韻を塗りつぶしていった。
カズキの首はテーブルの上に置かれたクッションに据えられていて、隣の床では、たまさかの魔がトランクを開けて何やらごそごそやっていた。
朝になっていた。窓の外に崩れかけた温室が見える。大災害の後に打ち捨てられた家に、カズキとたまさかの魔は滞在しているようだった。眠る前はまだ吸血鬼は歩いていたはずだから、一旦休息を取るためにここに立ち寄ったのだろう。
「ああ、カズキ。おはようございます」
立ち上がったたまさかの魔が、にこりと笑いながら言った。顔立ちはあの時のまま、若々しいままなのに、その笑みはどこか
「お顔を拭きましょうね。歯磨きも。もっと綺麗な水が手に入るなら、ちゃんと洗髪もできるんですけれど、なかなか」
「……お前はどうしてるんだよ」
「川や湖があったらそちらで、あなたが寝ている間に。カラスの行水ですけどね。ああ、流石に場所は選んでいますよ、ゴミや死体だらけのところは、ちょっとね」
血で湯浴みをする趣味はないので、と言いながら、たまさかの魔は透明な水筒からタオルに水を染み込ませた。軽く絞ってから、カズキの首を丁寧に拭いていく。されるがままにカズキは目を閉じる。顔を拭い、耳を拭い、首筋からその断面までを丁寧に拭いてから、最後にカズキの金髪をブラシで梳かし、カズキが生前から身につけていた銀の髪留めで留めた。その度にたまさかの魔の指先が焼ける音と、鉄の匂いがした。
これらは蘇生してからというもの、毎朝のことだった。水が入った奇妙な透明な水筒(この時代では一般的な容器で、ペットボトルというらしい)、汚れていないタオル、ヘアブラシ、これらの物資をたまさかの魔はロンドンの廃墟や、立ち寄った村や町の跡で「偶然に」見つけてきた。彼は『たまさかの魔』、想定外を引き寄せるもの。それ故にこの吸血鬼は窮地に強く、逆に優位は油断を招き、油断はたまさかの魔にとって不都合な想定外を引き寄せた。彼がカズキに討伐されるまで、自身の体質を「都合のいい偶然を引き寄せる」ものだと勘違いしていたのも無理はなかった。
おまけにこの体質はたまさかの魔自身でも直接制御できない、厄介な代物だった。常にオンで、オフのボタンはない。スイッチを切ることができないのだ。
「はい、終わりましたよ」
だから、そう、愛おしげにカズキの首をクッションの上に乗せる時も、たまさかの魔が何かしらを常に警戒している――油断を封じているのが、わずかな動きから伝わってきた。彼は好ましくない想定をいくつも頭の中に描いている。可能な限り好ましい「想定外」を引き寄せられるように。
「……今、どの辺りにいる?」
クッションの上からカズキが尋ねると、たまさかの魔はトランクの中からボロボロの本を取り出した。ロンドンで拾ったらしい、この国の地図だった。
「ええと……ちょっと前にボドミンって街を過ぎましたね。このペースなら今日の夕暮れまでにはランズ・エンドに着けますよ。地の果てです。楽しみですね!」
吸血鬼はそう言って、にこにこと屈託なく笑う。どうやったってその口元には牙が覗く。世界は崩壊していて、瓦礫と死体しか見つからないこの状況は、彼にとってはどうでもいいことのようだった。
カズキは楽しげな吸血鬼から目を逸らし、閉じた。
(お前はあいつじゃない)
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