第7話 出発のあさ
王の間からクッサル湖が一望でき、湖畔には松明の火が灯され、幻想的な風景を映し出す。
王宮と湖との中間に周囲を壁で囲まれた広場があり、そこに壁の隙間から男が一人、広場へと入ってきた。筋骨隆々の逞しい身体に剣と盾を手にして、自信のあるゆっくりとした足取りで大地を踏みしめながら歩く。
すると、王の間の下の観覧ように設えた席から歓声があがる。彼らはサウズ・スバート中から集まった富裕層の人々である。
彼らは、王宮で開かれる拳闘士の戦いに、お金を払って見に来ている。最前列の席には市民、一段上には王族、貴族の面々がテーブル席で飲食をしながら観戦しており、最上部の王の間では、ロス王と王妃ミターナが闘技場を見下ろしながら、酒食をしている。
闘技場の中央に男は進んでいき、立ち止まると、まず王に向かって一礼をする。
彼の名をルーカス・アリバスといい、数年前、ユアル・サリナスに滅ぼされたムン族の戦士であり、奴隷として売られ、最終的にロス王によって買われた。
ムン族の戦士はみな戦いに特化しており、特にこのルーカスは、今まで誰も倒すことはおろか、傷一つ付けることさえ出来ずにいた。
この闘技場は元々、崇高な決闘の為の場所であったのを現王ロスが自分の趣味の為、闘技場に作りかえ、更にルールを設けて、観客を入れて見世物にしてしまった。
そして、このルーカス・アリバスこそ、ロス王が始めた拳闘士たちの闘いの中で初めてとあるルールが適応されるかもしれない事が、観客を更なる興奮へと誘っていた。
「現在、九十八勝。あと二勝で自由の身となれるんだよな」
市民の中の一人が言った。
「ああっ、闘技場始まって以来の快挙だ。あと二勝……ルーカスならできる」
一般の観客たちは登場したルーカスを見て、興奮している。いや、市民ばかりではなく、貴族たちも口には出さないが恍惚とした目で、闘技場を見下ろしている。
「百勝で自由の身……殿下、本当にそうなさるつもりですか?」
赤い液体の入ったグラスを手にして、ミターナは口をつける。
「フッ、まさか百勝まであと二つまで来るとはな。しかし、奴の快進撃も今日までだ。なにせ今日の相手は人ではない」
嬉しそうに含み笑いをするロスに対し、ミターナはグラスから口を離し、怪訝な顔をした。
「皆さま、大変お待たせいたしました。それでは、今夜のメインイベント、ルーカス・アリバスの登場です」
同じく闘技場に立った、アナウンスの男が声を上げ、観客を盛り上げと歓声が更に上がる。それに応えるようにルーカスが剣と盾を振り上げる。
「皆さまもご存じのようにこのルーカスは現在、無傷の九十八連勝。あと二勝で、晴れて自由の身になれます。そして、今宵、九十九戦目に対しますのは、あのデートラインから連れてきた魔獣トッポビでございます」
その言葉を聞いて、ルーカスは思わず、王の間を見上げた。
王はニヤリと微笑み、闘技場を見下ろし、開始の合図を送る。
「それでは、只今より、闘いを始めたいと思います。始めッ」
アナウンスの男はその掛け声で、慌てて壁の後ろに隠れる。
すると、ルーカスの入ってきた壁と反対側にある壁の仕切りが外され、その瞬間、ルーカスは剣と盾を素早く構えた。
闇の中から得体の知れない臭気が漂ってきて、唸り声がしたかと思うと、次の瞬間、黒い塊が壁の中から飛び出してきた。
ルーカスの全身に一気に鳥肌が立つ。
黒い塊は真っ直ぐルーカスめがけて、突進してくる。岩の塊のようなモノの中から、ルーカスを飲み込まんとする獰猛な牙が見えた。
歓声とどよめきが一斉に起こる。
町を一回りして、仕事を済ましたビンデは夕刻、トダンの酒場によった。酒を飲みながらトダンと喋っていると、常連の四人が入ってきた。
「よおっ、いよいよ明日か?今夜が、お前の見納めかもな」
ケロット・モンスがカウンターのビンデを見つけて声をかけた。
「なんだ?おまえら、いつもツルンでいるんじゃないか?仲良し四人組か」
少し酔ったビンデがやり返す。
「たまたま別の店で会ったのさ。それより、今度はどんな悪さが見つかった?王様に呼ばれるなんてよ」
モンスが隣の席に座り、ビンデの肩に腕を回し、酒臭い息で絡んでくる。
「お前じゃないんだ。俺は善良な市民としてちゃんと生きてきた。だから、王様はノースランド家を褒める為、夕食に招待したいんだとさ」
ビンデが両手を広げ、体を反らして見せると、皆が一斉に笑う。
「そんなことあるもんか。大方、良い餌を撒いて、おびき寄せようって魂胆なのさ。気をつけろよ。さあ、こっちへ来いよ。壮行会をやってやる」
ビンデとモンスは肩を組みながられ、テーブル席に向かった。
「あんまり騒いでいると、またこないだみたいに逮捕されるぞ」
ビンデが席につくと隣のいたボンスが言った。
「いいさ、そしたら、またモーリオに助けてもらうからさ」
ビンデはモーリオ・サンを見た。
「俺の力が及ぶのは、せいぜいこのナターシャぐらいさ。しかもそう度々は無理だ。市長を退いて何十年も経つからな」
モーリオは微笑んだ。
「まあ、暫くは何を言っても逮捕はされんはずだ。何しろ、国王様に呼ばれて、会いに行くんだ。国王の命は絶対だからな」
モンスが言う。
「会いに行って、国王に首を刎ねられる」
ボンスが言って、また爆笑が起こる。
「この際、いろいろ王様に言ってやれよ。税金のこととか、デートラインのこととかをよぉ」
カルじいさんは今日も酔って口が軽い。
「勿論、そのつもりさ。じゃなきゃあ、わざわざ王様になんて会いに行きたくない。ガツンと言ってやるつもりだ、ガツンとな」
「ヨッ」
「しかし、気をつけろよ。あの王様、冗談が通じないからな」
モーリオが目を閉じて頷く。
「分かってる。大体なんで呼ばれたのかもまったく見当もつかないんだ。最悪、今夜が本当に最後の夜かもしれんな。今日はみんな、奢らせてくれよ」
ビンデが急にトーンを変えて、一同を見回した。
「冗談だろ、お前の壮行会だ。俺たちが金を出すに決まってるだろ。ささっ、好きなだけやってくれ」
モンスがトダンに酒を持って来るよう合図を送る。
「よし、じゃあ、今日は朝までやるか」
ビンデが店中に響く声で叫んだ。
「いいのか?明日の朝にはもう使者が来るんじゃあないのか?」
トダンが店の喧騒に負けない声で叫んだ。
「構わんさ。最悪、置いてけぼりになったらなったで。その方が、気が楽だ」
「そうなるとお袋さんと姉さんの二人で行くことになるんじゃないかい?」
モーリオが心配そうに言った。
「それも面白いかもしれんな。王様とあの二人のやり取りを隠れて見てみたいもんだな」
ビンデは笑った。
楽しい宴は明け方まで続いた。
朝日が昇り、闘技場を照らし浮かび上がったのは、巨大な黒い肉の塊と化したトッポビとその背中に剣を突きたてたルーカスの姿であった。
固唾を飲んで見守る観客。
ルーカスは全身、血にまみれ、肩で息をして、朝日に照らされた王の間を見上げた。しかし、そこに誰の姿もなかった。
王たちは闘いが長引いた為、早々と引き上げ、床についてしまっていた。
「しょ、勝者、ルーカス・アリバス」
アナウンスが勝ち名乗りを上げると、ルーカスはその場にバタリと倒れた。
朝日を浴びながら、千鳥足で家がある丘を歩いていくと、いつものようにランズ婆さんが道の脇にある大きな石の上に座っていた。
「今日はやけに早起きだな。婆ちゃん」
ビンデが挨拶すると、ランズ婆さんは大きく目を開いた。
「あんた、こんな日でも朝帰りかい。もう使者は来てるってのに」
「そう。まあ、待たせとけばいい。どうせ、長い道のりなんだ。少しくらい遅れても大した事じゃない」
酔いの残った顔でビンデは微笑んだ。
家の前には近所の住民たちが大勢、集まっていた。
ビンデがかき分けて行くと、玄関の前に母と姉が、一張羅の余所行きの服に身を包み、近所の婆さん連中に囲まれていた。
「セッツさん。グララルン・ラードには、美味しい茶菓子があるそうだ。そいつを買ってきておくれでないか」
「私は、かなりイケてるスカーフが売っていると聞いた。そいつを買ってきてくれ」
「私にはなんでもいい。土産を買ってきておくれでないか?」
どうやら、見送りではなく、土産の催促であった。近所の老婆は図々しく、リストの書いた紙とお金を差し出し、二人を困らせていた。
「ちょっと、ちょっと、そういうのは違うから。そういうんじゃないから、今回は。二人もちゃんと断らないと」
ビンデは老婆たちを退け、二人を諭す。
「そんなかたいこと言わんで、買ってきてくれんか?冥途の土産に」
「みんな、まだまだ生きるさ。見た目も若いもん」
家の前には馬車が停めてあり、先日来たアルフレドが待ち構えていた。
「おはようございます。旅立ちにはちょうどいい日和ですね」
長身で細身、口ひげを生やし、神経質そうなその顔に、どこかノーランド家というか、田舎そのものを小馬鹿にしているような薄ら笑みを浮かべている。
「そうだね……」
「準備が整い次第、出発致しますので、お急ぎください」
「まだだ。ちょっと、待っていて」
ビンデは母と姉に再度、面倒な頼まれごとをされないように言い聞かせ、家の中へ入って行った。
静まり返った室内。外から老婆たちがまた母親と姉に対し、お土産の催促をしている声が聞こえてくる。
ビンデは自分の部屋に行き、タンスから余所行きの服と奥から年代物のマントを取り出した。マントをはためかせると、埃が宙に舞うのが、朝日に映し出される。
着替えを済ませると、机の引き出しを開け、奥から小箱を取りだした。箱を開けると青い小さな宝石の一つ付いた指輪が現れ、それを取り出し、指に嵌めた。
「っま、使う事はないと思うが、念の為……」
つぶやいて、部屋を出る。
居間へ行き、父親の霊前の前に立ち手を合わせる。
「行ってくる」
ビンデが外へ出ると、近所の連中は整列して、ビンデをにこやかに迎えた。母親たちは既にキャビンに乗り込んでいる。
奇妙な笑みを浮かべる近所の連中に見送られながら、ビンデもキャビンに乗り込んだ。
「気をつけて」
人々が手を振る。
「ありがとうね、達者でね」
セッツが馬車のキャビンの窓から身を乗りだして言う。
「ほんの四五日よ、大げさ」
ヤーニャが呟く。
「いいや、国王に会いに行くんだ。何が待ち構えているかわからん。いただいた金は餞別としてもらっておくよ」
セッツの言葉に老婆たちは目を剥いて固まる。
「見送りありがとうね」
丘を下っていく馬車を、老婆たちが追いかけてくるという異様な光景。
更に下るとランズ婆さんが手を合わせて、馬車を見送った。
「なんだか、本当に死地へ赴くみたいだな」
「ビンデ。昔はね、グララルン・ラードに行くなんてことは大事だったんだよ。それこそ水杯を交わし、村中総出で見送ったもんさ」
道が落ち着くと、セッツが言った。
キャビンにはビンデと使者のアルフレド、セッツとヤーニャが向かい合って座る。
「いったいどんな予定になっているんだい?」
ビンデがアルフレドに聞いた。
「明日の午後にはグララルン・ラードに着きます。その日の夜に、宮殿の王の間で王様との晩餐に出席していただきます」
「慌ただしいな」
「その代わり、王様との晩餐が済めば、翌日から二三日、都に滞在しても構いません」
「本当かい?」
ビンデの表情が変わった。
「実は行きたい所があるんだ」
「どこへ?」
セッツが聞いた。
「ドッグレースさ。百頭の犬たちが一斉に競い合う壮観なレースだって話だ」
「はい。ドッグレースは現国王が考案された娯楽でして、大変、面白うございます。しかも、賭けもできて、一着を当てたら数百倍の賞金が貰えることもあるのですよ」
「賭け事かい?ねえっ」
セッツが嫌な顔をヤーニャに向けた。
「でも、私もワンちゃんは見たいわ」
ヤーニャは微笑んだ。
「そう、犬を見るだけでも楽しめるんだってさ。行こうぜ」
まるで観光気分だな。使者のアルフレドは心の中で嘲け笑っていた。
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