第十三話    虎穴に入らずんば虎子を得ず

「――纏絲チャンスー崩拳ポンチュアン

 

 その意味不明な言葉を聞いた瞬間、凄まじい衝撃をはらに受けた武蔵は後方へと飛ばされ、背中からまともに床へ激突げきとつした。


(な、何だ今の打拳だけんは!)


 腹部から広がる強烈な痛みに耐えつつ、うつ伏せに倒れていた武蔵は片膝をついて何とか立ち上がる。


「……が、がはっ!」


 片膝立ちになったのもつか、武蔵は胃から込み上げてきた内容物ないようぶつを床に吐き出した。


 口内から出てきた吐瀉物としゃぶつに血が混じっている。


 内臓を損傷そんしょうしたあかしであった。


 やがて少し落ち着きを取り戻した武蔵は、血の混じった吐瀉物としゃぶつで汚れている口元を手の甲でぬぐった。

 

(これほどの使い手が異世界にはいるのか……)


 武蔵が驚愕きょうがく戦慄せんりつを同時に覚えたのも当然だった。


 それほど黄姫ホアンチーの実力はけたが違ったのだ。


 今の自分では勝てないかもしれない、と思うほどに。


 では、勝てるかどうか分からないほどの相手を前にして、宮本武蔵という男は脱兎だっとの如く逃げ出すのか?


 答えはいなだ。


 兵法者には逃げてもよい闘いと、逃げてはならない闘いがある。


 そして黄姫ホアンチーからは、たとえ殺されようとも絶対に逃げてはならなかった。


 幾度いくどの死線をくぐり抜けて身につけた、がそう告げている。

 

 武蔵は力を振り絞って立ち上がると、長く深い呼吸をして心身を整えた。


 正直、体調は最悪だ。


 額からは脂汗がにじみ、内臓が暴れ回っているような痛みが腹に残っている。


 凄まじい打拳の威力いりょくであった。


 日ノ本の剣術流派の中には丈夫な甲冑かっちゅうの上から打拳や掌打を当て、甲冑かっちゅうを打ち砕かずに人間の身体のみに損傷を与える打拳法だけんほうがある。


 まさしく黄姫ホアンチーが放った打拳はそのようなもののたぐいに違いない。


 完全に目で見えたわけではなかったが、黄姫ホアンチーの左拳から放たれた衝撃がは確かに感じられた。


(抜き打ちでは追いつかんな)


 抜き打ち――居合では黄姫ホアンチー対処たいしょできないと思った武蔵は、右手で大刀の柄を、左手で小刀の柄にそれぞれの手を添えて構えた。


 二刀流。


 それは武蔵が目の前の相手を〝本気で斬る〟という決意をした表れである。


 だが、すぐに武蔵は強烈な肩透かしを食らうことになった。


「大変、ご無礼をいたしました。これ以上はやめておきましょう」


 黄姫ホアンチーは武蔵に深々と頭を下げて闘いを中断したのだ。


 これには武蔵もおおいに納得がいかなかった。


「人を馬鹿にするのも大概たいがいにいたせ。あれほどの先手を取っておきながら、今さらやめられると思うてか」


「はい、思っていますよ」


 と、黄姫ホアンチーは武蔵の本気の威嚇いかくにもまったく動じなかった。


「うちの受付人もお伝えしたそうですが、ここは冒険者たちの活動を管理する冒険者ギルドであって、互いの命を取り合う決闘場ではありません。それに、あなた方がここに来た目的も冒険者ギルドの人間と闘うことではないでしょう?」


 武蔵は二の句をげずに押し黙った。


 確かにそうである。


 自分たちは冒険者としての仕事を貰うために来たのであって、誰かと闘う目的で冒険者ギルドに足を運んだわけではない。


 黄姫ホアンチーは「けれども、それもあなた次第です」と言葉を続けた。


「ミヤモト・ムサシさん……あなたが私と命を奪い合うほどの闘いを望むというのなら、私も一人の武人として最後までお相手いたしましょう。ですが、今のあなたは私に絶対勝てませんよ。それは私の拳を受けたあなたが一番よく分かったはずです」


 武蔵はぎりりと奥歯をきしませた。


 おおむねその通りだが、さすがに面と向かって相手から言われると心がざわついてしまう。


「ましてや、あなたには可愛いお連れさんがいる。いいのですか? あなたが仮にこの場で命を落としてしまえば、そちらのお連れさんも近いうちに命を落とすことになりますよ」


 ぎくり、と武蔵は痛いところを突かれて表情をくもらせた。


 そして武蔵は固唾かたずんで自分を見守っていた伊織に顔を向ける。

 

 宮本伊織。


 数時間前、アルビオン城内において自分と一緒に異世界へと連れて来られたうちの一人だ。


 身の上のことなどはアルビオン城から冒険者ギルドまでの道中どうちゅうにある程度は聞いたとはいえ、未だに理解できないことが多々たたある女子おなごであった。

 

 それもそのはず、何と伊織は自分が生きていた時代よりも四百年以上経った未来に生きていたという。


 これには武蔵も最初に聞いたときはまったく信じられなかった。


 だが、伊織の小綺麗すぎる身なりや女子とは思えないほどの高い自立心が感じ取れた物の考え方や話し方などを聞いているうちに、伊織は自分よりも四百年も後の平和な時代に生まれた女子であるということが信じられるようになった。


 中でも伊織が持つ異世界に関する情報の多さには仰天ぎょうてんしたものだ。


 四百年後の未来では諸流派しょりゅうはの情報が誰でも広く手に入るようになっていて、死合いに興じる兵法者はいなくなってしまったものの、競技スポーツや伝統芸能という別の形で武術を稽古する人間たちが多く残っているらしい。


 ならば伊織が〝円明流えんめいりゅう〟や〝有無二剣うむにけん〟を知っていたことにも納得できた。


 また伊織自身も剣道と居合道と呼ばれる未来の武術を学んでおり、その関係もあって自分の宮本武蔵という名前を知っていたのだと言っていた。


 それに伊織は武術以上にという異世界の情報に長けた人間であり、この冒険者ギルドに来たのも伊織の助言を受けてのことだった。


 武蔵は改めて伊織の顔を真剣に見つめる。


 もしも黄姫ホアンチーと死合って命を失った場合、残された伊織はどうなるのか。


 決まっている。


 宮本武蔵という頼みのつなを無くした伊織は、路頭ろとうに迷った末に命を失うことになるだろう。


 いや、路頭に迷う云々うんぬんは伊織だけに限った話ではない。


 それは武蔵自身に置き換えても同じだった。 


 人外の技たる魔法や魔物が存在する異世界においては、元の世界で天下無双とうたわれた武蔵もそれこそ赤子同然の矮小わいしょうな存在に過ぎなかった。


 なぜなら、あまりにも武蔵は異世界の情報や常識を持ち合わせていないのだ。


 どれだけ修行に修行を重ねて剣の腕前が卓越たくえつしようとも、自分が生きている国の常識や知識がない人間など裸同然で戦場におもむくことに等しい。


 まず間違いなく宮本伊織という情報源を無くした場合の武蔵は、半月も持たずにどこかで野垂のたれれ死ぬことは火を見るよりも明らかだった。


 だからこそ、武蔵は異世界の情報を持つ伊織を弟子に取ったのである。


 そして、どんな理由であれ師匠と弟子の契りを交わしたということは、それは本当の親子以上の関係になったも同然であった。


 でなければ人間を簡単に殺せる技など伝授できない。


 兵法者とは断じて快楽を求める殺人者ではなく、厳しい修行の果てに〝天と一体になる〟ほどの心身の高みを目指すなのである。

 

 ほどしばらくして、全身を脱力させた武蔵は「相分あいわかった」とうなずいた。


「もしも俺が一人だったならばお主と最後まで闘ってみたいと思っただろうが、お主が指摘したように今の俺は一人ではない。奇妙なえにしからこの伊織の師になったとはいえ、それでも師は師だ。俺の目が黒いうちは弟子を野垂れ死になどさせたくはないからな」


 完全に武装を解いたとばかりに、武蔵は大刀と小刀の柄から手を離した。


 それを見た黄姫ホアンチーは「賢明な判断です」とゆるく両腕を組んで見せる。


「いかがでしょう、お二人とも私の部屋で少し話をしませんか? 見たところ、あなた方は冒険者ギルドの登録自体が初めてなようなので、よろしければ私のほうから冒険者登録についてご説明させていただきますよ。それにお二人とも静かな場所で身体を休める必要もあるでしょうしね」


 武蔵は迷いに迷った。


 申し分ない提案だったものの、黄姫ホアンチーというエルフがどこまで信用に足る人物なのか判断がつかなかった。


 それこそ正直について行った結果、あっさりと寝首をかかれないとも限らない。


「お師匠様……」


 不意に伊織の口から掠れるような弱々しい声が漏れる。


 そんな伊織の声を聞いた武蔵は、金槌かなづちで頭を殴られたような衝撃を受けた。


(ふざけるなよ、宮本武蔵。弟子をこのような弱気にさせて何が師だ。何が天下無双だ)


 このとき、武蔵は固く決心した。


 迷いが出たり弱気になるということは、黄姫ホアンチー――しいては異世界に対して恐怖を感じているということだ。


 むろん、武蔵も血の通った一人の人間である。


 特定の人物や物事に対して絶対に恐怖や弱気を感じないはずがなかったものの、それを身近な人間に気取けどられるということは臆病おくびょうな気が漏れているという証拠しょうこであった。


 ――虎穴こけつに入らずんば虎子こじず。


 この異世界で再び天下無双となることを決心したのならば、神仏や魔王が敵として立ちはだかろうと必ず打ち破ると言う強い意志を持たなくてはならない。

 

 武蔵は伊織から黄姫ホアンチーへと顔を向き直すと、「是非とも頼みたい」と軽く頭を下げた。


 万が一、黄姫ホアンチーに寝首をかかれようとも関係ない。


 その程度のことに狼狽うろたえていては、この異世界で天下無双人になることは千年経っても不可能だろう。


 黄姫ホアンチーは微笑を浮かべたまま、二階へ続く階段へと右手を差し向ける。


「では、こちらへ。私の部屋は二階にありますので」


 黄姫ホアンチーに誘われるまま、武蔵と伊織の二人は黄姫ホアンチーの私室へと案内された。


 その後、武蔵と伊織の二人は知ることになる。


 この異世界に存在する、もう一つの裏の真実を――。

 

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