第9話
実家にいた両親は、近くの小学校に避難して無事であるのが分かった。妹は大学の女子寮にいて難を逃れていた。恭介は、深い安堵感を覚えていた。今回の地震では、両親の寝ている場所が、一~二メートル違うだけで死亡していた可能性があった。だが、二人は生きていた。それが、他の何よりも嬉しく感じられた。
今は、深い安堵とともに、神仏への感謝の念が生じていた。自然災害の馬鹿げた出来事が、恭介からすべてを奪い去ったわけではなかった。しかし、シンプルな感情は時間が経つと変化した。恭介も同様で、徐々に弱まる安堵感の後ろから、波のような戸惑いと不安が押し寄せて来た。何て異様なのか――と、恭介は洋服の内ポケットの膨らみに不快を感じた。恭介は、ずっとポケットにお守りを入れていて、それで自分の安全を守れる――神話の世界を夢想していた。だが、自然の持つ圧倒的な破壊力は、安心・安全神話を粉々に打ち砕いていた。
それからあと、すべてはゆっくりと進んだ。時間の神が、時の歩みを遅くしたかのようだった。神戸市に出向いて、町の様子を見ると、自宅から引き離された人々は、将来不安への忍耐と頓挫した希望の中にいて、予想した以上に明るく振る舞っていた。市民たちの態度を見る限り、避難生活への不満よりも、命拾いした安堵の方が強く感じられた。そこにいると、苦悩を分かち合い励まし合えるのが、幸いにも見えていた。
この世が唯心所現の世界なら、恭介は艱難辛苦を自身の心で作り出したのではないか?
この経験から、何を学び取るべきなのか――と、霊妙な想念が湧くと、不思議にも心が落ち着いてきた。
先行きの分からない中でも、両親は家族である恭介には本音を漏らした。
「大勢の被災者と一緒に雑魚寝していて、窮屈だし、夜になると寒いし、仮設トイレの順番を待つのも辛い」と、母親はこぼした。母の本質が、完璧な平穏を傷つけ損なう恐怖と苦悶に反発しているのが理解できた。敏感で繊細な精神は、同じ経験をしたとしても、多くの人よりも傷を深くする。底の深い悲しみから助けるには、状況を変えるしか手立ては残されていなかった。
被災者の中には、家族と引き離された人々もいたが、彼らを保護する特権はなく、混迷だけが感じられた。にわかにこみ上げる涙をこらえると、恭介のマンションでしばらく一緒に暮らす案を提示した。
恭介は、フロイトが――不快を避け、快を求めようとする人間心理の基本的な傾向――を「快感原則」と呼んでいたのを思い出した。恭介の両親は、明らかに快感原則的には、非常事態による不快と苦痛の経験を余儀なくされていた。
両親が被災地での生活に不満を感じている様子なので、しばらく大津市の恭介のマンションに同居する方向になった。
「四十年間、真面目に会社勤めして、のらくらと時間を過ごした日がなかったのにこのザマだ。兵役では甲種合格で、戦争の前線に出て随分、危険な目に遭った。今度は、こんなことになるのだからなあ。現実はつくづく、残酷にできているよ」と、父は嘆息した。
「何のための試練なのかしらね。それが分かれば、堪えようもあるのにね」母は、漠然とした言葉で同調した。
親戚の年長者の中には、過去の苦労を自慢げに話す者が存在するが、恭介の父は子供の前で残酷な話をしたがらなかった。だが、今回だけは特別だった。
「これから、どうやって暮らしていけばいいのかな?」母が漠然とした不安を口にしてため息をつくと
「まあ、なるようにしかならない。神戸に住んでいて、戦災と水害を経験し、もう何もないだろうと、長いあいだ安心して暮らしていたら、突然のごとく震災に見舞われた。今までだって、何とかやりくりして来ただろ? それと、同じだよ」と、今度は父も思い直し、宥めるように答えた。
神戸市の歴史を振り返ると、一九四五年に神戸大空襲があり、一九六一年と一九六七年に水害に見舞われているのが分かる。空襲のときは、母は神戸市内にいて防空壕に避難し、父は従軍して前線で戦っていたが、水害は両親が同じ場所にいて被災していた。
阪神・淡路大震災に遭遇した神戸市民たちは、自分たちがどれほど多くのものを失ったかに気づいていた。それは、恭介の両親にしても、同じだった。が、目の前の現実に、傷ついてばかりはいられなかった。
被災地を立ち去る前に、家の様子を見直すと、恭介の部屋にあったステレオ・コンポも本棚も、おもちゃ箱をひっくり返したように、滅茶苦茶に散乱していた。
母は「預金通帳などの金目のものは、震災の前日に勘が働いたので耐火金庫にしまっている」と答えた。幸いにも、金庫を置いていた場所には、身体が入り込む隙間があり、手が届いたので解錠し、中の物を取り出せた。母は、散々な目に遭っていたが、通帳と財布を手にすると、幸福そうな表情をしていた。
大津市のマンションに戻った恭介は、各部屋の中を整理し、両親を迎え入れられるように準備した。両親も身支度が整うと、マンションに引っ越してきた。恭介は、両親を迎え入れてから、規則正しい生活を始めた。
休日の朝、寝坊してベッドの上で耳を澄ませていると、聞きなれない音が聞こえて来た。お世辞にも上手とは言えないギターの音だった。
父は、リビング・ルームで、おぼつかない手つきで名曲『上を向いて歩こう』を演奏していた。歌を歌わずに、ギターだけを熱心に演奏していた。恭介の耳には、哀切な響きに聞こえていた。
「コード進行を思い出せなくてね」と、父は苦笑いした。
母は、台所の食卓テーブルに腰かけて紅茶を飲みながら、婦人雑誌に目を通していた。玄関のチャイムが鳴ったので、ドア・スコープで外を見ると、隣室の奥さんが片手鍋を持って立っていた。
「ああ、お母さんは中にいらっしゃる?」と、奥さんは尋ねると「作り過ぎたので、食べていただければと思って……」と告げて、おでんのダイコンやコンニャク、ガンモドキなどを分けた。母は玄関まで様子を見に来ると、恐縮したように頭を下げてお礼の言葉を何度も言っていた。
マンションの周辺住民は、神戸で震災に遭遇して大津市の息子の家に、寄宿している両親を気の毒がると、何かと気を使った。それが、恭介には有難かった。
両親は、恭介の前では明るく振る舞っていたが、二人とも時折ため息をつくと、神妙な表情をしていた。
恭介は、仕事で遅くなる時は外食していたが、安く食べられる食堂を探して利用した。逆に、飲酒を目的には、歓楽街に足を向けなくなっていた。禁欲を強いられていたわけではなかったが、自ずと質素に暮らすようになった。
耐乏生活が始まると、しだいに恭介はこれに慣れてきた。恭介は、贅沢にも放蕩三昧にも抵抗がなく、耐乏にも……、何にでも、慣れる気がしていた。正直なところ、どちらでもいい気がしていた。恭介は、進んで我慢できた。恭介には、逃げ道は用意されていなかった。
無実の罪人を鞭打つような無慈悲な現実は、いつまでも続くものではない――と、恭介は思いたかった。心臓が張り裂けそうな鼓動に怯えながらも、処刑場に連れて行かれるかのごとく、不安は多くの人から、明日への希望を完膚なきまでに奪い去ろうとしていた。魯鈍な人間だけに、空想の快感と非現実的な幸福が約束されるのなら、恭介はむしろ魯鈍さを愛し、幸いの訪れを待ち続けたかった。
一九九五年三月、宗教法人のオウム真理教が地下鉄サリン事件を起こした。教祖の麻原彰晃の指示に従って、信者が起こした犯行で、東京の地下鉄をターゲットにした神経ガスのサリンを散布する無差別テロ事件だ。同事件は、乗客、乗務員、職員のほかに被害者の救助にあたった人々に多数の死傷者を出した。
人の一生は、数々の偶然によって構成されており、計画通り進むものではない。数多くの偶発的事件や事故に遭遇し、人生は容易に変質する。それに抗って、勝てるほどには、人間は進歩していなかった。
テレビ・カメラは、惑乱した感覚の向こう側に見る幻想のごとく、真実味のない情景をとらえて映し出していた。瞬間に、恐怖すべき状況が、奇妙奇天烈に見えるのは、酷薄さでも無責任さによるものでもなく、想像を絶するストレスに、神経が耐えかねるからに相違なかった。テレビの連日の報道で、事件の全容が明らかになるにつれて、人々を戦慄させた。恭介には、暗い世相をより一層暗くする禍々しい事件として記憶に残った。
恭介は、何のためにこの世界を訪れて、どこに去っていくのか、何も知らないで暮らしているのを感じた。死は――至福の世界への移行でもなく、闇の孤独に閉ざされるのでもなく、ただ存在を無に至らせるだけだ――としたら……、生きることにどんな意味が隠され、折り畳まれているのか――と、神妙な気分になった。
恭介は、今の日本人の多くは、哲学にも宗教にも関心がなく、めいめいの仕事と遊びにしか興味を持たないのに失望を感じていた。一方で、宗教に救いを求める若者の存在にも気づいてはいた。しかしながら、オウム真理教の事件は常軌を逸していた。誰もが――尊師――と呼ばれる……仮初にも、宗教家の凶行に衝撃を受けずにはいられなかった。悲しいかな神の名のもとにおける大量殺戮は、過去の世界史の中にも散見されるが、現代日本における想定外の珍事に驚愕せずにはいられなかった。
事件の報道を見ながら、両親は自分たちの置かれた状況と比べて、被害に遭った人たちを案じていた。天災と人災の相違はあるものの、オウム真理教の事件も、災厄には他ならなかった。
震災で全壊し、瓦礫の山となっていた実家は、業者の手によって綺麗に片づけられ、しばらくの間は更地のままだったが、新しい住居を建築する運びとなった。恭介は、大津市のマンションと神戸市の実家跡の間を往来しながら、新築工事が着々と進むのを見守った。
四月になり、膳所城跡公園では桜が見ごろを迎え、花見客が樹下に陣取ってシートを敷き幕の内弁当を食べる姿が見られた。公園は城跡なので、お堀に囲まれ、大手門をくぐり抜けて中に入った。琵琶湖岸にあるので見晴らしも良好だった。まだ、宴会気分ではなかったものの、両親と三人で外に出たので、気晴らしにはなった。
帰宅すると、マンションの集合郵便受けに、ラクシュミーから手紙が届いていた。宛先は神戸市で父親の名義になっていたが、転送されたのが分かる。ラクシュミーは、随分落胆し、こちらの様子を心配していた。一月から二月にかけて、実家に何度か国際電話をかけたと告げていたが、当然ながら一度も通じなかった様子だ。
父は、安否を問いかけるラクシュミーに心配をかけたくないのか、読み終わるとすぐに、ペンをとって――気遣いに対する感謝の気持ち――を綴った。
母は、ラクシュミーを懐かしがると――日本に滞在中に大好物だったポッキーとポーク・カレーを手紙と一緒に送ってあげたい――と、父に促した。
恭介は両親の申し出を受けて、スーパーマーケットでポッキーと、レトルトのカレーをそれぞれ一ダース購入し段ボール箱に詰めた。郵便局から小包でラクシュミーに送付すると、一週間後の夜、電話がかかってきた。
ラクシュミーは、日本にいるあいだに覚えた関西弁で「ほんまに、おおきに、おおきに。渋江さんの家族も、達者で暮らしてや」と、父に告げていた。それが、嬉しくて……、なおかつ滑稽に思えて、家族で久しぶりに声を合わせて爆笑した。
※
恭介は、父と一緒にリビング・ルームに腰を落ち着けて、テレビでJリーグの試合を観戦していた。試合は後半に突入しても一対一の膠着状態で、どちらが勝つか予想がつかなかった。試合は、ガンバ大阪が横浜フリューゲルスを三対二で下した。
試合が終わり、席を立とうとすると、神戸市の実家の工事を依頼していた工務店の担当者から父あてに電話が入った。
「工事が終了したので、竣工式と地鎮祭をやる日程を決めたい」と、担当者は問い合わせた様子で、父は「関係者に連絡する時間が欲しいので、この次の週の日曜日でお願いしたい。地鎮祭の手配は、そちらでしてもらえるのだろうか?」と尋ねていた。
地鎮祭には親戚が集まり、直会では御神酒を飲み、神饌を食した。酒席は盛り上がり、遠隔地からわざわざ見舞いに訪れた親戚は「よくぞ、ここまで立ち直った」と、恭介の両親を称賛した。
新居が完成し、家具調度品が運び込まれると、両親が引っ越す展開になった。二人は、絶望的な状態から、気持ちが回復していた。
母は朝食がすむと「新居に移る前に、九州に旅行に行こう」と、言い出した。「観光客として、あちらこちらを回ろう」と、希望を言葉にした。恭介はすぐに賛成すると、新幹線のチケットを購入し、ホテルの予約をとった。さらに、博多駅前のカー・ リース会社に連絡し、四ドア・セダンの空き状況を確認した。
博多駅前でレンタカーを借りると、ホテルに行きチェック・インをすませた。そこから、すぐに福岡城跡に行って、一時間内外のあいだ散策し、大宰府天満宮に向かった。境内は広く、案内所の前を通り、表参道を歩くと、牛の形をした――御牛神――が配置されていた。さらに進み、手水舎で手を洗い、立派な楼門をくぐると本殿が見えて来た。三人で参詣をすませ、帰り道に売店で――梅が枝餅――を購入した。
夕方が近づくころには、恭介たちは博多のホテルに戻っていた。父は、太宰府天満宮の絵葉書を取り出すと、ホテルにあったボール・ペンで来年、高校受験の姪のために励ましの言葉を書き連ねた。父の提案で、夜になってから、中洲屋台街のラーメン店で博多ラーメンを食べた。屋台街では、リヤカーを改造した組み立て式の屋台が立ち並び、それぞれの店先に「ラーメン」「焼き鳥」「もつ鍋」「ギョーザ」「天ぷら」などと、書かれた赤ちょうちんをぶら下げていた。
父は、震災後はずっと禁酒・禁煙を続けていたが「こんなときぐらいは、酒が助けになる」と伝えると、店員に瓶ビールを注文し、三つのグラスに注いだ。屋台街からの帰りに、父は郵便ポストの前で、絵葉書を投函した。父は、郵便ポストに向かうと、軽くお辞儀をして両手を合わせていた。普段、そんな風にしたのを見た例がなかったので――祈らずにいられない気分なのか――と、恭介は思っていた。それが、まったく見当違いな所作であり、周囲から見ると、滑稽に思われるのを知りながら、父はそうせずにはいられないと、直感で理解できた。
あくる日は、福岡タワーに行き、三階と五階の展望室から市内の景色を眺めた後で、キャナルシティ博多で買い物を楽しんだ。昼食は、三人とも名物の鉄鍋餃子を食べた。暮色を帯びた博多の街に、屋台の提灯に灯がともり始めると、独特の風情が感じられた。夜はホテルのレストランで「焼きカレー」を注文し、恭介と父は生ビールを飲んだ。
恭介は、言いようのない徒労感と倦怠と、不可思議な混迷のもたらす生活不安から逃れて、気分を紛らわせた。両親も、ほっとしているのが分かった。
実家の新築工事が完成したので見に行くと、恭介は自分が想像したよりも小さく感じた。震災前の家は、古い木造の二階建てで、一階には和室の四畳半一間、六畳二間、八畳の仏間、洋室は、四畳半二間、六畳の台所兼食堂があり、奥に浴室、洗面、トイレが配置されていた。縁側から庭に出ると、花壇があり、水場が設置されていた。二階に階段で上がると、八畳の洋室が二間あって、うちの一室を実家から離れた後も、恭介が使っていた。
それが、新築されると、一階は六畳の仏間と八畳のダイニング・ルームと、三畳の台所、二階は六畳の洋室一間と、和室一間に十畳の居間が一間だけになっていた。庭には、玉砂利が敷き詰められ、花壇はなく、母が鉢植えの観葉植物を数個、地面に並べ置いていたのがみすぼらしく思えた。震災前に比べると、建物は新しくなり洗練されていたものの、風情がなく、狭苦しく感じられた。
恭介が訪ねたときは、母は部屋の中を見回し「これでまたやり直せる」と、誇らしげに笑った。子供の頃の思い出の詰まった家は、記憶の中の存在になり、いずれは色褪せて行く――と、恭介はぼんやりと考えていた。
実家にあった写真やフィルム、旅行土産などの思い出の物品は、瓦礫の下から出されても、原形を留めておらず、何一つ使い物にはならなかった。過去は、記憶の中にしか残らなくなっていた。震災前の両親は、恭介や妹の幼い頃の写真を取り出すと、目を細めて懐かしがっていたので、健気にも不憫にも思われた。
記憶は、時間と共に変質するが、写真や日記帳に書かれた記述はいつまでも変化しない。たとえ、色褪せたとしても、正確さでは記憶の比ではなかった。貴重ともいえる家族の記録が完全に損なわれてしまい――過去が、闇の中の出来事――になったと、恭介は落胆していた。両親にしても、心境は同じものと想像したが、そういう類の不満を二人は言葉にしなかった。
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