第8話 眞田さん

 次の朝、管理人に会った時、周囲に人がいるから、退去の意思表示ができなかった。そうだ。会社からメールで連絡しよう。俺はそう考えた。ちょっと失礼だろうか。会社を辞めるわけじゃないし。そこまで気を遣う必要があるのかとも思う。あの管理人にとっては、あの家は自分の縄張り、陣地、恐らく人生そのものだろう。俺がメール一本で退去を申し入れたら、相当恨まれそうな気はしていた。


「すいません」

 会社に向かおうと道を歩いていると、女性から声を掛けられた。

 何か落としたのかと思って振り返ってみると、シェアハウスの紅一点、陰キャのおばさんだった。化粧っ気がまったくなく、地味な感じで、挨拶以外ではほとんど声を聞いたことがなかった。

「はい?」

「江田さんですよね?あの…よかったら駅までご一緒していいですか?」

「はい…でも、お仕事されてるんでしたっけ?」

「はい。私、半分在宅勤務なんです」

「そうでしたか…あそこはちょっと部屋が狭いですけど。不便じゃないですか?」

「ええ。でも、パソコン一台でやってますから」

 何だろう。ナンパだろうか。大して話題もないのに、何で俺に話しかけて来るんだろう。

「あの…仲よかったですよね。Kさんと」

「まあ、知り合ったばかりでしたが」

「出勤の時に、時々目の前を歩いているのをお見掛けしてて。仲が良くていいなって思っていました」

「あはは。でも、黙って引越してしまったし、仲がよかったと言えるのか」

「あのシェアハウスってちょっと変なんです。入居者同士喋ってると、管理人さんが怒っているっていうか…嫉妬するんですよ」

「え?」俺は呆れて笑ってしまった。

「嫉妬して、その後、どうなるんですか?」

「管理人さんと気まずくなるんです」

「だから、Kさんもあまりハウス内では喋ってなかったんじゃないですか?」

「まあ、食事に行った時の方が喋ってましたね」

「そうなんです。そんなに仲よくないふりをしてるんです。みんな…」

「じゃあ、実はみんな仲がいいんですか?」

「ええ…割と」

「意外でした」

「ネットで連絡を取り合っています。実は…。入りませんか?私たちのネットワーク」

「え?」

 そのネットワークには、全く魅力を感じなかったが、断れないので俺はメールアドレスを教えた。

「ありがとうございます。後で送ります」

 俺はこんなおばさんと連絡先を交換してしまったと、すぐに後悔していた。気があるんだろうか。鬱陶しい。


「Kさん…急にいなくなりましたよね」

「ええ。びっくりしました。Kさんもネットワークに入ってたんですか?」

「はい。でも、まったく連絡がありません。だから心配で」

「そうだったんですか…。ますます怪しいですね」

「はい。あの…ちょっと気になることがあって」

「何でしょうか」

「管理人さんが、Kさんの部屋の物をフリマアプリで売ってるんです」

「え?勝手に」

「よくわかりません。でも、レコードを箱でまとめ売りして…それを宅急便の人が取りに来てたんです。〇ルカリだってわかったので、調べてみたら、それらしい履歴があったんです…人の物を勝手に売るなんて、ちょっと怖いなと思ったんです」


 何だろう。管理人がKさんを殺害してレコードを処分しているんだろうか。まさか!レコードがいくら貴重だとしても、殺人に見合うほどの対価になるとは思えなかった。そもそも、動機は何だろう?金銭の貸し借り?女?このおばさんのために?まさか…!趣味が悪すぎる。


 その人は眞田さんと言って、都内の中小企業に勤めるOLということだった。どことなく不気味な人だった。俺がその人に対して興味がないせいだろうか。男ばかりのシェアハウスに住むなんて、どういう神経なんだろうか。女性ばかりのシェアハウスに男一人ならわかるが…。


 俺は眞田さんに教えたメールアドレスが気になって、電車の中でメーラーにログインすると、すぐに連絡が来ていた。感想としては気持ちが悪いだった。俺は気が付かなかったふりをすることにした。

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