後輩

 過去に戻る前の私は、夫の浮気相手を特定していたわけではない。

 ゆえに、あらゆる女性が夫の浮気相手の候補者だと言うことも出来るだろう。

 だが、夫は異性に対して壁を作っている。

 自身の家族や、幼少の時分からの付き合いである私のような異性に対しては、笑顔を見せたり冗談を口にすることもあるが、それ以外の異性に対しては、夫は心を許していないという印象を、私は持っていたのである。

 何故なら、親しくはない異性に声をかけられると、相手の顔を見ることなく、頬を紅潮させながら、震える声で返事をするという姿ばかりを見せていたからだ。

 そのような人間が、親しくもない見知らぬ異性を相手に肉体関係を持つということなど、考えがたいことだった。

 ゆえに、浮気相手とするのならば、親しい異性に限られるだろう。

 宿泊施設の中に浮気相手と共に消えていった姿を思い出すと、夫は自然な笑顔を浮かべていたように見えたことから、私の思考は誤ってはいないと思われる。

 では、親しい異性とは、どのような相手か。

 それは、この学生時代に知り合った人間に違いない。

 そのように考えた理由は、私の知っている未来の夫は、大学に進むことなく、かといって仕事をするわけでもなく、自宅に籠もって作家としての技術を磨くばかりの生活を送っていたからだ。

 時折、家族で外出することもあったが、それ以外においては進んで陽の光を浴びようとしたことはほとんどなかったのである。

 自宅に籠もり続けながら作品を完成させると、それらを出版社に送ったこともあったが、いずれの作品は歯牙にもかけられなかったために、夫の努力に意味は存在していないのではないかと考えてしまう。

 自身に作家としての実力が無いと何度も告げられているような状況ゆえに、落ち込むかと思いきや、夫が立ち止まることはなかった。

 弱音を吐くこともなく、家族に八つ当たりをすることもなく、次の作品に取り組んでいったのだ。

 諦めることがないその姿勢に、私は魅力を感じていた。

 私が夫を愛した理由はそれだけではないが、理由の一つであるということは間違いない。

 だからこそ、私は家庭のために働き続けていたのだが、その結果は、夫の裏切りだった。

 思い出しただけで腹立たしいことこの上無いが、そのような未来を迎えることがないようにするために、私は行動することを決めたのである。

「手が止まっていますが、体調でも悪いのですか」

 不意に、そのような声がかけられた。

 目を向けると、友人である彼女が心配そうな眼差しをしていた。

 私が階段から転がり落ちた現場に居合わせていたということもあり、当時は何事もなかったが、その影響が遅れて出てきたのではないのかと案じているのだろう。

 私は口元を緩めながら、首を左右に振り、考え事をしていただけだと告げる。

 その言葉に、彼女もまた、安心したように笑みを浮かべると、食事を再開させた。

 人差し指が折れた影響で利き手を使うことができないために、当然ながら箸を使わなければならないようなものを食べることはできない。

 無事であるもう片方の手で握り飯を口に運びながら、眼前の彼女を眺める。

 夫の浮気相手の候補者に、彼女の名前は存在していない。

 先日は私の事故現場に居合わせただけで、彼女は普段から夫と親しくしているわけではないのだ。

 私が二人の間に立っていたとしても、夫と彼女が会話をしたことはほとんどなかったことから、夫にとって親しい人間ではないということは明らかだった。

 しかし、それだけではなく、彼女が私以外の人間と親しくしている姿を見たことはない。

 私が彼女と共に過ごすようになったのは、かつて虐げられていた彼女のことを私が救ったことが切っ掛けだったのだが、そのときの苦い記憶が、対人関係に影響を及ぼしているのかもしれない。

 夫よりも人間関係が限られていることに加えて、自分を救ってくれたことに対してどれほど年数が経とうとも感謝の言葉を吐き続けていることを思えば、彼女が私を苦しめるような真似をするとは考えられなかったのである。

 その証拠に、利き手を使うことができない私のために、授業の内容を細かく記録した筆記帳を毎日欠かすことなく見せてくれていることから、彼女が私のことを大事にしてくれているのだと肌で感じていた。

 ゆえに、私は彼女との友人関係を何の憂いも無く続けることができるのだった。

 それから我々は、雑談をしながら食事を進めた。

 その話題の中で、演劇部での盗難事件や、放課後に聞こえてくる不気味な声の噂など、かつて聞いたことがある内容のものが含まれていたことから、自分の知っている過去が変わっていないことを改めて知った。


***


 浮気相手の候補者として最初に浮かんだ人間は、夫が所属していた部活動の後輩である。

 文芸部に所属していた人間は多かったのだが、そのほとんどは、名前ばかりの幽霊部員だったために、実際に活動していた人間は、夫とその後輩の二人だった。

 一度だけ、その活動の様子を見に行ったことがある。

 部室の外から見ただけであるために、会話の内容までは分からなかったが、夫と後輩は笑顔を浮かべながら、何かについて話していた。

 自分たちの作品を見せ合い、互いに批評していたのか、もしくは、自分たちが好んでいる作品の気に入っている箇所を紹介し合っていたのか。

 いずれにしろ、仲が良いということは間違いないだろう。

 仲の良い若い男女が、人気の無い放課後の密室で共に過ごしている中で一線を越えたとしても、何ら不思議ではない。

 そして、その関係が学生という身分を失ってからも続いていたということは、充分に考えられる。

 だが、これはあくまでも私の想像だった。

 ただ仲が良いだけの人間を浮気相手だと断ずるのは、早計以外の何物でもない。

 ゆえに、二人の様子を探る必要があるだろう。


***


 文芸部の活動が知りたいと夫に告げると、夫は何の疑いもなく、体験入部をしてはどうかと提案してきた。

 簡単に私のことを受け入れるということは、後ろめたいことがないということを証明していると考えることもできる。

 しかし、自分と後輩の関係が特別なものではないと私に認識させるために、あえて受け入れたという可能性も存在している。

 何にせよ、実際にこの目で二人のやり取りを見てみなければ、判断することはできない。

 些細な言動も見逃すわけにはいかないと決意しながら、私は夫と共に文芸部の部室へと向かった。

 室内には、くだんの後輩の姿があった。

 夫が私のことを紹介すると、後輩は頭を下げただけで、それ以上は何も語ることなく、読書の続きに戻った。

 いきなり親しくなろうとすれば不審に思われるだろうと考え、私もまた後輩に声をかけることなく、夫に目を向けた。

 夫は、机の上に置かれていた自身や後輩の原稿を手に取ると、修正点が書き込まれている形跡を見せたり、本棚から自分や後輩が気に入っている本を取り出し、その本についての粗筋や感想などを口にしていった。

 私は夫に相槌を打ちながらも、後輩に対する意識を途絶させることはなかった。

 後輩は、やけに長い黒々とした髪の毛に、それほど荒れてはいない白い肌、女性特有の双丘が目立っているわけではないという小柄な体型の持ち主である。

 一言で表現するのならば、地味だった。

 このような人間が、妻子のある人間との不貞行為に溺れるものなのだろうか。

 眼前の後輩は私の友人である彼女と同じく、一度心を許した相手に対しては、とことん親しくなろうと考えているのだろうか。

 そのように考えたが、今日だけの観察では、不充分である。

 怪しまれない程度には、部室に通い続ける必要があるだろう。


***


 文芸部で何度か時間を過ごして分かったことは、後輩が言葉を発しないということだった。

 普段から寡黙な人間なのだろうかと考えたが、部室の外から夫と後輩を観察したときには、互いの口が動き、その後には笑みを浮かべていた。

 つまり、私の前では言葉を発さないということになる。

 私を嫌っていることが理由なのだろうかと思い、それとなく夫に訊ねたところ、首を左右に振った。

 後輩は、私のことを嫌っているわけではないということだった。

 だが、夫が気を遣ってそのように発言しているという可能性もある。

 夫が不在ならば、後輩が私に対して本音を吐くこともあるのだろうか。

 それほど親しくは無い人間と二人きりと化すことで、後輩が萎縮することも考えられるが、相手がどのような人間なのかを知るためには、何時かは話さなければならないのである。

 一度、後輩と二人きりで話す場を、私は設けたかった。

 そのことを伝えるために、私は下級生の教室へと向かうことにした。

 しかし、其処で後輩がどの学級の人間なのかを知らないことに気が付いた。

 手間ではあるが、一つずつ教室を回っていくことにした。

 だが、そのような行動に及んでいくうちに、私は奇妙な出来事に遭遇した。

 後輩の名前を伝え、その学級に所属していれば、声をかけた生徒に連れてきてもらおうとしたのだが、いずれの教室にも、そのような名前の人間など存在していないと告げられたのである。

 私は、夢でも見ているのだろうか。


***


 事実を確かめるために、私は後輩に正体を訊ねることにした。

 夫の裏切り行為と直接の関係が存在しているかどうかは不明だが、単純に、私はこの奇妙な出来事を解決したかったのである。

 それでも、後輩が何らかの事情を抱えていることを考慮し、夫が不在の際に、部室で疑問をぶっつけた。

 私の言葉に、後輩は目を丸くしたが、即座に観念したように大きく息を吐くと、自身の髪の毛を掴んだ。

 そして、それを床に投げ捨てた。

 突然の行為に驚き、床に落ちた黒い塊を見つめていたが、数秒後に視線を後輩に戻す。

 長い髪の毛が消えた後輩のその姿は、下級生の教室の一つで目にしたことがある、男子生徒のものだった。

 どのような声をかければ良いのかも分からず、私が後輩と床の髪の毛に視線を行き来させていると、やがて後輩は顔を赤らめながら、口を開いた。


***


 後輩は、自身が他の同性よりも女性らしい外見であることを嫌悪していた。

 さらに、周囲の人間からそのことを揶揄されていたことから、後輩が味わっていた精神的な苦痛は、相当なものだったのだろう。

 しかし、その悩みを知ったとき、夫はそれを利用するべきだと提案した。

 どういうことかと後輩が首を傾げると、夫は自身の計画を滔々と語り始めたらしい。

 夫が語った内容とは、後輩がその外見に相応しいような女性らしさを体得し、他の女性にも敗北することがないほどの魅力を身につけた後、鼻の下を伸ばして近付いてきた愚かな同性たちを騙していき、最後に正体を明かすというものだった。

 揶揄をしていた人間たちがその相手に一杯を食わされるということほど、滑稽なものはないということである。

 その提案を実行するかどうかについて、後輩は逡巡した。

 報復の方法としては面白いが、自身が嫌悪している特徴をさらに強めることになることを思えば、当然だろう。

 だが、夫が演劇部から盗んできた鬘と女子生徒の制服を身につけた己の姿を鏡で確認したところ、出来映えは想像以上のものだった。

 不覚にも、鏡に映った自身に見惚れてしまったほどだったらしい。

 誰がどのように見たとしても、一人の女子生徒の姿にしか見えなかったために、これならば上手くいくに違いないと考え、後輩は夫の計画に乗ることにした。

 それ以来、後輩は夫と二人きりの際に女装し、女子生徒らしい振る舞いをすることができるように練習するようになった。

 私を体験入部させたのも、練習の成果を見るためだったようだ。

 しかし、言葉を発しなかったのは、声の出し方や喋り方の練習が不充分だったことが理由らしかった。

 だが、夫との計画を語るその声は、変声期を迎えていないようなものであり、それほど案ずる必要は無いと感じられた。


***


 事情を語った後、後輩は、口外しないでほしいと頭を下げてきた。

 私が他者の秘密を軽々に明かす人間だと思われているのならば、癪である。

 私は後輩の肩に手を置き、事情を知らない人間に話すつもりはないと告げた。

 それは私の主義でもあるのだが、夫が大事にしている後輩を貶めるような真似をすれば、夫の心が私から離れてしまう可能性が存在することも考えられたためである。

 私に対する夫の好感を少しでも減少させるような事態は、避けたかったのだ。

 私の言葉に、後輩は笑みを浮かべながら感謝の言葉を吐いた。

 しかし、話は此処で終わりではない。

 私には、確認しなければならないことがあったのである。

 それは、夫に対して、後輩が恋愛感情を抱いているかどうかということだった。

 これまでの話から考えるに、眼前の後輩は、夫のことを慕ってはいるものの、恋愛感情を抱いているようには見えなかった。

 だが、念には念を入れなければならない。

 後輩が女装を続け、それに伴って恋愛に対する考え方が変化し、やがて女装した姿で私の夫と共に宿泊施設に向かうようになるという可能性も存在しているのだ。

 私の問いに、後輩は苦笑を浮かべ、首と両手を同時に左右に振りながら、

「良い先輩だと思っていますが、それだけです。それに、先輩にはあなたという恋人が存在しているではありませんか。既に関係が出来上がっているところに割り込むほど、私は愚かな人間ではありません」

 では、私が夫と交際していなければ、関係を持っていたのだろうか。

 そのような疑問を抱いたが、藪をつついて蛇を出すわけにもいかない。

 私は後輩に対して、今後も精を出すようにと告げると、部室を後にした。

 帰宅の途中で、翌年の文化祭において、男装と女装の大会が催されていたが、先ほどの後輩らしき人間が優勝していたことを思い出した。

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