教師
浮気相手として最初に疑った人間の正体には驚いたが、問題が一つ片付いたということに変わりはない。
次なる調査対象として選んだ相手は、私と夫が通っている学校の教師である。
どのような学校であろうとも、生徒と教師が関係を持つということは褒められるようなことではない。
露見すれば社会的地位を失ってしまうことを思えば、生徒が卒業するまで、関係を持つことは控えるべきなのである。
だが、私が通っていた学校において、とある生徒が卒業すると間もなく教師がその相手と結婚したという実際に起きていた出来事から考えると、生徒が在籍中に教師と関係を持っていたとしても、不思議な話ではなかった。
だからこそ、夫と教師が関係を持っているのではないかという思考を、妄想の一言で片付けてはならなかったのである。
では、何故私が教師に目を向けるようになったのか。
それは、夫の関係者から浮気相手を抽出する過程で、とある出来事を思い出していたからだ。
親しい人間の少ない夫が他者と連絡を取ることは滅多に無いのだが、敬語を使って話していた姿を見たことがある。
私が見ていることに気が付くと、夫は別の部屋に移動し、そのまま会話を続けていたようだったが、そのときの私は、特段の疑問も抱かなかった。
しかし、今にして思えば、あれは浮気相手と話していたのではないだろうか。
夫と親しい人間のほとんどは、同年代か年下であるために、敬語を使うような人間は限られている。
滅多に無い連絡に加えて、別室に移動してまで会話を続け、その口調は聞いたことがほとんど無い敬語であることを総合すると、夫の浮気相手は、年上の人間なのではないだろうかという考えを抱いた。
話が飛躍しているのではないかと心配をされそうだが、今はあらゆる可能性を考えなくてはならないのである。
夫と親しくなる可能性が高い年上の人間といえば、学校の教師以外には考えがたい。
何故なら、夫は学生という身分を失ってからは、自宅に籠もってばかりの生活を続けていたために、新たな人間関係を築くことはほとんど無かったからだ。
家から出ることがなくなった人間にとって、それまで関わりがあった年上の人間といえば、自分が通っていた学校の教師くらいのものだろう。
近所に住んでいる人間ということも考えられるが、塵を出しに行くことすら無い夫が近所の人間の顔や名前を知っているとは考えがたかった。
ゆえに、私は、自身が通っている学校の教師の中でも、特に疑わしい人間に目をつけたのだった。
それは、色香を振りまき、男子生徒たちを毎日のように刺激している中堅の女性教師ではなく、そのような姿とは対照的ともいえる新任の女性教師である。
前者に比べると、後者の格好は女性らしさを前面に押し出したものではなく、中性的なものだった。
大学を卒業したばかりであるために、我々とそれほど年齢差が無く、親しみを感ずることができるかと思われたが、その教師は背中を丸めながら歩き、集中しなければ発せられた言葉を聞くことも出来ないほどの小さな声の持ち主であり、生徒と目を合わせようともせず、常に怯えたような様子であるために、生徒はおろか同僚も関わろうとはしていなかった。
目立つような人間ではないために、個人的に関わりが無い限りは、学校を卒業してしまえば即座に生徒たちの記憶から消えるような存在だったのである。
私がくだんの教師のことを憶えているのは、学校の委員会で関わりを持っていたためだ。
浮かべた笑顔が意外にも可愛らしいということを、今でも忘れてはいなかった。
では、何故そのような教師を疑っているのか。
それは、卒業式が終了した後に見た光景が影響している。
世話になった教師に生徒たちが声をかけていた中、くだんの教師のところに多くの人間が集まっていた。
くだんの教師が生徒たちの人望を集めるような人間だとは考えていなかったために、驚いたことを今でも憶えている。
だが、よく見てみれば、集まっている生徒たちは、似たような種類の人間ばかりだった。
偏見であることは理解しているが、いずれの生徒たちは、異性に縁が無いような外見をした人間ばかりだったのである。
より直截に言えば、生きている間において、異性と肉体関係を持つことができるとは考えられない、同性も近付くことすら避けたいと考えるような底辺の人間ばかりだったのだ。
そのような生徒たちは教師を囲み、だらしのない笑みを浮かべていた。
教師もまた、ぎごちないものの笑顔だったことから、悪い関係性ではないということが窺えるが、奇妙な光景であることに間違いはなかった。
今にして思えば、その教師は、集まっていた生徒たちと関係を持っていたのではないだろうか。
異性と縁が無いような人間に己の肉体を味わわせれば、当然ながら、その生徒は教師に夢中と化すだろう。
ほとんどの人間から相手にされていないことに対して不満を抱いていたために、教師は己の肉体を利用して、人望を集めようとしていたのではないだろうか。
穿った見方だろうが、確認しなければ、あらゆる可能性は存在しているのだ。
私の夫は、その生徒たちのように不細工ではないものの、性格的には同類だったために、教師と関係を持っていたとしても不思議ではない。
その関係は学校を卒業してからも続いたが、生徒と教師という互いの立場を忘れることができていなかったために、夫が敬語で話していたということも考えられる。
ゆえに、私はくだんの教師に対して、疑いの目を向けることになったのだった。
***
くだんの教師が担当する科目の教室は、人気の無い特別棟の最上階に存在している。
また、この階で活動している部活動も存在していないために、授業が無い限りはほとんど無人のような状況だった。
だからこそ、公にすることができない行為に及ぶには、相応しい場所だったのである。
くだんの教師が使っている教室の出入り口を見張ることができる空き教室に潜むと、出入りする人間を私は観察し続けた。
毎日のように放課後は用事があると告げたことに、夫も友人である彼女も残念そうな様子を見せていたが、学校関係の用事だと説明すると、一応は納得してくれた。
虚言を吐いていることに対して罪悪感を覚えたが、この教師の一件が片付いた後は埋め合わせをしようと考えている。
どのような行為に及べば、夫も彼女も笑顔を浮かべてくれるのだろうかと考えながら、二週間ほど観察を続けていたある日、ようやく動きがあった。
くだんの教師が、とある生徒と共に教室へと入っていったのである。
それだけならば、目にすることもある光景だろうが、その際に手を繋ぐということはなかなか無いことではないだろうか。
数分ほどが経過した後、足音を立てないように、教室へと近付いて行く。
近付くにつれて、女性の声が聞こえるようになってきた。
学校で出すようなものとは考えられない艶めかしさから、教室の内部で何が行われているのかなど、容易に想像することができる。
教室の扉に存在している窓から内部を覗くと、果たして、其処には教師と生徒ではなく、雄と雌が存在していた。
***
四方を校舎に囲まれた中庭に、私はくだんの教師を呼び出した。
他者に明かすことができない会話に及ぶのならば、眼前の教師が普段から使っている教室の方が良かったのだろうが、秘密を明らかにされることを恐れた相手が口封じのために私の生命を奪おうとする可能性を考えると、人目につきやすい場所の方が良いと判断したのだ。
私に呼び出されたことに心当たりがあるのか、教師は身を震わせていたが、考えてみれば常にこのような様子である。
それは、自身の秘密が露見するのではないかと怯える毎日を過ごしていることが影響しているのか、もしくは、単純に他者と接することが苦手なだけなのか。
元々は後者だけだったのだろうが、今では前者も加わったことで、より怯える日々を過ごすことになっているのかもしれない。
会話を聞くことができるような我々と近い場所に人間が存在していないことを確認してから、単刀直入に、生徒たちとの関係について訊ねた。
その問いに、教師は目に見えて動揺した。
身を大きく震わせた後、頬を紅潮させ、滝のような汗をかきながら、私から目をそらしたのである。
震える声で、何のことかと恍けたが、生徒と愛し合っている姿を撮影した写真を見せると、これ以上無いというほどに目を見開き、全ての動きを停止させた。
言い逃れることはできないと諦めたのだろう、教師は頭を抱えながら、うめき始めた。
しかし、公言するつもりはないと私が告げると、呆けたような声を出しながら、顔を上げた。
間が抜けたような表情を浮かべる教師に向かって、私は写真を指差しながら、何故このような真似をしているのかと問うた。
それだけが私の興味だと告げると、私が自身を破滅に追い込もうとしているわけではないということに気が付いたのか、教師は瞬きと深呼吸を繰り返した後、その口を開いた。
***
くだんの教師の日常の姿は、幼少の時分から何一つ変わっていなかった。
ゆえに、目立っている人間たちから虐げられることは、珍しいことではなかったのである。
火が点いた煙草を押しつけられ、便器に顔を突っ込まれ、弁当に生きている昆虫を入れられ、机の中に使用済みの避妊具を入れられるなどという行為は、何をせずとも朝を迎えることと同様の出来事だった。
大学へ進むと、そのような行為に悩まされることはなくなったが、ある日、教師は思わぬ場所で自身を虐げていた人間たちと再会することになってしまった。
それは、異なる大学に通っている学生たちによる、交流会だった。
交流会といえば聞こえが良いが、端的に言えば、恋人を作るための場である。
人数あわせのために参加してほしいと同じ大学の人間から頭を下げられてしまったために、気が進まなかったが、断れば禍根を残すことになるだろうと考え、教師は首肯を返した。
その会場で、教師は己を虐げていた人間たちの姿を目にすることになってしまったのだった。
派手な外見は変わっていなかったために、教師は相手の正体に即座に気付くことができ、それと同時に近付くことがないように決めたのだが、自己紹介の際に、自身の出身校を口にしなければならなかったのである。
正直に話す必要は無かったのだろうが、同じ大学の人間の目もあることから、教師は素直に己の出身校を紹介した。
当然といえば当然の結果として、くだんの人間たちが接触してきた。
だが、教師は耳を疑うような言葉を聞いた。
「同じ出身校ということですが、何処の学級だったのですか」
その言葉に、教師は愕然とした。
自分のことをあれだけ虐げていたにも関わらず、憶えていないということなのか。
相手の表情を見るに、どうやらそれは本当のことらしかった。
教師は、眼前の人間たちとは異なる学級だったと告げたが、それ以降、どのようなことを話したのかは憶えていなかった。
何故なら、教師は己の存在について考えていたからである。
あれほどの目に遭わされたにも関わらず、記憶に残ることがないということは、凶悪な犯罪に及んだとしても、自分のことを思い出す人間は皆無なのではないだろうか。
だとすれば、自分は何のために生きているのだろうか。
何も、世界に名前を轟かせようとは考えていない。
しかし、自分という人間が生きていたことを、自分以外の人間に憶えていてほしかったのである。
それは承認欲求などという大層なものではなく、誰かの記憶に残ることがないような人間は、生きている意味が無いと考えたからだ。
そのように考えたとき、教師は決心をした。
それは、自分が赴任した学校において、生涯にわたって異性に縁が無いような生徒と関係を持つことで、自分の存在を記憶に刻むということである。
初めての結合に加えて、その相手が自分の通っている学校の教師であるということなど、一生忘れることができないような出来事だと考えたのだ。
ゆえに、教師は生徒たちと関係を持ったのだった。
教師として失格であることは理解しているが、それ以上に、自分が生きていたという記憶を、他者に植え付けたかったのである。
***
事情を聞いた私は、眼前の教師が哀れに思えた。
自分を虐げた人間たちと再会することがなければ、このような愚かな行為に身をやつすことはなかっただろう。
私が知らないだけで、このように苦しんでいる人間は数多く存在しているに違いない。
何とも不公平な世界である。
だが、同情している場合ではない。
私は眼前の教師に対して、私の夫と関係を持ったことがあるのかどうかを訊ねた。
その問いに対して、教師は浮かべていた涙を拭いながら、首を左右に振った。
「彼には、あなたという恋人が存在しているではありませんか。目をつけていたことは否定しませんが、あなたとの仲を知ったときには、諦めました。私の対象は、そのような仲の人間が存在していない生徒ですから」
話しぶりから察するに、どうやら事実を言っているようだった。
確かに、私と交際する前ならばともかく、異性と交際することができるような相手と関係を持ったとしても、強烈な印象を与えることはできないだろう。
話を聞かせてくれたことに対する感謝の言葉を吐きながら私が頭を下げると、教師はその場を後にした。
教師を見送りながら、夫が使っていた敬語の一件については、親戚などに連絡をしていただけなのではないかと考えた。
思い返してみれば、夫は自身の両親に対しても、敬語を使っていた。
私の家庭と比べると奇妙な話だったが、おそらく身内とはいえ年上には敬意を払うべきなどと教育されていたのだろう。
既にこの世から去っていたが、夫の父親は、そのように教育していたと言われても不思議ではないというほどに厳しい人間だったと記憶している。
凛とした立ち居振る舞いと整った外貌から、さぞ異性からの人気を集めていたことだろうと思わせるほどに、模範的で素晴らしい人間だったのである。
それならば、浮気相手である教師との連絡だと疑ったのは誤りであったと認めたとしても、問題は無いだろう。
そのように考えながら教師の後ろ姿を眺めていると、入れ替わるようにして、友人である彼女が私に近付いてきた。
教師と何を話していたのかと問われ、授業の内容について質問をしていたと私は誤魔化した。
其処で、彼女が此方を疑うような声を漏らしたために、私は取り繕うように、用事は全て片付いたと告げた。
その言葉に、彼女は表情を明るくすると、久方ぶりに寄り道をしようと提案してきた。
私が首肯を返すと、彼女はさらに嬉しそうな表情を浮かべた。
***
教師の秘密を知った翌日、登校している途中で、微笑を浮かべた夫から声をかけられた。
何か良いことでもあったのかと問われたことから、私の気分が良いように見えたのだろう。
それは、当然といえば当然である。
何故なら、夫の浮気相手の候補者を、また一人潰すことができたからだ。
しかし、そのことを話すわけにもいかなかったために、首肯を返すだけに留めた。
下駄箱に到着し、上履きに履き替えようとしている彼女に挨拶をしながら、自身の下駄箱の扉を開く。
其処で、私は奇妙なものを目にした。
上履きの上に、手紙のようなものが置かれていたからだ。
恋文だとすれば、今のうちに断るための文言を考えておかなければならないだろうと考えながら中身を確認すると、私は思わず眉を顰めた。
其処には、次のようなことが書かれていた。
嗅ぎ回ったところで、自分が傷つくだけである。
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