私の感情の終着点は何処か
三鹿ショート
序
私は、何故倒れているのだろうか。
妻である私以外の女性と宿泊施設へと入っていく夫を追いかけようとしていたはずだが、私の脚が動くことはなかった。
顔面で地面の冷たさを感ずる一方で、背中が燃えるように熱い。
恐る恐る背中に手を当てると、何かの液体が付着した。
背中の激痛と、赤々としたその液体から、何が起きたのかなど容易に想像することができる。
私は、自嘲の笑みを漏らした。
家族の生活を支えるために寝る間も惜しまず、身体が悲鳴をあげるほどに働き続けていた私を余所に、夫は私以外の女性と関係を持っていた。
現場を押さえ、浮気相手ともども非難しようとしていれば、何者かによって背中を刺され、生命活動を終えようとしている。
これほどまでに、不幸な人間が存在しているだろうか。
笑ってしまいたくなるほどの現実に直面しながら、自分が何処で間違ったのかを考える。
それは、私を裏切るような夫を選んだことだろうか。
だが、いかなる情報を与えられたとしても、夫の裏切りの現場をこの目で確認するまで、私は夫のことを心から愛していた。
それならば、夫が私を裏切る暇が無いほどに、私が夫のことを愛し続けていれば良かったのか。
もしくは、夫に近付く異性を漏れなく排除していれば、このような事態に至ることはなかったのではないか。
しかし、今さらそのようなことを考えたところで、後の祭りである。
先ほどまで私を苦しめていた激痛が弱まり、睡魔に襲われ始めたことを考えると、どうやら私の生命は、そろそろ終焉を迎えるらしい。
私は、私を裏切った夫、夫の浮気相手、そして私を殺めた人間に対して、怨嗟の言葉を吐こうとした。
だが、声が出ることはなかった。
***
何者かに声をかけられていることに気付くと、私は目を開けた。
私が目覚めたことに安心したのか、私の顔をのぞき込んでいた男女は、笑みを浮かべた。
思わず、私は飛び起きた。
その男女が、学校の制服を着用していると同時に、顔立ちが学生時代の若々しいものと化していたことに驚いたからである。
実は私よりも先にこの世を去り、迎えに来てくれたのかとも考えたが、私が背中を刺された時点で眼前の男女は生きていたはずだ。
では、何故二人は学生時代の姿に戻っているのだろうか。
其処で、私は激痛を覚えていないことに気が付くと、背中に手を当てた。
想像に反して、赤々とした液体が手に付着することはなかった。
手の平を見つめながら、何が起きているのかと困惑してしまう。
眼前の男女にとって、私の動きは奇妙なものに見えたのか、二人は案ずるような表情を浮かべた。
「何処か、打ち所が悪かったのでしょうか」
女性が、そのような問いを発してきた。
何の話かと首を傾げると、彼女はさらに不安そうな様子と化した。
彼女は私の背後を指差しながら、
「あなたは、其処の階段から転がり落ちたのです。憶えていないのですか」
そう告げられ、振り返る。
其処には、確かに長い階段が存在していた。
階段の存在を確認すると同時に、身体の至る所が痛み始め、その中でも利き手の人差し指における痛みは強かったものの、いずれも背中を刺されたときよりは軽いものだった。
その痛みを感じたところで、私は思い出した。
学生時代に、私は同じような出来事を経験していたのである。
少しばかり気を失い、やがて目を覚ました後に、人差し指に特に痛みを感じていたために、病院へと向かった。
其処で、利き手の人差し指が折れていることが判明し、しばらくは不便な日々を送ることになってしまうということにうんざりした。
学校生活においては、友人である彼女が支えてくれたために、大きな問題に直面することはなかったものの、それ以外の時間は溜息が止まらなくなっていたのだ。
そこまで思い出したところで、私は一つの可能性について考えた。
もしかすると、私がこれまで経験していたことは、気を失っていた間に見ていた夢であり、夫の裏切りなどは現実に起きていなかったのではないか。
そのような想像をしたが、それにしては、夢の中での感覚は現実的だった。
破瓜の痛みや、出産の喜び、初めての旅行にはしゃぐ子どもを見たときの微笑ましさ、夫に裏切られたことを知ったときの怒りや絶望感、そして、何者かによって背中を刺されたときの苦しみ。
何もかもを明確に記憶していることを考えれば、夢だったと一言で片付けることはできなかった。
突拍子も無い話だが、もしかすると、私は過去に戻ったのではないだろうか。
そのような話でなければ、私の眼前に立っている男女が、学生時代の姿で現われるわけがないのだ。
私は、深呼吸を繰り返しながら、状況を咀嚼する。
過去に戻ったということは、私が同じような行動を続ければ、同じような未来が訪れるということである。
それは、私が夫に裏切られると同時に、何者かに殺められるということを意味している。
そのような未来だけは、避けなければならないだろう。
では、それを避けるためには、どうすれば良いのだろうか。
夫の裏切り行為の現場を押さえるためにあの場所に立っていたことで、私は何者かによって自身の生命を奪われてしまった。
それならば、夫が裏切ることがないような未来にすることで、私があの場所に立つことはなくなるために、結果的に死を回避することができるのではないか。
それは、将来の夫となる人間以外の男性と私が結婚すれば、済む話だった。
しかし、私は再び夫を愛することを決めていた。
自分を裏切ったということを知っている人間を再び愛するなど、他者にしてみれば正気の沙汰ではないと考えるだろう。
だが、夫の裏切り行為を知るまで、私が夫のことを心から愛していたことは、確かだったのである。
だからこそ、己の目でその裏切り行為を確認するまでは、夫のことを信じていたのだ。
ゆえに、過去に戻ったというこの状況は、夫の愛情を他者に奪われないようにするための、絶好の機会なのである。
では、私はどのように行動するべきなのか。
私が階段から転がり落ちたときは、記憶が正しければ、私が夫と交際を開始したばかりの時期である。
夫の裏切り行為が何時から始まったのかは不明だが、交際を開始したばかりであるために、この時代の夫が私を裏切っているということはないだろう。
つまり、これからが勝負の時間なのである。
私が及ぶべき行為の一つは、夫が他の異性に心を奪われることがないように、夫の周囲に常に目を光らせることだった。
夫の人間関係は把握しているために、その中の人々が浮気相手へと化すような不審な動きを見せた場合は、迅速に対応しなければならないだろう。
禍根は、早いうちに潰しておくべきなのだ。
ゆえに、夫の関係者について調査する必要があるだろう。
第二に、夫が他の異性など必要が無いと思うほどに、私が夫のことをこれまで以上に愛するということである。
この点については、それほど難しい話ではないため、わざわざ張り切る必要も無いだろう。
今後の方針を決めたところで、深呼吸を止めると、私は眼前の男女に向けて、利き手の人差し指を示しながら、激痛を覚えていることを告げた。
二人は案ずるような様子を見せながら、歩いて数分ほどの場所に存在する病院に付き添ってくれた。
想像していたとおり、利き手の人差し指は折れていた。
その事実が、私が過去に戻ったということを示す証拠と化したのだった。
***
自宅まで送り届けてくれた男女に感謝の言葉を吐いた後、私は夫である男性に顔を近づけると、己の唇を男性の頬に当てた。
夫は恥ずかしそうに顔を赤らめながら笑みを浮かべたが、彼女は恋人同士のやり取りを見ることに抵抗があるのか、顔を背けていた。
やがて二人に別れを告げると、私は自宅の中へと入っていく。
今から二十年ほど後には手放すことになる自宅の内部は、懐かしさを覚えるものばかりだった。
しかし、郷愁に浸っている場合ではない。
私は自室に向かうと、夫と関わりを持っている人間たちを羅列していき、将来的に裏切り行為に発展する可能性が存在する人間を抽出していった。
数にしてみれば、それらは大したものではなかった。
このときほど、夫の人間関係の希薄さに感謝したことはない。
この女性たちについて調査する必要があると決めたところで、睡魔に襲われ始めた。
考えてみれば、色々な出来事が一度に起きていたのである、疲労は当然だろう。
明日から始まる勝負の日々を思いながら、私は目を閉じた。
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