第36話 呪縛からの解放(1)

 目が覚めたとき、真剣な表情をしたライズがベッドの傍らからこちらを見つめていた。その手は祈るように強く、フランの左手を握りしめている。

 視線が合った瞬間、紫の瞳が大きく見開かれた。


「フラン……! 気がついたか?」


 彼は身を乗り出すと、こちらの体を掻き寄せるようにして抱きしめてきた。


「ライズ様……?」


 広い胸の中はとても温かくて安心できるが、力が強すぎてちょっぴり苦しい。

 ライズの肩は細かく震えていて、大きな心配をかけていたことがわかった。

 彼の肩越しに見える豪奢な部屋の内装は、フランの部屋のものではない。以前、臨時的に使わせてもらっていた皇妃の部屋だ。

 どうやら小離宮でルークを助けるために力を使い果たしたあと、ここへ運ばれたらしい。


「私は、どれくらい眠っていたのでしょうか……」

「二日と半になる。心臓が潰れるかと思ったぞ」


 安堵のため息が聞こえて、ひとまず抱擁が解かれた。

 彼が大きなクッションを引き寄せて、フランの身をそこへもたせかけてくれる。まるで壊れ物を扱うような手つきだ。

 自分の体の状態を確かめると、全身がけだるく、熱を持っていた。体の中のマナが空っぽになっているのを感じる。


「辛いのだろう? 無理をするな」

「ありがとうございます。それより、あの……」


 ルークがどうなったのか確認したかったが、悲しい末路を知るのが怖くて口ごもってしまう。

 するとライズは瞳に真摯な光を浮かべ、深く頷いた。


「ルークは無事だ。……おまえのおかげだ。礼を言う」


 それを聞いたフランは、表情を明るくした。

 聞けば、あれほどルークの体を蝕んでいた毒は消え失せ、心臓の動きも驚くほどよくなっているという。フランの必死の治療が功を奏し、体調が持ち直したのだ。


「弟を失うことは、覚悟していたのだが……。顔を見てしまっては、再び心を鬼にすることはできそうもない。特に母上は、臣下の前で泣き崩れるほど心を乱してしまった。今後のルークの処遇については、考え直さねばならないと思っている」

「よかった……」


 目の端が潤むのを感じていると、ライズが少しだけ顔をしかめて、不満げに言う。


「それにしても。この間からフラン、おまえは私と共にいるというのにほかの男のことで頭をいっぱいにして……。そもそもあんな無謀な真似をして、おまえの身になにかあったらどうするつもりだ」

「ええっ!?」


 意外なセリフと見たことのない彼の複雑な表情に、目を丸くした。


「それは……も、申し訳ありませんでした……」


 あの行動は、ライズのためを思ってのことでもあったのだ。政治的な判断とはいえ、彼がこの状況を心から望んでいないことはわかっていたから。

 けれども、それも理解した上でいじけているような、この態度。


(まさか、やきもち……?)


 とても信じられないが、なんだか胸がじわじわと疼いて、こそばゆい気持ちになる。

 それを裏づけるように目元を少しだけ赤らめた彼が、気まずそうに視線を逸らした。


「もういいから、早く元気になれ。これからは以前のとおり、この部屋で過ごせ。

私がいいと認めるまでは、外出は禁止だ。わかったな?」


 早口に、しかし確固たる口調で決定づけながら、チェストの上に置かれていた水差しを掴む。そうして横に備えてあるグラスに水を注ぐと、飴玉のような錠剤と一緒に、フランの前に差し出した。


「クリムトが用意した滋養の秘薬らしい。飲めるか?」


 フランは背もたれから身を起こし、両手でグラスを受け取った。しかし手が震えてしまい、スムーズに口に運ぶことができない。これでは中身を零してしまうかもと思っていると、ライズがそれを引き取って、錠剤と水を自らの口に含んだ。そしてベッドの縁に腰かけ、身を屈めて顔を寄せてくる。


「ライズさ……」


 顎に指が添えられ、軽く上に持ち上げられたと思うと、口が塞がれた。温かく柔らかな唇が、しっとりと重ねられている。

 頬が熱くなったが、すぐに彼の意図を組み、心を落ち着かせようと努めた。要は薬を口移しで飲ませてくれようとしているだけなのだ。


 ドキドキしながら薄く口を開くと、ころんとした錠剤が舌に乗って運ばれてくる。苦くもなく口触り滑らかなそれを、差し入れられる少しの水と共にこくりと飲み干した。

 しっとりと合わさった唇は、すぐには離れていかない。いい子だと褒めているかのように、彼の手の平が頬を伝い、うなじを撫でていく。


 うっとりと目を閉じたまま、無抵抗で身を任せた。脇で、ことりとグラスが置かれた音がする。

 無意識に薄目を開いて、甘えるように見てしまう。すると彼が身を離し、そのまま至近距離で見つめ合った。


「この間は、怖がらせてすまなかった……」

「いえ……私のほうこそ」


 互いの瞳の色に溺れるように視線を絡ませる。すると彼の唇が動いて、夢のようなセリフを、至上の褒美ともいえる愛の言葉を呟いた。


「フラン……おまえが好きだ」

「えっ……?」


 飛び出してしまいそうなほど、大きく目を見開く。

 何度も頭の中で言葉を反芻する。驚きすぎて、もう一度と確認を求めることもできない。


「女性に対し、こんな気持ちになったのは初めてなんだ。不器用ですまない……。私の思いは、迷惑にはなっていないか?」

「迷惑だなんてとんでもない……夢のようなお言葉です。私は最初から……ライズ様のことだけをお慕いしております」


 被せるように答えると、少し緊張していたようにも見える口元が、優しく弧を描く。

 そっと顔が近づいて、もう一度、キスが落とされた。

 啄むように口づけられる。幸せを感じて口元をほころばせると、今度は食むように吸われて、思わず甘い吐息が漏れる。それから唇を割って、キスが深くなった。


「ん……!」


 意識を引きずられ、一気に持っていかれる。こんなに蕩けるようなキスがあるなんて、知らなかった。口内を撫でられるたびに、肩がびくりびくりと揺れてしまう。

 唇を合わせたままクッションに深く押し倒され、がっしりとした体が覆い被さってきた。

 いつの間にか片方の手は指を絡ませて繋がれ、縫いつけられるようにシーツの上に押さえつけられている。

 もう片方の大きな手の平が、愛しげに肌の上を滑る。ぞくぞくとした痺れが体の中心を走り、頭の中で白い火花が散った。


「フラン……好きだ。大好きだ……」

「ライズ様……私も……」


 甘く背徳的な時間。密着し、ひとつに溶け合うような充足感がたまらない。気持ちがよくて幸せで、このままずっと溺れていたいと思ってしまう。

 ちゅっと水音を立てて彼の唇が離れ、今度は瞼、頬、耳へと順にキスを落とされる。そのまま首筋を添うように下がっていき、こちらの肩口に顔を埋めたと思うと、鎖骨のあたりの皮膚を強く吸い上げられた。ちりっとした感覚に驚いて体を震わせると、彼はその痺れた部分にうやうやしく口づけて、おもむろに顔を上げた。

 冴え冴えとした目元を上気させ、いつもより色めいた表情を浮かべて言う。


「すまない、休ませなければならないのはわかっているんだが」


 フランは上擦る呼吸を整えながら、ふるふると首を振った。切なくて相手の唇から目を離せずにいると、そこにドキリとする表情が乗ったのがわかる。


「これで、私の思いは伝わったか? ……言っておくが、こんなことをするのはおまえだけだ」


 胸が一段と高鳴った。期待で目がきらきらと輝いてしまう。


「わ、私だけ……? で、でも……」

「まだ不安か? 仕方のないやつだな。だがそこが可愛いところでもあるんだが……」


 念押しのように額に口づけて、彼が身を起こした。


「近いうちにもっとわからせてやるから、覚悟しておけ。盛大に、な……。それに今日は、時間切れのようだから」


(え? え? もっとって……私、なにをされるの?)


 その直後、はかったように扉がノックされ、クリムトと医務官が姿を見せる。

 怒涛のように押し寄せる質問と診察を受けながら、目まぐるしい一夜は更けていった。

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