第32話 はかなき皇弟ルーク(2)
*
数日後の朝、フランは皇帝の見送りに出るため、身支度を整えて本城のエントランスホールへと向かった。
これからライズは数名の供を連れ、他国との外交会談に出立する。
国を空けるのは十日程の予定と聞いてはいるが、しばらく遠くに離れてしまうのだと思うと寂しさが隠せない。
ライズはまだ姿を見せていないようだったが、普段とは違う場の雰囲気に、フランは首を傾げた。集まった人々が、そわそわと落ち着かない様相を見せている。
近くにいる令嬢に聞いてみようかと考えていると、廊下の奥が騒がしくなった。外交に向かう皇帝とその従者たちが現れたのだ。
すぐに口を閉じ、頭の位置を低くした。
目の前に差しかかるのを今か今かと待っていると、近づいてきたライズのそばに、華やかな女性がひとり付き従っていることに気がついた。
(えっ? どうして……)
エレガントな外套を羽織り、使節団の一員として肩を並べているのはシルビア姫だ。
先ほどまで令嬢たちがざわめいていた理由を、ようやく理解した。彼女が隊に同行することを事前に聞きつけた者がいたのだろう。
冷や水を浴びせられたように、心が冷えていった。
公務の場に、それも他国と交渉を行う重要な場面に、ひとりの令嬢を連れていく。これがどれほど大きな意味を持つかは、フランにもわかる。それほど信頼され、重用されているなんて、どうがんばっても追いつくことはできないと知らしめられた格好だ。
呆然としているうちに、ライズとシルビア姫を中心とした一行はホールを抜け、門の外で待機していた馬車に乗り込んで出発していった。
「これはもう、いよいよご婚約の発表も近そうね……」
隣にいた令嬢が、ため息混じりに呟く。フランはひと言も発せなかった。
憔悴した風体で華離宮に戻ると、驚いたサリーが心配して事情を尋ねてきた。
シルビア姫がライズに同行したことを話しているうちに、フランはすっかり諦めの境地になってしまう。
「陛下のことは諦めて、身を引くべきかしら……」
思い余ってそう口走れば、サリーは悲愴な顔をして、一生懸命に励ましてきた。
「フラン様、そんなことおっしゃらず、ずっとここにいてください。私はこれからもフラン様にお仕えしたいです」
「サリー……」
「側妃でもすごいことではありませんか。陛下は、フラン様のことを大切に思われていると思います。それに、こう言ってはなんですが……もし、もしですよ? フラン様が陛下との御子をお産みになられれば、生母であるフラン様の立場は揺るぎません。正妃との差なんて、肩書きの違いでしかなくなるんです!」
帝国の制度では、そのとおりかもしれない。この国にとって重要なのは、誰が皇妃になるかではなく、世継ぎを産めるかどうかなのだ。
権力に興味はないが、愛する人との子をもうけられれば、それだけで幸せかもしれない、とは思う。世界的に見ても一国の王が複数の妻や愛人を持つことは珍しくないし、公に一夫多妻制が認められている国もたしかに存在している。
けれども祖国シャムールでは一夫一妻が美徳とされ、不倫は厳しく非難されるべき背徳行為とされていた。法にもきちんと定義づけられており、たとえ王族であっても例外ではない。
そんな国で育ったフランとしては、できれば「ただひとりの人」と言い合える関係を作りたい。
市井の民と同じく互いに誓いを立て、深く愛し合い、家族を作る。このような庶民的な考えが「皇妃になる器ではない」ということなのかもしれないが、それこそがずっと思い描いていた理想の未来だ。
どちらにせよ、いずれ心を決めなければいけないだろう。そして時間の猶予も、おそらくはあまり残されていない。
*
(はぁ……これからどうしようかしら……)
サリーが昼食の世話を終えて下がっていったあと、フランはひとりの時間を持て余していた。
気力が湧かず、なにをする気にもなれない。ぼんやりしていると思い浮かんでくるのは、結局ライズのことばかりだ。
今ごろどうしているだろう。行程は順調だろうか。ライズとシルビア姫は、馬車の中で楽しい時間を過ごしているのだろうか――。
そんなことを考えて自分を追い詰めていたら、いつしか体が縮まって、ピンク色の柔毛に包まれた獣の姿になっていた。
心が弱って変身してしまうのは久しぶりだ。なんだか意表を突かれた心地である。
軽く伸びをし、ぷるっと身震いをして、四つ足の感覚を取り戻した。
能力のコントロールを覚えた今なら、すぐに人間の姿に戻ることもできる。けれど、あえてこのまま自然に任せることにした。きっと体の防衛本能みたいなもので、楽な姿勢で回復に努めよという合図なのだと思う。
それにしても小さな動物の体では、部屋でできる行動は限られる。丸くなって眠ることくらいしか思いつかないが、もしなにかの用事で侍女が戻ってきてベッドに獣がいるのを見たら驚かせてしまうだろう。
(時間をつぶさないと……)
少し考えてから、小窓をちらりと見上げた。手招きするようにカーテンがなびいている。
ぴょんと窓枠に飛び乗ると、いつぞやと同じく目の前に立つ大樹をはしご代わりに、二階の高さから下りていって地面に立った。
鼻を高く上げると、緑のいい匂いがする。マナという力の存在を知ってから、自然による癒やしを確かなものに感じるようになっていた。
(森林浴でもしようかな……)
気持ちを紛らせようと、四本の足で踏み出した。
正面に見えるは、帝国の権力の象徴であるフランベルジュ城。城郭の内部に広がる敷地は広大だ。フランが帝国に来てから三か月あまりが経った今でも、まだ足を踏み入れていないエリアは多かった。
花離宮の周辺や、本城までの道、庭園のある方面は見慣れている。気分を変えたいと、まだ行ったことのないほうへと足を向けた。
(そういえば、奥にある森には行ったことがなかったわね……)
城の裏手に広がる区画は、整備されている様子がない。人が立ち入っているのを見たこともないし、話題に上ることもなかった。
やがて目の前に見えてきた森の入り口は、間近で見ると薄気味が悪くて、ひとりで入ることははばかられた。近づくとぞわぞわして、冷気が漂ってくるような気さえする。
行ったところで、得られるものはなさそうだ。そう思い引き返しかけたとき、森の中からローブを被った人影が、突如として現れた。
フランは素早く近くの茂みに身を隠した。
物陰から、城のほうへと去りゆくシルエットをこっそりと観察する。
(あれは……クリムトさん?)
皇帝の最側近である彼だが、今回の外交には参加していない。
主人の留守中は別命を受け、城内で忙しくしていると思っていたのだが――森の奥にいったいなんの用があるというのだろう。
妙に気にかかり、確かめずにはいられなくなる。
クリムトの姿が完全に見えなくなってから、フランは森へと入ってみることにした。
先人が通った痕跡をたどり、まっすぐに進んでいくと、訪問先と思われる場所はすぐにわかった。ぽっかりと木々が開けた場所に、小さな宮殿がひっそりとたたずんでいる。
景色をひと目見たとき、フランの心に暗い影が差した。
隔離されるように建てられた小離宮。その殺風景なイメージは、祖国でフランが粗相をしたときに罰として閉じ込められていた廃宮にそっくりだった。
ただの倉庫として使っているに違いないと、祈るような気持ちで建物に近づく。
出入り口に見張りはいなかったが、扉には頑丈なかんぬき錠がかかっており、獣の姿であるフランの力ではどうやっても開けられそうにない。
壁に沿って回ってみると、一階の小窓がひとつ開いているのが見えた。その付近の地面には、おあつらえ向きにいくつかの木箱が放置されている。
それらを踏み台にして、窓の外側に突き出した花台に飛び上がった。そっと中を覗いてみると――。
(あっ!)
なんと、いきなり部屋の中にいた人物と目が合ってしまった。窓際に置かれたベッドに細身の男性が横たわり、こちらを見上げていたのだ。
すぐに身を引こうとしたが、穏やかな低い声がそれを引き止めた。
「待って、行かないで。……怖くないよ、入っておいで」
せつなく懇願されて、フランは迷った。
声の主は、呼びかけておきながらもベッドから起き上がることをしない。痩せた頬、掠れた声の感じから、病気なのだろうと思えた。
知らん振りして逃げる選択肢もあったのだが、さらに気になることがひとつ。
(この人……ライズ様と顔立ちが似ている……?)
横たわったままこちらを見上げている男性を、じっと見つめ返す。すると彼はふわりと微笑んで、驚くべきセリフを口にした。
「あぁ、その耳。その瞳。その毛色……君は獣人の、セイントマリアだね? ご先祖様が出会ったという伝説の聖獣。本当に実在したんだ……」
フランは大きく目を見開いた。この人は、聖獣のことを知っている。
「ご、ご先祖様って……?」
思わず変身中であることも忘れ、声に出していた。
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