第31話 はかなき皇弟ルーク(1)

 窓から差し込む日の光を眩しく感じ、目を細めた。

 目覚めはすっきりしていて、体に溜まっていた疲れが消えている。マナを使ったことによる精神的な疲労も、きれいに解消されていた。

 すぐに昨夜の出来事を思い出し、もしかしたらと周囲に視線を走らせる。

 けれど、室内にライズの姿は見当たらなかった。フランが眠ってしまったあと、本城へと戻っていったのだろう。


(昨晩は、ライズ様と……)


 蜂蜜のように甘い時間を過ごせたことは、しっかりと覚えている。恋してやまない彼と、念願のキスをしたことも。


「……きゃぁぁ……」


 その場面をつぶさに思い返し、寝台の上で顔を覆ってのたうち回った。嬉しさと恥ずかしさで胸がはち切れそうだ。

 唇と唇を触れ合わせただけなのに、聞きしに勝る多幸感だった。好きな人から愛情を示す行為を受けて、幸せでないはずがない。

 心臓がトクトクと速い音を立てた。彼のセリフの一語一句、吐息の熱さや唇の感触まで思い浮かべて、じんと余韻に浸る。


 けれどそれが落ち着くと、すぅっと血が引いていくような心地がして、我に返った。

 現実は、そう甘くはない。むしろ切実だ。

 皇妃になれる見込みは低いのに、ライズから少なからず好意を持たれていると期待してしまう。その矛盾が、フランを苦しめた。


 高貴なシルビア姫が皇妃に選ばれれば、フランは二の次だ。しかし彼は愛人を作るような人ではないと思うから、結婚が決まったあとは、フランは国に帰されてしまうかもしれない。

 もし、そうはならずに側室として残してくれたとしても――それではもう、満足できなくなっていた。愛する人が、フランではなく他の誰かの夫となり、自らは何番目かの妾になるなんて、そんなのは辛すぎる。想像しただけで胸が張り裂けそうだ。


 自分がこんなにも独占欲が強く、貪欲だったとは知らなかった。

 以前、母が言った「なにをされても逆らってはダメ」という言葉が切実に身に迫ってきた。元から、皇妃に選ばれることまでは期待されていなかったのだろう。二番目でも三番目でもいい、戯れとして目をかけてもらうことを望まれていた。母だけなく、父も妹も、きっと祖国の誰もがそう思っていたに違いない。

 そして言いつけのとおり、流れに身を任せることこそが、貢ぎ物として捧げられた者の務めであり、真のあり方なのだ。


(だけど、私には耐えられる気がしないわ……)


 これ以上、好きにならないほうがいい。でないと選ばれなかったとき、立ち直れる気がしないから――。

 心を守るために、ブレーキをかけるしかなかった。



 花離宮のサロンでは、淑女教育のための勉強会が開かれていた。

 長年社交界で活躍してきたという貴婦人の言葉に、参加した令嬢たちが耳を傾けている。

 フランもその中に交じり、相槌を打ちながら研鑽に励んでいた。いくつか席を挟んで、シルビア姫の姿もある。


 シルビア姫は、その中でも偉才を発揮していた。講師がどんなに難しい質問を投げかけたとしても、機知に富んで的確な答えを返してしまう。

 何度目かの感嘆のため息をつきながら、講師が言った。


「素晴らしい知識の広さだわ。シルビアさん、あなたの国の教育レベルは最高水準ね。私の出る幕はなさそうよ」

「そんなことはありません、先生。わたくしの国は中立の宗教国なので、多国籍な民との交流があります。そうした中、さまざまな情報が入ってくるというだけのことで……」


 シルビア姫は謙遜を見せながら、頬を染めて次のように言い添えた。


「それに、わたくしは処世術についてはまだまだ未熟です。近い将来、旦那様となるお方にがっかりされないよう、もっと女性としての魅力も磨いていきたいのです」

「あなたに不満を抱く男性なんていないと思うけれど……そうね、シルビアさんは帝国一の男性に嫁ぐのでしょうから、すべてにおいて完璧を目指さねばなりませんね」

「まぁ、先生ったらそんな……わたくしが皇妃に選ばれると決まったわけでは……」


 軽い冗談に、どっと笑いが起きる。フランは少しだけ、喉を詰まらせてしまった。

 とても笑う気にはなれない。それとも他の令嬢たちは、すっかり心の整理をつけているのだろうか。

 講師はにっこりと満足げな笑みを浮かべると、授業に話を戻し、全体をぐるりと見回して説いた。


「皆さん、よろしいですか。貴婦人としてもっとも大切な要素は、慎ましさ、賢さ、そしてなにより『貞淑』であること。魅力を磨くことは大事ですが、一方で誘惑や危険も増えるでしょう。そうした落とし穴にとらわれない、強い心構えも必要になります」


 そこで言葉を切ると、神妙な表情と一段低い声に変えて言う。


「なにより、唯一と決めた男性を裏切る行為は、決して許されるものではありません。先々代の皇帝の時代、お渡りがないことを嘆いた側妃が騎士と密通し、双方とも処刑された例もあります。脅すわけではありませんが、不貞は『穢れ』と心得てください」


 刺激的で恐ろしげな話に、背筋がひやりとする。全員が、息をのんだように静まった。


「それからもうひとつ。結婚前のふらちな行為はご法度ですよ。世の男性は、手垢のついた女性を非常に嫌がりますから……。まぁそうは言っても、花離宮にいる皆さんは一律に皇帝陛下のためだけに存在しているのですから、この話は余計でしたね」


 それを聞き、フランはますます血の気が引いていくのを感じた。


(ふ、ふらちな行為って……)


 そっとうつむいて、気持ちを落ち着けようと躍起になる。

 その行為とは、どういったものが含まれるのだろう。昨夜のように抱きしめ合って、キスをしてしまったことは該当するのだろうか。


(相手が皇帝であるライズ様だから……ここにいるうちは、問題はない……わよね。だけどこの先、帝国を出ることになったら……?)


 「穢れ」という強い言葉が、衝撃的に心に刻まれる。

 もちろん、フランはライズのことを心から愛しているし、一途な思いなら誰にも負けない自信がある。けれど自分はきっと選ばれはしないだろうから、これ以上好きになってはいけないと心に蓋をしたばかりなのだ。


 怖い、傷つく前に逃げたいと思ううしろ向きな気持ちは、彼への裏切りになるのだろうか。そもそも逃げ道なんてあるのだろうか。


(ライズ様が、キスなんてなさるから……)


 どういうつもりで、あんなことをしたのだろう。喜びを植えつけておいて、残酷だ。


「どうかしましたか? 今日の講義はおしまいですよ」


 思考の深みにはまっていたら、講師から声をかけられた。ハッと顔を上げると、他の令嬢たちはすでに席を立ち、ぞろぞろと部屋から出ていくところだった。

 慌てて立ち上がり、講師に礼を言って、その場をあとにした。

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