第29話 癒やしの夜(1)

 その夜、就寝の準備を整え、侍女を下がらせたフランは、ひとり静かな夜を迎えていた。

 入浴と着替えを済ませて、身も心もさっぱりしている。このところ毎日、気を揉んでいたせいだろうか。うっすらとした疲労感が体を取り巻いていた。


 ライズの安全も確認できたし、久方ぶりに凜々しい姿を目にできて充実感がある。今夜は久しぶりによく眠れそうだ。

 ベッドに入る前に居室の窓を閉めようと窓枠のそばに立つと、夜空に昇った満月が視界に映った。くっきりとしたまん丸のフォルムを見事だと思い、しばらくの間それを見上げていたら、


「フラン」


 と、名を呼ばれた気がして、声のしたほうを見やった。

 窓から顔を出して見下ろすと、目の前に枝を伸ばす大樹の根元にライズが立ち、こちらを見上げている。


「へ……陛下!?」


 目が合うと、彼は口元に人差し指を当てて、騒がないよう合図してきた。

 そしておもむろに木の幹の取っ掛かりに手を伸ばすと、軽々と体を持ち上げ、器用に枝を伝って登ってくる。

 あっという間に同じ目線の高さまでたどり着くと、大木から窓枠に飛び移り、部屋の内側へと軽快に降り立った。


「陛下……!」


 突然の訪問に驚かないわけがない。唖然としたまま立ち尽くす。

 けれどすぐに湧き上がってきたのは、無上の喜びだった。

 ただ顔を見られて嬉しい。好きな人に会えた幸せ。そんな幸福感に包まれて、建て前や理屈などすべて吹き飛んでしまう。


 思わず彼の胸に飛び込みたい衝動に駆られたが、直前で理性が働き、足にストップがかかった。けれどライズは腕を開いて、逞しい胸にフランを引き込んで抱きしめた。

 吸い込まれるように包み込まれて、大きな目をこれ以上ないほど見開く。すっぽりとおさまった腕の中は温かくて、大好きな匂いもして最高の居心地だ。


「元気にしていたか? フラン」

「……はい……。はい、陛下……」


 ふいに感情が盛り上がり、目頭が熱くなった。

 逞しい胸に頬を擦り寄せれば、大きな手の平で緩やかに髪を撫でてくれる。

 背に回された腕は、がっちりとした安定感。まるでおまえのいる場所はここだと示すかのように。


「顔を見せてくれ」


 抱擁が緩められたので、もぞっと身じろぎをして顔を上に向けた。

 降ってきそうなほど近くに紫の瞳があって、引き合うように視線が絡まる。


「ライズ様……」

「今日は、名を呼んでくれるのだな」

「今は……ふたりきり、なので」


 夢うつつのように呟くフランを、自信に満ちあふれた笑顔が見下ろしている。

 ライズは再び腕に力をこめて隙間なく抱きしめ直すと、フランの髪に頬を寄せて言った。


「いいから、ずっとそう呼べ。……命令だ」


 それはきっと、新たに与えられた特別な勲章。フランは素直に、こくりと頷いた。


 ぎゅっとしてから自然に身を離し、もう一度互いの瞳を覗き込んで、照れたような微笑みを交わす。

 ひとまず落ち着いてゆっくりしてほしいと部屋の中へ案内し、普段お気に入りにしているひとりがけのソファに腰かけてもらった。

 少しここで時を過ごしたらまた城に戻らねばならないと言うライズに、部屋に備えてあるティーセットを使って、温かい紅茶を振る舞うことにする。


 茶葉を蒸らしている間、急に現実感を見失い、そわそわしてしまう。

 会いたいと思っていた相手、それも皇帝であるライズが窓から現れるなんて、もしかしたら自分はいつの間にかベッドで寝ていて、夢でも見ているのかも。

 けれども、心を込めて淹れた紅茶をお盆に乗せて運んでいってもなお、その人は幻のように消えたりはせずにそこに居た。


「うん、うまいな」


 ティーカップの縁に口をつけ、頷くライズを見て、フランはほっとした。


「お口に合ってよかったです」


 祖国では専属侍女はつけられておらず、よく自分でお茶を淹れていたから、茶器の扱いは実は手慣れている。ライズは普段、クリムト以外の側仕えを寄せつけないというから、こうした面で自分も力になれるのではないかと自信になった。


 帰城したばかりで疲れているはずの彼を長く引き留めるわけにはいかないと思いつつも、一緒にいられる時間が楽しくてたまらない。離れていた間の出来事を語らいながら、浮き立つような時間を過ごした。

 舞い上がっていた気持ちが落ち着いてくると、ふと異変に気がついた。


「あの、ライズ様……。どこかお怪我をされていませんか?」

「ん?」


 意表を突かれたような表情を見て、確信した。嗅ぎ取ったのは、おそらくは血のにおい。彼はどこかに傷を負っているのではないか。

 そう尋ねると、ライズは苦笑しながら言った。


「おまえには隠せないな。だが、たいしたことはない」

「ダメです。見せてください」


 ぐいぐいと詰め寄るが、彼は困った顔をして答えを濁すばかりだ。

 埒が明かないので、すみませんと断って相手の上衣に手を伸ばし、彼の服をたくし上げた。抵抗は見せずに「おいおい」と苦笑いするライズの右脇腹には、矢を掠めたらしい新しい傷痕があった。


「やっぱり、お怪我をされて……」


 簡単な手当てはしたのだと思うが、見るからに最小限のもの。医務官には頼らず自ら施したのだろう。当ててあるガーゼには、赤い血が滲んでいた。


「奇襲を受けたときに、ちょっとな。早く片づけて城に戻らねばと、考え事をしていて……私もだいぶ腑抜けていたようだ」


 おそらくは、怪我をしたことを皆に隠していたに違いない。指揮官が傷を負っては、部下たちの士気が下がってしまうから。

 幸いにも化膿はしていないようだが、このままにはしておけない。


「ライズ様。少しの間、じっとしていてくださいね」


 出過ぎた真似をしているかもしれないが、まだ離れるわけにはいかないと身を乗り出す。

 体を屈めて覗き込み、汚れたガーゼを取り除くと、生々しい傷痕が目に入る。傷口に触れないよう、患部にそっと手をかざした。そして目を瞑り、集中する。


「なにをするつもりだ?」


 興味津々な様子で、ライズが尋ねてきた。

 フランは念じる方向を保ちながら答えた。


「痛みを和らげて……傷の治りを早めることができると思います。自分が怪我したとき、こうして手を当てて思いを込めると、そうなるので……」

「ほう……」


 ライズは感心したように相槌を打つと、体の力を抜く。おとなしく身を任せてくれるようだ。

 フランは心を無にして、マナのコントロールに努めた。

 体温が上がる。体の中から湧き出す力を、手の平から外へ出す。そして、ライズの体の細胞に働きかけて、組織を活性化させ、再生を促す――。


「……。……。……ふぅ」


 しばらくして息をついたとき、めまいがしてうつむいてしまうくらいには、心身ともに疲れ切っていた。

 それでもすぐに顔を上げ、傷の具合を確認するべく行動に移る。傷口は明らかに塞がりかけ、良好になったように思えた。


「どうですか?」

「痛みが消えている。すごいな……」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る