第27話 新たな皇妃候補(3)
逃げるようにホールを出て、ふらふらと廊下を歩いていると、背後から腕を引かれた。
振り向くと、頭の中をいっぱいに占領していたその人が、目の前に立っている。
「ラ……ライズ様? どうしてこちらに……」
「フラン。少し話そう」
こっちにと言われて、誘われるままついて行った。心に光が差したような心境になりながら、大きな背中を見つめる。
彼はどんな宴の席でも中心にいなくてはならない人だ。席をはずすことは難しいはずだが、会場を出るフランに気づき、わざわざ追いかけてきてくれたのだろうか。
途中、バルコニーへと出られるアーチ型の通路があり、そこから外に出た。余計な注目を避けるためだろう。
同階にいくつもあるバルコニーのひとつに、人影はなかった。
夜風を気持ちよく感じながら、柵のそばまで手を引かれ、歩いていく。突き当たりで足を止めたライズに従い、向き合って立った。
ふたりきりの改まった雰囲気に緊張が高まり、うつむいてしまう。
そんなフランへ、慈しむような声がかけられた。
「フラン。そのドレス、とてもよく似合っている。会場でも、愛らしく注目を集めていたから、すぐにわかったよ」
「えっ……。あ、ありがとうございます」
愛らしいだなんて、一番褒められたかった人からの嬉しい言葉をもらい、自然と顔がほころぶ。
照れながら視線を上げると、予想したよりも彼が近くにいた。びっくりして思わず身を引いたが、背中に柵が当たって、それ以上うしろに下がることはできない。
「なぜ逃げる? 久しぶりに会えたというのに」
「に、逃げているわけでは、ありませんが……」
ライズは自然な仕草で距離を詰めると、フランを挟むようにして両手を柵についた。そしてそのまま、気遣わしげな視線を向けてくる。
「顔色が悪いようだが……体調は変わりないか?」
ライズはそう言って首を傾げた。
心配をかけているのがわかり、ぎゅっと胸が切なくなる。
「私は大丈夫です……。少し人に酔ってしまったので」
するとふいに彼の手が動き、フランの頬に添えられた。
手袋に包まれた親指が、確かめるように輪郭をなぞる。頬が赤く染まり、心臓までもがドキドキし始める。
静かな夜、懐の中に囲われて、漂う空気はなんだか甘い。
間近で見上げる彼の瞳は、星が瞬く宵闇の空のように美しく、気高かった。
(……ライズ様……)
胸に熱いものが込み上げてくる。うわずる気持ちをどうにか静めようと、浅く呼吸を繰り返す。
頬に置かれていた指がすいと動いて、フランの髪をひと房、すくい取った。指に絡ませたそれを口元に持っていき、口づけながら言う。
「寂しい思いをさせてすまなかった。母上に睨まれながら無理を通すより、従っておいたほうがおまえのためになると思ったんだが……。離宮に戻り、苦労はしてないか?」
「は、はい。十分な生活をさせていただいております」
そう、きっと彼の言うとおり、きちんと分をわきまえることで皇太后の心証もよくなるはずだ。
ライズの前ではつい気が緩んでしまうが、態度や呼び方にも気をつけなくてはと、あえて敬称を口にし、語りかけた。
「あの……『陛下』も、執務等でご無理をされてはいませんか?」
すると、穏やかだった瞳が、急に不穏な色を帯びる。
「その呼び方――」
ライズの不満げな声に、失敗してしまったことを悟った。
「あ、あの……」
すると急に目の前に影が差しかかった。驚いて体を強ばらせ、目をぎゅっと瞑ったが、一拍ほど置いてから額に優しく触れたのは、温かくて柔らかい感触。
(えっ……?)
なにが起きたのかと慌てて目を見開くと、吐息を感じるほど近くにライズの顔があった。
どうやら額にキスされたらしいと思い至り、ぶわっと顔に熱が集まっていく。
少し低めの声で、彼が言う。
「また、元に戻すつもりか?」
寂しげに問われているのは呼び方のことだろうかと、沸騰した頭で必死に考える。
彼の尊い名を、口にし続けてもいいということだろうか。そんな特別が、自分に許されるのだろうか。
返事をしようにも言葉にならない。淡い期待ばかりがむくむくと膨れ上がる。
じっと見つめ合ったまま、時が止まったかのように動けない。吸い寄せられるように見上げているこちらの表情は、きっと恍惚としていることだろう。
なおもこちらの顔を見つめていた彼の長いまつげが、わずかに動いたのがわかった。
そっと顎に指が添えられて、無言のままの彼が身を屈める。
端正な顔が、ゆっくりと近づいてくる――。
(もしかして、唇にキスを……?)
心臓が、トクンと跳ねた。
目を閉じたほうがいいのかとか呼吸はどうするのかとか、未経験がゆえに迷いが生じる。それなのに頭の中は膨張したみたいに痺れて正常に働かない。できるのは、ただ恋に憧れ待ちわびていたその瞬間を、今か今かと待つことだけ。
高貴な唇との距離が、あと一センチ、ついには数ミリというところまで迫った、そのとき――。
「ライズお兄様」
どこからか鈴を転がすような声が響いて、彼が動きを止めた。
さっと身を引かれたのを感じて、フランの心は冷や水を浴びせられたように強ばった。昂っていた気持ちが、急転直下で冷めていくのがわかる。
ライズの背後に見えるアーチから、シルビア姫が姿を現した。
「こちらにいらっしゃったのですね。皇太后様がお探しです。すぐに戻ってくるようにと」
パーティー会場から消えた彼を、呼び戻しに来たらしい。
皇帝の顔に戻ったライズはちらりと後方を一瞥すると、少し考える様子を見せてから、フランを見つめ直した。
「……フラン。ひとりで戻れるか?」
「はい……。お気遣い、ありがとうございます」
小さく頷いて見上げると、ライズは返事の代わりにひとつ微笑んで、身を翻しバルコニーを出ていった。
ぽつんと取り残され、ぽっかりと胸に穴が開いた気がする。
彼を見送ったシルビア姫は、どうしてかその場にとどまっていた。
不思議に思っていると、彼女は流れるような動作でこちらに向き直り、フランの目をまっすぐに見つめながら声をかけてきた。
「シャムール王国のフラン王女ですね。お噂はかねがね伺っております」
帝国に来たばかりのシルビア姫が、どんな噂を耳にしたというのだろうか。困惑しつつ、敵意のない笑顔を向けたが、相手はにこりともしなかった。
「お兄様に取り入るため、古参の令嬢たちを罠にはめ、追い出したそうですね。それも正攻法ではなく、卑怯な方法を使ったとか……」
フランはぎょっとして息をのんだ。噂好きの貴族か、それとも離宮に残った令嬢たちの誰かが、誤った情報を与えたのだろうか。
「ち、違います。私はそんな……」
シルビア姫は、言い訳は結構とばかりに片手を上げて制した。
「もちろん、噂をそのまま信じるわけではありません。けれど、本当に皆が言うとおり、あなたが帝国とお兄様にとって害悪そのものであるのなら、わたくしは容赦いたしません」
聖女のような清らかな女性から引導を渡されて、金縛りのように固まってしまう。
シルビア姫はフランに背を向けると、止めを刺すかのように鋭い言葉を残した。
「それに……どちらにせよライズお兄様は、あなたを選ばないでしょう。あなたは皇妃になる器ではない。初対面のわたくしから見ても、はっきりとわかります」
(えっ……?)
反論もできず、呆然と立ち尽くす。
至らない点なら、いくらでも思い浮かぶ。フランとシルビア姫の格の違い、皇太后や周りの人々からの人望の差、ひょっとしたらどうしようもできない素質もあるかもしれない。
けれど、そうわかってはいても、こうもはっきりと突きつけられては心が傷つくし、ショックだ。どうしたらいいのか、救いはあるのだろうかと途方に暮れてしまう。
だってもう、いくら自分の立場を理解していても、おとなしく諦めることができないくらいライズを好きになってしまっていたから。彼の声が好きで、笑顔が好きで、そばにいたいと願ってやまないのだ。
頭の中は真っ白で、考えがまとまらない。全身が氷水に浸かったように冷えていく。
皇妃の器とは、どうしたら身に着けられるものなのだろう。姫が立ち去っていったあとも、ずっとそのことに気を奪われ、心ここにあらずの状態が続いた。帰路の記憶すら曖昧で、どうやって離宮に戻ったかも思い出せないほどに。
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