第21話 ざわめく帝国と乙女心(2)

「サリー。あの杯の中身って……お酒かしら?」

「はい。地元の銘柄で原材料にもこだわった、おいしいお酒らしいですよ」


 酒蔵の説明だとか、神殿に奉納して三日間清めたものだとか、あとに続く仔細は耳に入らなくなった。漂ってくる酒のまろやかな匂いに、不穏なものが混じっているように感じられたからだ。


 盆を運ぶ侍女は視線を伏せ、粛々と任務をこなそうとしている。杯の中身については気にしていないようだ。

 それもそのはず、風に乗った匂いの成分なんて、獣人であるフランの鼻だからこそ嗅ぎ取れたようなもの。しかも感覚的な、勘みたいなものだ。


 自信はなかった。まったく別のなにかが香りに干渉した可能性もあるが、嫌な予感は収まらない。

 だが今は重要な国の儀式の最中だ。大勢の観客も見ている。勘違いで式典をぶち壊しにしてしまったら、ただでは済まないだろう。

 迷っているうちに、杯を乗せた盆はライズの前へと到達してしまった。

 首のうしろが、チリチリする。


(どうしよう……)

 ライズが、杯の取っ手に手を伸ばす。

 もう黙ってはいられず、床を蹴るように立ち上がり、駆けだした。


「陛下っ……! お待ちください、その杯は……」


 最後まで言い終える前に、腕を掴まれて地面に倒されてしまった。周囲に控えていた警備兵によって取り押さえられたのだ。

 硬い地面に押しつけられ、打ちつけたところが痛くて涙が滲む。

 それでも顔を上げ、ライズの無事を確かめようと視線を向けると、彼は杯には手を触れず、目を見開いてこちらを見つめていた。


(よかった、間に合った……)


 気を抜くのは早いとばかりに、頭のうしろから警備兵の怒声が降ってくる。


「式典の邪魔をする不届き者め! すぐに引っ立てて取り調べを――」

「いや、待て」


 数メートル離れた位置からでもよく通る声で、ライズが警備兵を制止する。

 その間、運び手の侍女は、静かにその場から離れようとしていた。騒動に怯えて下がるという一連の動きに怪しいところは見られなかったが、ライズは素早く手を伸ばし、侍女の腕を掴んだ。


「えっ……?」

 驚く侍女が持つ盆の上の杯を取り上げると、すぐそばの地面で鳥が食べていた撒き餌に液体を振りまく。

 すると、乾杯の演出と同時に元気に飛び立つはずだった白い鳥たちが、バタバタと倒れ始めた。


「毒だな。この杯には、毒が仕込まれている。……侍女よ。今、勝手に持ち場を離れようとしたのはなぜだ?」


 その途端、無力に見えた侍女は別人のように表情を歪め、激しい抵抗を見せた。

 杯の中身が毒と知っていて行動に及んでいたらしい彼女は、流れるように懐から光るものを取り出し構えると、至近距離からターゲットであるライズに襲いかかる。

 けれどもライズは刺客である侍女の反撃を許さず、淡々と相手の動きを封じ、気絶させると、駆けつけてきた兵士に身柄を引き渡した。


 場が騒然とする中、ぱっと振り返ったライズは足早にフランの元へと歩み寄る。

 そうして、地面にへたりこんだままでいたフランに、手を差し伸べた。


「フラン――よくやった」


(……っ)

 ふわりと目元を和らげた、陽光のように温かい眼差し。その眩しい笑顔に、射抜かれたように動けなくなってしまった。


「どうした、怪我をしたか?」


 ライズが怪訝な顔をしたので、フランは我に返った。慌てて彼の手を借り、立ち上がる。


「あっ……いえ、陛下がご無事でよかっ……、きゃあっ!」


 ライズは目の前でその長身を屈めたと思うと、フランの膝の裏と背中に手を回し、軽々と横抱きに抱え上げた。

 そのままステージの中央へと歩いて戻ると、待っていたギャラリーへ高らかに宣言する。


「皆の者、待たせたな。――我がヴォルカノ帝国に栄光あれ!」


 中断されていた式典は皇帝の宣言により大歓声をもって幕を閉じ、フランは至高の腕に抱きかかえられたまま、聴衆に見送られたのだった。



 城に戻り少し落ち着いたあと、ライズは奥まった一室にフランを連れていき、怪我の有無を確認した。フランを椅子に腰かけさせ、自分は傍らについて、それこそ隅々まで丁寧にあらためる。

 そうして見つけた手の平の小さな擦り傷を凝視して、ライズは眉間に深い皺を寄せた。


「擦りむいているな……それに打ち身も」

「あの、陛下。私は大丈夫です。傷の治りは早いほうなので……」


 騒ぐほどの傷ではないと、フランは首を振るが――。


「……すまなかった」


 握られている手を引っ込めようとしたが、放してはくれない。そのまま彼のほうへ引かれたと思うと、甲の上に唇を押し当てられて――フランの目がまん丸になった。

 苦痛が飛んでいくようにとのおまじないだろうか。だとすれば効果は抜群だ。頬が熱くなり、痛みを感じるどころではなくなったから。


 帝国教育の賜物か、持ち前のセンスなのか――ライズが突然見せる所作は紳士的だが大胆すぎて、いちいちときめいてしまう。むしろ公的な場ではいつも無愛想で、クールな表情を浮かべているのに。


「陛下、フラン様! ご無事ですか」


 素早いノックのあと、クリムトが部屋に入ってきた。

 側近の彼があの場にいれば侍女の不審な行動も事前に見抜いていただろうが、あいにく別の用事を言いつけられて、会場とは別の場所に赴いていたらしい。


「フラン様、陛下を守ってくださり、ありがとうございます。負傷されたのですか?」

「いえ、かすり傷なので……。それに、先ほども陛下に申し上げましたが、私、傷が治るのが早いんです」


 ほら、とわざと明るい声を出し、手の平をふたりに見せる。傷はもう治りかけていた。

 ライズは驚いたように目を見張り、クリムトは感心したように頷いている。


「本当にそのようですね……。これもフラン様の持つマナの力でしょうか」


 今まではただの体質だと思っていたが、クリムトの言うとおりなのだろう。不気味だとそしられていた能力が、彼らの前では自然に受け入れてもらえてありがたい。

 ライズはほっとした表情を見せながらも、納得はしていないという様子でぼやいた。


「だとしても無理はするな。問答無用で兵に斬られていたかもしれないんだぞ」


 心配してくれているとわかり、ことさら胸が熱くなる。


「かえってご心配をおかけし、申し訳ありません。あの杯は――やはり毒だったのですね」


 すでにある程度、事情を確認してから来たであろうクリムトが頷いた。


「陛下は毒に耐性をつけるため、普段から少しずつお取りになっておられますが、今回の毒をもしお飲みになっていたら、無事ではすまなかったでしょう」


 暗殺防止のための対策だというが、フランはゾッとした。

 皇帝という権威の大きさに比例する、危険と隣り合わせの立場。その肩にかかる重圧と宿命を思い、心が苦しくなる。


「いずれにしても今回はおまえに命を救われたようだ」


 ライズは小さく微笑んで、フランに穏やかな視線を投げた。


「そんなに心配そうな顔をしなくてもいい。……おまえは本当に可愛いな」


(えっ……可愛い……? 陛下が私のことを……?)


 優しげな瞳を惚けたように見上げていると、側近がゴホンと咳払いをして、気持ちの切り替えを促した。


「お取込み中、申し訳ありませんが――どうやら来客のようです」

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