第18話 秘密のレッスン(4)

 気づいたとき、あたりにはなにもなくなっていた。心の中の不安を表すように、真っ暗な闇が広がっている。

 寂しくて、心が痛くて泣きたくなった――そのとき。


「――ラン。……フラン」


 欲しかった声を耳にして、フランはハッと目を開いた。

 白いシャツを身につけてリラックスした格好のライズが、ベッドの縁に腰かけ、シーツの上に片手をついて、こちらを覗き込んでいる。


「どうした? うなされていたようだが」

「も、申し訳ありませんっ。お待ち申し上げていたのですが、いつの間にか眠ってしまい……」


 目覚めの悪い夢だった。けれど夢でよかったと安堵する。ただ先に寝てしまったことを申し訳なく思い慌てていると、特に機嫌を損ねた様子もないライズが首を傾げた。


「私を待っていたのか?」

「は、はい……」

「そうか。実は私も、楽しみにしていた」

「……っ」


 どくん、と心臓が跳ね上がる。寝起きのぼんやりした頭が、一気に覚醒した。

 普段シャープに引き締まっている彼の目元は、今は甘やかに細められて優しげだ。

 大きなベッドの上で、ライズとふたりきり。

 途端に状況が頭に入ってきて、顔にぶわっと血が上る。鼓動はドクドクうるさくて、頭の中は真っ白。気の利いた言葉も行動もとれやしない。

 すると彼の手がすっと伸びてきて、こちらの頬に添えられた。びくりと体を震わせる。

 今の今まで半信半疑だったが――彼は「乗り気」なのだと、フランは察した。サリーが言っていた「特別な夜」が幕を開けるのだ。


(ついに、この身を捧げるときがきたのね……)


 覚悟していたこととはいえ、未知への恐怖が上回っている。フランはベッドに横たわったまま、胸の前でぎゅっとこぶしを握った。

 ライズが身を乗り出し、フランの体の横に腕を突き立ててきた。沈んだマットレスがぎしりと音を立てる。ベッドの上で押し倒されている格好だ。

 彼の顔が、ゆっくりと下りてくる。


「準備はいいか……?」


 耳の近くで囁かれてぞわぞわする。ごくりと喉が鳴った。

 彼の顔が、さらに近づいて――フランは細かく震えながらも、こくりと頷いた。


       *


「陛下っ……もう、もう無理です……!」

「まだまだこれからだろう。夜は長いんだ、焦ることはない」


 フランは、怖れを抱きながらも惹かれつつある皇帝の腕の中で、存分に可愛がられ――もとい、頭を撫で繰り回されていた。

 ライズはベッドの上に座して、ヘッドボードに背を寄りかからせている。

 そんな彼の膝の上に座らせられ、背後から抱きしめられているフランの姿は、熱烈な寵愛を受けているようにも見えるのだが――彼の意図は、決して色めいた意味ではなかった。

 つまるところ、また変身して獣の姿になれと言うのだ。


(覚悟を決めたのに……)


 皇帝に対して不敬だとは思うが、フランはちょっとだけむくれている。

 急に黙り込んだフランの様子が気になったのか、ライズは囲っていた腕を少し緩め、体の位置をずらしてこちらの顔を覗き込んできた。

 吐息がかかるほど間近に彼の秀麗な顔があって、うっと喉が詰まる。これはこれで心臓が持たない。刺激が強すぎて目の前がチカチカする。


「おかしいな。この間はすぐに変身したのに……。まさか慣れたのか?」


(あまりのことに呆然として、そんな境地は吹っ飛んでしまったんです……!)


 もう勘弁してほしいと懇願する声を無情に聞き流すライズ。離れようとするフランの体を引き戻し、耳元に顔を寄せてくる。

 耳元にかかる吐息。薄い夜着を通して伝わってくる体温と体格差。逞しい胸板から押し寄せる圧に、これはなんの拷問だろうと涙目になった。


「フラン、おまえの能力は貴重だ。だから自在に使いこなせるようになってほしい。だが現状、それが難しいことはわかっている。よって特訓する必要がある。わかるな?」


 至って真面目な顔で言われても、こんな姿勢で語ることではない。


「昨夜のことを思い出せ。同じ状況を繰り返せば、インプットされるのではないか?」

「いえ、なにも同じ状況でなくとも……」


 反論しようとして振り返り彼の表情を見たとき、フランは悟った。ライズはこの状況を楽しんでいると。

 紫の瞳が星空のようにきらきらと輝いて――陛下、いったいなにを期待されているのですか。


(困ったわ……こんなことになるなんて……)


 やがてそんな攻防にも飽きたのか、声のトーンを下げてライズは言った。


「さて、どうしたものか……。そうだな、これならどうだ?」

「はい?」


 今度はなにを、と思った矢先、大きな手の平によって顔の位置を固定され、耳にふぅっと息を吹きかけられた。


「~~~~~~~~!!」


 吐息にくすぐられ、ぞわぞわと全身の毛が逆立つような心地がして――。


 ――ぽんっ。


 フランは敗北した。


「フフフ。わかってきたぞ」

「……」


 勝ち誇ったように言う彼に抱き上げられて、ピンクの獣は恨めしげな視線を向けた。不敬だろうが構わない。少しくらい失礼な態度をとっても問題はないだろう。

 フランはひとつ確信していた。この国の皇帝が動物好きであることはもう間違いない。


「さぁ、いいものを持ってきたんだ」


 どこから取り出したのか、彼の手に握られているのは、しなる棒の先にふさふさがついた猫じゃらしだ。

 ライズは別人のようにステキな笑顔を浮かべている。


(陛下……私は猫ではありません)


 そう思っているのに、血が騒ぎ、体が疼いてしまうのはなぜなのか。

 目の端で、パタパタと動くものが……、あぁっ、勝手に身体が動いてしまう!


「どこを見ている? さぁ、こっちだ……。おっと、なかなかいい動きをするな」


 互いに遊び疲れて眠るまで、秘密の特訓(?)は続いたのだった。

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