第17話 秘密のレッスン(3)

 部屋に戻ると、サリーがアフタヌーンティーの用意を調えてくれていた。


「陛下の御前に出ると、やっぱり緊張しますよね。お気持ちを休めてください」


 りんごの香りのする紅茶に、焼きたてのスコーン。たっぷりとしたクロテッドクリームをつけて食べるのが、近頃の令嬢界隈で流行っているらしい。


「わぁ、嬉しい! ありがとう、サリー」


 気遣いを嬉しく思いながら、温かくてサクサクとした食感を気兼ねなく楽しむ。

 なんて贅沢で平和なひとときなのだろう。

 元より甘い物が大好きなフランは、ひと口ごとに幸せを噛みしめた。――たとえそれが嵐の前の静けさだとしても。


(令嬢といえば……)


 ふと冷静になって、離宮の姫に義務づけられた日課のことを思い出した。

 今朝の朝礼はどうすることもできずに欠席してしまったが、まずかっただろうか。

 今夜の夕礼には出るべきかサリーに尋ねると、上司を通して確認してくれるという。

 結果、ライズからは「出なくて構わない」との返事があったので、それならばと夕礼も失礼することにした。


 内心では少しほっとしている。花離宮の姫たちの前にどんな顔をして出ていけばいいのかわからなかったから。

 姿を消したフランが皇妃の部屋に移ったことは、いずれ令嬢たちの耳にも入るだろう。それを知ったカーネリアたちがどんな行動に出るのか、想像するだけで震えが走る。

 けれども今さら辞退して離宮に戻っても、結果は同じだ。それに一生に一度の贅沢を味わえるというなら、浸らなければ損。割り切ろうと心に決める。


 夕方にかけてはライズから呼び出されることもなく、書棚にある本を読んだりしながら時間を過ごした。

 棚にみっちりと詰められているタイトルは、皇妃教育のための教科書だ。どれも難しそうな内容だったが、その中から読みやすそうなものを手に取った。

 中でもヴォルカノ帝国建国の祖、初代皇帝デリックの英雄譚が綴られた帝国史は、挿絵もあり興味を引かれて、読みふけっているうちに窓の外には夜の帳が下りていた。


 サリーが運んできてくれた贅沢な晩餐を部屋で済ませ、食後のコーヒーを楽しんでいると――。


「今夜が初夜になるかもしれません。油断せずに準備いたしましょう」

「ゴホッ……!」


 不意打ちに、口に含んでいたものを吹き出しそうになった。

 涙目になって咳き込むと、「大丈夫ですか」と背中をさすられる。だが言った本人は至って真面目で、こちらの聞き間違いでもないようだ。

 このあと入浴に移り、念入りに清めて磨き上げ、仕上げにはお肌がすべすべになるようクリームを塗り込んでくれるつもりらしい。


(しょ、初夜だなんて、結婚してもいないのに。でも、そういうものなのかしら……。もし陛下が望まれたなら、従わなければ……よね?)


 男女のことはもちろん初めてであるし、詳しくはない。けれど書物などから基礎的な知識は少しは得ている……と思う。

 これは使命だと、愛妾としての勤めなのだと思おうとするが、簡単に片づけられるものではなかった。フランは幼い頃からずっと、恋愛結婚を夢見てきたのだ。

 顔を強ばらせるフランを励まし盛り立てながら、入浴の手伝いとスキンケア、念入りなマッサージを施して――完璧な仕事をしたと満足げな様子の侍女は、いい笑顔を浮かべて下がっていった。「明日、詳しく聞かせてくださいね!」という一言を残して。


(もう、サリーったら……)


 おかげで髪はつやつや、肌はしっとり滑らかで、どこもかしこも触り心地がいい。

 破廉恥なネグリジェだけはどうしても受けつけられず、品のいいシルクの夜着を身に着けて、薄手のガウンを肩にかける。

 照明を落とし、キャンドルのみを灯した寝室。いい匂いのするお香が焚かれて、それだけでも十分、大人のムードが漂っている気がする。


(陛下は本当に、こちらへいらっしゃるのかしら……)


 皇帝が現れるかもしれない中扉を、じっと見つめる。

 皇妃の部屋の片側の壁には、廊下に出るものとは別の出入り口がある。その扉の奥は、皇帝の部屋に繋がっているのだ。

 もちろん普段はあちら側から鍵がかけられていて、皇妃の部屋側から立ち入ることは許されていない。ドキドキしながら、相手がやってくるのを待つしかない。


 けれども、待てど暮らせどノックの音は響かなくて。

 今日は慣れないことばかりで、疲労も溜まっていた。ひとりになった途端、入浴とマッサージで血行がよくなった体に睡魔が押し寄せてくる。

 ベッドに腰かけているうちにうとうとしはじめ、いつしか大きなクッションに身を埋め、深い眠りについていた。



 ――懐かしい潮風。広大な海と、眩しい日差し。


 視界が開かれるように、目の前に雄大な景色が広がった。

 体は浮遊感に包まれ、とある島の上空を漂っている。実体がないとでもいうのだろうか。夢でも見ているような不思議な感覚。そうだ、きっと夢を見ているのだ。


 シャムール島の景色に似ているけれど、中央に建っているはずのお城は見当たらない。代わりに見慣れぬ一隻のガレオン船が沖に停泊しているのが見える。

 島の浜辺には、あの船で海を渡ってきたと思われる青年がひとり、砂の上に直接腰を下ろし、くつろいでいた。

 日に焼けた小麦色の肌。金色の髪が風になびいてきれいだ。冒険家のような格好も、荒々しくて魅力的。


(陛下……?)


 青年はライズによく似ていた。けれど本人のようで少し違う。フランの知る人よりも青年のほうが大柄で骨太だ。いったい何者なのだろう。

 彼は、ピンク色の毛並みの小動物を膝の上に乗せていた。長くて節ばった指が、獣の首根っこのあたりを愛おしそうに撫でている。


『本当に可愛いな……おまえ、俺のところに来るか?』

『キュウン……』


 獣は媚びるように鳴いて、彼の手に自ら頬を擦り寄せた。

 毛の色や、瞳の色、それに耳が大きいといった特徴はフランによく似ているが、やっぱり別人だ。顔立ちも体つきも微妙に異なっている。

 けれどその仲睦まじい様子を見ていたら、モヤモヤしたものが胸にせり上がってきた。あの腕に抱かれているのが自分ではないということが、どうしてか悔しいような、切ないような――。

 青年が獣の脇の下に手を入れて、顔の前へと持ち上げた。


『そうだな……おまえの名前は、フランにしよう。一生大切にすると誓うよ、フラン――』


 熱っぽく囁いた彼は、ピンクの獣の鼻先を、己の側へと近づけていく。

 キスを、するつもりだろうか。その考えに至ったとき、思わず叫んだ。


(陛下! フランは、私です! 私はここにいます!)


 必死の声は届かない。それどころか体が引き戻されるようにうしろに引っ張られて、ふたりから離されていく――。

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