第15話 秘密のレッスン(1)

 朝の陽光を肌で感じて、眠りの淵から意識が浮上していく。

 ほどよく弾力のあるベッドスプリング。滑らかな手触りのシーツと、羽根のように軽い毛布。枕は少し硬いけれど、温かくしっかりしていて気持ちがいい。


(朝……起きないと)

 まだ気だるさの残る瞼をゆっくりと持ち上げた。すると、


「……えっ?」


 目の前に誰かが横たわっている。

 それも体温を感じるくらい間近に寄り添って、おまけにフランは相手の腕を枕にしていたらしい。


「え? え?」


 寝乱れたナイトガウンの襟元から、男性の逞しい鎖骨と喉のラインを見てとって、フランはカァッと頬を熱くした。

 硬直したまま、いったいなにが起きているのかと目を白黒させる。

 そっと視線を上にずらせば、彫像のように芸術的な、高貴な男性の顔が目に飛び込んできた。


「へ……陛下!?」

「ん……」


 眠りを邪魔され、うるさそうに眉間の皺を深くした皇帝ライズの、金色の長いまつげがかすかに揺れる。


(うそっ!? 陛下と一緒に眠っていたなんて、どうして……)


 紫の瞳は開かれずに、再びスゥ、と規則的な寝息が聞こえはじめた。

 ほっと胸を撫で下ろしながら、高鳴ったままの心臓を静めようと躍起になる。


 清々しい朝日に照らされ、いっそう眩しく見える皇帝の寝姿。なんだかいつもの毅然とした姿とは違い、無防備で穏やかに見えた。

 思わず見惚れかけたが、そんなことをしている場合ではない。

 周囲に視線を走らせると、ここは見知らぬ部屋だ。

 豪奢な天蓋つきのベッドを置いても余りある、ゆったりとした空間に華やかで重厚感のある最高級のインテリア。どう見ても、フランが立ち入っていい場所ではない。


(もしかして、ここは陛下のお部屋……?)


 なぜ、ライズとこうした状況になっているのだろうと、混乱する頭に鞭を打つ。

 夢だかなんだか知らないが、驚天動地の緊急事態だ。皇帝の寝所に忍び込んだなどと知られたら、即刻、極刑に処されてしまう。


 急いでこの場を離れなければと身を引こうとしたとき、腰のあたりに回された腕に毛布ごと体を引き寄せられた。枕代わりに敷いていたほうの腕で頭を抱え込まれ、身動きが取れなくなる。


「やっ……!?」

「うーん……」


 より強固に抱き込まれてしまった。

 彼が目を覚ます様子はなかったが、いっそうまずい状況。どうにか逃れようと試みるが、がっちりとした腕は緩まない。

 おまけにベッドの中で体を動かしたことで、フランはある違和感を感じ取った。


(なんだか、体がスースーするような……)


 その感覚に引きずられるように、昨夜の記憶がよみがえってくる。

 離宮のサロンでライズとふたりきりで話し、彼が見ている前で獣化してしまったこと。そしてそのまま抱き上げられ、城へ運ばれるうちに眠ってしまったことを――。


 変身したということは、体のサイズが変わることによる、物理的な問題も発生したということだ。

 まさかと思いながら、抱きしめられた姿勢の中、身じろぎをして状態を確認した。


 ――着衣はなかった。


(いやぁぁぁぁぁ!!)


 裸を見られただろうか。それよりももっと考えが及ばないような事態になっていたかもしれない。羞恥のあまり、泣きたくなってくる。

 震えが伝わったのか、後頭部に添えられていたライズの手が、すっと髪を撫でるように動いた。

 両の瞼が薄く開いて、宝石のような瞳が顔を出す。まだぼんやりとしながらも、目の前にあるものを確かめるように、ぱちぱちと瞬いている。


(陛下が……起きちゃう……)


 視線が合ったとき、フランの心は弾けて、叫び声を上げてしまった。


「きゃああああ!! こちらを見ないでくださいっ……」


 耳元で叫ばれて思いきり顔をしかめたライズは、すぐに拘束を解いて背を向けた。


「お、大きな声を出してしまい、申し訳ありません……!」


 早口に謝りながら、そそくさと毛布をかき寄せて体に巻きつける。

 むくりと上半身を起こした彼は、ちらりとこちらを見て、ひとりごとのように呟いた。


「そうか、昨夜はあのまま……」


(あのまま!? 果たして、あのままとは……!?)


 絨毯に足を下ろし、ベッドサイドに腰かけたライズは落ち着いた様子で身だしなみを整えながら、言葉を続けた。


「なにもしていない。昨夜、運んできたときは、獣の姿だったからな」


 そうだった。知られたくなかった獣人の正体を、よりによって皇帝である彼に暴かれてしまったのだ。

 フランは悄然としてうつむいた。

 完全な人でもなく、獣でもない。そんな中途半端な存在であることを隠して近づいた自分は、きっと重い罰を受けることになるのだろう。


「どうか、お許しください……」

「なにがだ?」


 だけど意外にも、返ってきたのは軽い問いかけの声だった。

 立ち上がったライズはこちらの格好を気にしてか、振り返らずに言葉を投げた。


「侍女をよこすから、着替えて朝食をとれ」

「あ……ありがとうございます。あの、なにか着るものをお借りできれば、離宮に戻って……」

「戻らなくていい。今日からこの部屋を使え。私の部屋と隣接しているから、なにかあれば声をかけてくれ」

「えっ?」


 思わず大きな声で聞き返してしまう。


(陛下の部屋の隣って……それは将来、皇妃となるお方のための部屋なのでは……?)


 動揺が伝わったのか、ふと空気が緩み、からかうような声が降ってきた。


「おまえとは、じっくり向き合う必要がありそうだからな」


 言葉に甘さのようなものを感じて、鼓動が早くなる。

 そうして戸惑っている間に、彼は速やかに部屋を出ていってしまった。

 ろくな説明もなく取り残されて、目まぐるしい状況の変化に頭がついていかない。


(どういう意味……? 私はこれから、どうなるの……?)


 ここへ来た本来の使命を思えば、答えは明白だった。母が言っていたように、気まぐれに手折られる愛人にされるのだ。

 皇妃として見初められたなんて、そんなうまい話があるわけがないから、おそらくその程度の扱いに違いない。しかし、ライズは愛人を作って遊ぶような、浮ついた人ではないと思っていたのに――。

 どうしてか胸の奥がツキンと痛んだが、がっかりするのはお門違いだ。


(覚悟を決めなくてはいけないわ……)


 ひとりで寝るには大きすぎる豪華なベッドの真ん中で、フランはこくりと喉を鳴らした。

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