第13話 フランの秘密(2)
あっと思ったときには、階段から足を踏みはずしていた。
視界に映るのは令嬢たちの酷薄な笑み。このまま転落すると覚悟した、そのとき。
逞しい腕が背中に回され、大きな胸に抱きとめられた。
不安定な姿勢のまま、なにが起きたのかと首を回して見ると、皇帝ライズが立っている。
「陛下……? ど、どうしてこちらに……?」
ライズはフランの体を支えながら、険しい顔で言った。
「何事だ? 騒々しい」
彼がじろりと階上に向けて視線を投げたが、そのときにはすでに令嬢たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ去っていた。新入りを寄ってたかっていじめていたと、悪いイメージがつくことを恐れたのだろう。
引き際の早さに呆気に取られつつ、いつまでも皇帝に寄りかかっているわけにはいかないと急いで姿勢を立て直す。するとそのまま二階の安全な場所までエスコートされたので、素直に従った。
心を落ち着けるよう努力しながら、ライズに向き直って頭を下げる。
「危ないところを助けていただき、ありがとうございました。……花離宮になにかご用事でしょうか?」
「あぁ。実は猫を探していて……」
ライズが不自然に言葉を切ったので、不思議に思い、顔を上げた。
彼の視線はフランの頭頂部に向けられている。切れ長の瞳は、なにかに驚いたように見開かれていた。
まさかと背筋が凍ると同時に、彼が距離を詰めてきた。
「へ、陛下……?」
紫の視線は、まずフランの金色の瞳をじっと覗き込み、それから再びフランの頭の上へと流れて、なにかを観察している。
おもむろに左手が伸びてきたと思うと、ふわりと頭の上に乗せられた。
――モフッ。
「……あっ!」
悲鳴ともつかない声が出てしまう。
この感覚。自分からは見えなくとも、もう疑いようもない。持ち前のケモ耳が、飛び出してしまったのだ。
無意識に隠そうと手が動いたが、すぐにその手を掴まれて阻止されてしまう。
動けずにいるフランを、鋭い視線が見下ろした。
「――おまえには、詳しく話を聞く必要がありそうだ」
*
フランは皇帝に連れられ、人払いをしたサロンに押し込められた。
いくつかある椅子のひとつに腰かけたライズ。その対面にある席に浅く着席したフランは、ガチガチに身を凍らせている。
今からどんな尋問をされるのだろう。洗いざらい告白させられ、その末には、無粋な正体を隠していたことを、咎められるのかもしれない。
ふたりきりの空間は広いようで狭くて、緊張感に押し潰されそうだ。許されるならば今すぐにでも逃げだしたかったが、それは叶わない。
頭上では、髪の間から突き出した三角の耳が、ぷるぷると震えている。ドレスに隠れた尻尾は恐ろしさのあまり縮こまっているが、まだ引っ込んでくれる気配はない。
焦れるような観察のあと、重みのある口元が開いて、問いかけられた。
「……おまえは獣人の能力を持ち合わせているのか? 絶滅に近いと聞いていたが」
「は、はい……。国の皆は普通の人間ですが、私は先祖返りと呼ばれています」
「私が尋ねた聖獣の伝承については?」
「申し訳ありません。それについては、本当に詳しくないのです……」
単刀直入にぶつけられる質問に、甘さはない。やはり彼は、怒っているのだ。
「その言葉が真実かどうかは、今後、調べさせてもらうことにするが……」
ライズが立ち上がり、こちらに近づいてくるとわかって、フランの心臓が大きく跳ね上がった。
目の前に来た彼は、フランの座る椅子の肘かけにそれぞれ手を置き、覆い被さるようにして身を屈めてくる。その圧迫感に耐え切れず、目をぎゅっと瞑って肩を縮こまらせた。
叩かれるのかもしれないという考えが頭をよぎったが、訪れたのは柔らかな接触。
そっと壊れ物を扱うかのように、髪を――柔毛に包まれた耳を撫でられていた。
「陛下? あの……」
――さわさわ。こしこし……。
モフモフの毛並みをなめすかのように、大きな手がゆっくりと前後する。かと思えば軽くつまむように三角耳を挟んで、形や感触を確かめるように動いたりもする。
硬い指から体温が伝わってきて、ぴりっと首筋が強ばった。頭の中に火花が散るようで、落ち着かない気持ちになってくる。
撫で方は、痛くはない。むしろ心地いいけれど、なんだかむずむずするし、相手の意図がわからないから不安でたまらない。我慢の限界を超え、声を上げるのに一分と持たなかった。
「陛下……。あのっ……く、くすぐったいのですが……!」
涙目で見上げると、いつもとは違う表情のライズと目が合う。
「ん? そうか」
紫の瞳は大きく見開かれ、普段は引き締められている唇がわずかに開いている。
明らかに、興味津々といった表情。しかも、ちょっぴり楽しそう?
そのままじっと見つめられて、どうしたらいいかわからなくなってしまう。
「……おまえ、あのときの猫か?」
「えっ……? ええと、その……」
正確にいえば猫ではないし、正直に正体を明かしてもよいものだろうか。
視線を揺らして口をもごもごさせていると、注目の的がフランの手元へと移った。
「それは、私が迷子の猫にやったものだ」
知らず握りしめたままになっていたハンカチ。もう言い逃れはできそうにない。
「も、申し訳ありません……! けして陛下を騙そうと思ったわけでは……」
半泣きになって答えると、納得したような呟きが耳に届く。
「驚いたな……。獣人というのは半獣の姿になるだけでなく、完全な獣にもなれるのか」
彼は目の前に立ったまま、動きを止めてなにやら考え込んでいる。
(怒っては、いらっしゃらない……?)
圧が弱まったので、少しだけ肩の力を抜いた。
すると今度は、長い指で顎をすくわれ、上を向かせられる。
至近距離からじっくりと見つめられて、されるがままのこちらは、身も心も透かされている気分だ。
「もう一度、あの姿が見たい。変身してみてくれないか」
唐突にそんな言葉を落とされて、呼吸が止まりかけた。凍りついたように固まったあと、ドッと全身から汗が噴き出す。
皇帝の命令に逆らえる者などいないというのに、その立場にいる張本人が急になにを言いだすのか。戯れのように望まれても、フランの能力は中途半端で、自在に発揮することはできないのだ。
そのことを説明すればいいのだが、頭の中は真っ白になってしまい、心も体も正常に動作してはくれない。青ざめて口をはくはくと動かしていると、彼がわずかに首を傾げ、ブロンドの前髪がさらりと揺れた。
見つめてくる紫の瞳はきらきらと輝いて、なにかを期待しているようにも見える。
(どうしよう。無理なのに。どうしたらいいの……)
脳が焼き切れそうなほど悩み、目を回しそうになっていると、
「どうした? 早くしてくれ」
「は、あの……その……」
「変身は、自由にはならないのか?」
察してくれたことに感謝し、こくこくと頷く。
理知的な彼は、そのことで怒りだしたりはしなかった。けれども、
「……ふむ。それなら……」
ライズが再び上半身を屈めてきて、迫力が押し迫った。
驚いてうしろに身を引こうとしたが、椅子の背もたれに阻まれてしまう。さらには後頭部に手が回され、頭を抱き寄せられて、鼓動がばっくんと跳ね上がった。
「!?!?!?」
目の前には高貴な衣装に包まれた逞しい胸。視界のすべてが彼で覆い尽くされている。
否応なく胸元に頬を密着させたフランの頭の上に、皇帝が顔を近づける。そしてモフモフの耳に、その高い鼻先を寄せてきた。
――モフッ。……すぅー……。
「……おまえ、いい匂いがするな……」
(嘘でしょ……)
吸われている。いやまさか。いったい何が起こっているのだろう。瞬きも忘れて、信じられない事象をただ受け流すしかない。否、受け流せない。
かろうじて保っていた心の琴線がぷつりと切れて――次の瞬間、フランは奇しくも皇帝が望んだ姿に変貌を遂げていた。
縮んでドレスに埋もれた小さな獣は、すぐに掘り起こされ、抱き上げられる。
「……なるほど。能力は不安定なのか」
憔悴しきった身体には、もはや頷く力も抵抗する力も残されてはいない。
皇帝はフランをしっかりと抱え直し、満足げな表情を浮かべて、離宮をあとにした。
温かな懐の中で揺られ、薄らぐ意識の中、フランは思った。花離宮は大騒ぎになるだろう。皇帝の来訪後、ひとりの王女が姿を消し、おまけに脱ぎ捨てられたドレスがその場に残されていたのだから――。
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