第12話 フランの秘密(1)

 来たときと同じく庭の木を伝って窓から入り、花離宮にある自分の部屋へと帰着する。それから間もなく変身が解けて、人間の姿を取り戻した。

 ほどよい疲れと、満腹感に包まれて……。

 その日の夜は、満ち足りた気持ちで眠りにつくことができた。


 あれから数日が経ち――。

 劇的な変化はなくとも、どうにか無難に過ごすことができている。今日もまた、代わり映えのしない夕礼に参列して、部屋に戻ってきたところだ。

 このあとは、部屋つきの風呂で湯あみをすることくらいしか、やることがない。退屈で、本でも借りられないものかと思ったが、贅沢を言える立場ではなかった。


 窓辺の椅子に身を預け、宵闇に沈んだ外の景色を見つめながら、物思いにふける。

 ぼんやりしていると、浮かぶのはあの日の出来事。

 城の執務室で、皇帝と過ごした時間。あのときに感じたこそばゆい気持ちを、今も忘れられずにいる。


(……現実だったのかしら、あれは……)


 先ほどの夕礼で見送った皇帝ライズは、相も変わらずその秀麗な眉ひとつ動かさずに、美しい令嬢たちの前をすげなく通り過ぎる行動を続けていた。

 以前のフランなら、彼のことを恐ろしくて冷たい人だと偏見を持ったまま、心の距離を置いていただろう。だが今では、顔を見ると思い出してしまう。硬い腕は温かく、頭を撫でる指は思いのほか優しかったことを。


 あんな風に撫でてもらったのは、フランにとって初めてのことだった。小さな動物を愛でる行動は、そう珍しいことではないにも関わらず、フラン自身が獣の姿に変身し、いい顔をされたことは過去に一度もなかったのだ。

 唯一、幼馴染のアルベールだけは「可愛い」と褒めてくれていたが、そこには多分に同情が含まれていたと思う。国の方針として獣化は恥ずべきものとされているのだから無理もない。


 執務室での一件は、ここがシャムールではなく、加えて皇帝が獣の正体を知らないからこそ、起きた出来事だったということはわかっている。それでも、どうにも忘れがたい、衝撃的な体験だった。


(陛下の手は温かくて……すごく、気持ちがよかったな……)


 あの日、可愛がってくれた相手は、本当にライズ本人だったのだろうかと、何度も記憶を掘り返してしまう。

 陛下は、本当は優しい人なのかもしれない。それとも、あの一面を見せるのは、人間以外の動物にだけ……?


 胸がトクンと高鳴る。秘密を知ってしまったような、甘い感覚。また味わいたいと心が疼いた。けれどピンク色の獣が実はフランが変身した姿だと知られたら、彼は怒ってフランの首をはねるだろう。


 幸か不幸か、あれから変身するような事態にはなっていない。フランの境遇を見かねたサリーがこっそりと食事を届けてくれるようになり、当面の餓死の危機は脱したのだ。


 引き続き、姫たちの怒りに油を注がないよう、気をつけなければならない。

 しかしながら、獣の姿の自分がライズからどう思われているかがどうにも気にかかった。

 食べ物をもらい、通行証代わりのハンカチまで結んでもらったのに、二度と姿を見せないなんて、恩知らずだと思われていないだろうか。


 とはいえ、相手は誰よりも高貴な身の上だ。ちっぽけな獣の一匹や二匹、記憶の外に追いやられているかもしれない。

 考えていると切なくなってくる。ベッド横にあるチェストの引き出しを開け、大事にしまっておいたハンカチを取り出した。


 彼が結んでくれた、皇室の紋章が入ったポケットチーフ。光沢があり上品な色合いのそれを眺めていたら、一部に染みができているのを見つけて、ハッと息をのんだ。

 おそらくは庭を通って戻ってくるときに泥がついてしまい、今になって汚れが浮き上がってきたのだろう。


「大変! 洗ってきれいにしておかないと……」


 かけがえのない宝物となっているハンカチを手に、慌てて部屋を飛び出した。



 居室前の廊下を進み、吹き抜けのホールへとやってくる。

 使用人の作業場で洗剤を借りるため、一階に降りようと階段を下りかけたところで、横から呼び止められた。


「あら、こんな時間にどこへ行くつもり?」


 振り返れば、カーネリアを筆頭とする令嬢軍団が、奥にあるサロンからぞろぞろと出てくるところだった。中にはブルーネル、コーラルの姿もある。

 彼女らの目つきには、相変わらず棘があった。ハンカチを見られないよう隠しながら、差し障りのない返事を探して答える。


「あの、部屋が汚れてきたので、お掃除するための道具をお借りしたいのです」

「ああ……そういえばあなた、侍女がいないものね。ウフフッ」

「惨めですわねぇ、下女のやる仕事まで自分でこなさないといけないなんて」

「いっそご自身が使用人になられてはいかがかしら。お似合いですわ」


 口々に嫌みを言われるも、ハンカチについては気づかれていないようで安心する。陛下から賜ったものと知られたら、取り上げられてしまうことは明白だ。

 早々にこの場を離れたかったが、やすやすと解放してはくれなかった。

 カーネリアたちは階段の縁までフランを追い詰め、詰問してくる。


「ところであなた、どうしてそんなに元気なのよ。すぐに出ていくかと思ったのに、どんなずるい手を使っているの? やっぱり陛下に取り入っているんでしょう!?」


 さまざまな嫌がらせを加えても、一向に折れないフランに苛立っているようだ。


「陛下に取り入ってなどおりません。何度も申し上げますが、誤解なのです」


 切実に訴えたが、今度はブルーネルがキンキンと響く声で攻撃してくる。


「とぼけるんじゃないわ! 先ほどの夕礼でも、陛下があんたのほうにちらりと視線を向けておられたのを、わたくし見たんだから!」


 それを聞いたフランは目を丸くした。

(陛下が、私のことを気にして――?)

 真偽のほどはわからないが、本当だとすれば、なにを思ってのことだろう。

 その理由は、少し頭を捻れば想像がついた。期待も手伝って、つい口を滑らせてしまう。


「それは多分、陛下が可愛がっている動物と、私の髪の毛の色が似ているから……?」


 すると目の色を変えたカーネリアが、噛みつくように言った。


「どうしてあなたが、そんな情報を知っているわけ!?」


 どうやら墓穴を掘ってしまったらしい。弁明に迷っているうちに、令嬢たちの怒りが爆発した。


「本当に目障りだわ!」

「おまえなんてお呼びじゃないのよ! 消えなさい!」


 詰め寄られ、どちらからともなく白い手が伸びてきたと思うと、ドンと肩を押される。


(えっ……!?)

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