第11話 氷の皇帝 ライズ・ド・ヴォルカノ(5)

 意を決し、クロスの隙間からそっと覗いてみる。

 目に入ってきたのは、書類の積まれた大きな机と執務用の椅子。椅子は空席で、人影は見られない。やはり、誰もいないようだ。


 ほっとする思いでクロスの隙間をくぐり、ワゴンから身を乗り出して前足を絨毯の上にくっつける。

 すると、唐突に浮遊感に襲われた。斜め方向の背後、ワゴン本体が邪魔をして見えなかった角度から伸びてきた大きな手によって、体をすくい上げられたのだ。


「きゃうっ」


 びっくりして変な声が出てしまう。

 ワゴンを見下ろすほどの高さに持ち上げられて、身動きが取れない。じたばたと身をよじっていると、すぐ近くから男性の低い声がした。硬質だがどこか甘く、耳に心地いい美声だ。


「なんだ、おまえは。迷子になったのか?」


 くるんと体を回転されて、相手の懐の中で仰向けになる格好で、天を見上げた。

 チカチカする視界に入ってきたのは、眩いほどの光沢を放つ高貴なブロンド。さらには、すっと通った鼻筋に、前髪の隙間から覗く神秘的な紫色の瞳。

 この一分の隙もない最高傑作たる尊顔は――紛れもない絶対無二の帝国皇帝、ライズ・ド・ヴォルカノだ。


(へ、陛下……!?)


 フランはあまりの衝撃に、びくんと大きく体を震わせ、全身を硬直させた。

 この部屋は、どうやら城にいくつもある皇帝の執務室のひとつ。そんな場所へ忍び入り、居合わせた相手が、よりによって皇帝本人だなんて。

 そしてその逞しい腕に、軽々と抱き上げられているこの状況。目を開いたまま気絶してもおかしくはない事態に、考えが追いつかない。


 壊れてしまうのではと不安になるほど、小さな心臓が乱暴な音を立てている。

 うつむき加減に顔を傾けた彼が、こちらの瞳を覗き込んできた。長いまつ毛の一本すらもよく見える距離に、鼓動がドッと大きく跳ねる。


 恐ろしいのに、視線を逸らせない。吸い込まれるかのように美しい一対の宝石に、身も心も捕らわれて動けなくなってしまう。

 気が遠のくような、長いようで短い奇妙な時間が流れた。そして――。


「皇帝の仕事場に忍び込むとは、いい度胸だ」


 普段は硬く引き締められた皇帝の口元が、不敵に緩められた。



 ライズの手によって捕獲され、どうにかされると思いきや。

(これはいったい、どういうこと……?)


 彼は、フランを抱き上げたまま窓辺の執務席に戻ると、なにごともなかったかのように仕事を再開した。

 硬い膝の上にフランを乗せ、ゆっくりと背中を撫でながら言う。


「おまえ、変わった毛色をしているな」


 彼の涼やかな視線と集中力は、基本は机上に広げられた書状に向けられていた。

 羽ペンを持つ右手は常に忙しく動いている。だが空いているほうの左手は、じっと体を縮ませたフランの体にしっかりと当てられ、離れない。

 こちらは緊張で震えているというのに、お構いなしだ。それとも、なだめて懐柔するつもりなのだろうか。


(よくわからないけれど……皇帝陛下は動物がお好きなのかしら)


 意外な一面を見てしまった気分。恐怖心は薄れてきたが、別の意味で困ってしまう。

 左手は器用に動き、時折首筋をくすぐられて、おかしな声が出そうになった。

 力強いようで優しい手の平は大きくて、温かい。なんだかうっとりとするような香りは、彼がつけているコロンだろうか。


 硬くて長い指が、丁寧に毛並みを梳いていく。それは不快なはずがなく、むしろ心地よくて――だんだんと気持ちも落ち着いてきて、ともすれば瞼を閉じそうになってしまう。

 だが、このまま悦楽に浸っているわけにはいかない。獣化の状態を保つのは、せいぜい数時間程度。しばらくすれば、人間の姿に戻ってしまうのだから。

 もう帰りますとばかりに前足を突っ張らせ、身を起こした。


「なんだ、行くのか?」


 言葉を発するわけにはいかないので、無断侵入したことへの謝罪も込めて、上目遣いに見上げると、思いのほか優しい瞳と目が合った。


(こんな表情も、されるのね……)


 一瞬、ハンサムな顔に見惚れていると、急に体勢を変えたせいだろうか。腹部のあたりから、小さな体に見合わない大きな重低音が鳴った。


 ――ぐう、きゅるるる……。


 空っぽの胃袋が、本来の目的を忘れるなと言わんばかりの悲鳴を上げたのだ。

 ライズの目が、わずかに見開かれる。お腹の音は、ばっちり聞かれてしまったらしい。


「腹が減っているのか」


(やだ、恥ずかしい……!)


 逃げるように、皇帝の膝から飛び降りた。

 けれど体力はもう底を尽きそうで、よたよたしながら出口に向かおうとしていると、再びうしろから胴を掴まれ持ち上げられてしまう。

 手足をばたつかせてもたいした抵抗にはならない。彼はフランを懐に抱いたまま、部屋の中ほどへと歩いていった。


 食べ物の匂いがして、フランの鼻がひくりと動く。

 腕の中から身を乗り出すようにして見下ろすと、眼下のテーブルにはティーブレイクの用意が整えられ、彩りの美しいサンドウィッチやフルーツ、マカロンなどのスイーツが皿に贅沢に盛りつけられていた。


(お、美味しそう……)


 おそらくは先ほどメイドがワゴンで運んできたスイーツだろう。涎を垂らしそうになりながら食べ物に見入っていると、ライズはフランを片手に抱え直し、空いているほうの腕を伸ばしてデザートスプーンを取り上げた。


「動物でも食べられそうなものは……」


 呟きながら、可愛らしい陶器の器に入った半固形状のクリーム色の食べ物をすくい、フランの口元に近づけてくる。


(クレームブリュレだわ……! これ、大好き……!)


 甘くて香ばしい、卵とミルクのいい匂いがして、疑うことなく舌を伸ばした。

 一口舐めたら、優しい甘みとまろやかな食感が、染み渡るように口中に広がっていく。


(美味しい……!!)


 鼻に抜けるバニラビーンズの香り。とろけるように甘いけれど、しつこくない。今までに味わったことのない、最高の舌触りと絶妙な風味だ。

 夢中になり、スプーンの上にあった欠片など一瞬で食べ尽くしてしまう。すると彼は、


「いい食いっぷりだな……。もっといるか?」


 そんな風に笑って、好物のおかわりに加え、クラッカーやサンドウィッチもちぎって食べさせてくれる。

 久しぶりにありつけた食事、それも大好きなスイーツに多幸感が止まらない。

 尻尾をぶんぶん振って、きっと表情も緩みきっている。けれど別に構わない。なんといっても今は、紛うことなき獣なのだから。


 先日、ライズにお茶の席に呼ばれたときは、ほとんど喉を通らなかったけれど……本来は、食べ物は無駄にしない主義。特に甘い物は大好きだから飛びついてしまう。


 そんなこんなで十分なおこぼれにあずかったところで、顔を上げて満足したことを目で伝えると、意を汲んだライズが腕を解いて、絨毯の上にそっと下ろしてくれた。

 大きな手の平が、頭の上にぽんと置かれる。


「ちょっと待て。食いしん坊なおまえに、特別な勲章をやろう」


 ライズは上衣の胸ポケットからハンカチを取り出すと、フランの首にリボンのように巻きつけて結んだ。

 高価なシルク素材の赤い布地に、皇室の紋章が刺繍された特別品。これがあれば、最高位の貴人からお墨つきを得ていると、誰が見てもすぐにわかることだろう。


 別れの挨拶代わりに、またゴシゴシと頭を撫でられて、開けてもらった扉の隙間から外に出た。


(……なにかしら……。すごく、心が温かい……)


 夢でも見ているかのように、ふわふわした気持ちで歩きだす。

 どうしようもなく気になってもう一度振り返ったときには、扉はもう元どおり、ぴたりと閉じられていた。

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