第10話 氷の皇帝 ライズ・ド・ヴォルカノ(4)

       *


 侍女であるサリーと引き離されてから、数日が経過した。


 どんな事情があろうとも皇帝のお出迎え、お見送りの場の欠席は許されない。フランはきちんと勤めを果たしていたが、当然ながらあの日から皇帝の声がかかることはなく、視線のひとつも向けられはしなかった。


 やはり勘違いだったと令嬢たちが矛先を納めてくれればいいのだが、一度向けられた不満のはけ口は、すんなり解消には至らない。


(はぁ……これからどうしよう)


 身の回りのことを自分でするのは問題ないのだが、来たばかりで勝手がわからないことが多く、ほとほと困り果てていた。

 カーネリアたちが手を回しているのか、侍女は皆フランを見ると逃げるように去ってしまうし、部屋に届けられる食事も、量が少なかったり、味がおかしかったりする。食べると具合が悪くなってしまうので、満足に口にすることができないのだ。


(お腹がすいたわ……)


 昼も過ぎたばかりだというのに、なるべく余計なエネルギーを使わないようにしようと、部屋にこもりベッドに寝転がっている。こんな目に遭う元凶を作った皇帝のことを、ほんのり恨めしく思った。


 令嬢たちはフランが泣いて逃げだすのを待っているのだろうが、こればかりは個人の意思ではどうにもならない。現状、自分の意志で帰国することが許される立場ではないのだから。


 話しかける相手もおらず、嫌がらせをされる毎日は、じわじわと心を苛んだ。

 このまま餓死するのだろうかと、糖分不足によりぼうっとする頭で考えていると、ふいに天井が遠のいた気がして、目を瞬いた。


「……?」


 それは気のせいなどではなく、自分の体が収縮したせいらしい。

 両方の手を持ち上げて見ると、素肌だった部分はピンクゴールドの毛に覆われて、指も短くなっている。手の平にはぷるんと弾力のある肉球もついていた。


 鏡の前に飛んでいって全身を映してみると、完全な小動物の姿に変わっている。

 ふんわりとした毛並みは滑らかで、しっぽは体に対してボリューミー。金色の瞳の中の虹彩は縦長になり、人型のときよりも色が濃い。ふさ毛のある大きな耳の内側には、白い綿のような産毛が生えている。


 猫とも狐ともつかない、ふわふわの獣スタイル。この姿になるのは何年振りだろう。

 祖国では獣化しないよう常に気を張っていたし、自在に操れるものでもない。極度に弱っている今だからこそ、変身に至ったのだ。


 久しぶりの四つ足の感覚は、戸惑うかと思いきや、すぐに馴染んでくる。しばらく体の動きを確かめながら、このあとどうするかを考えた。


 この姿を見られるわけにはいかないが、どうせ訪ねてくる者はいないし、慌てずとも時間が経てば元の姿に戻れるだろう。

 けれど裏返してみれば、この小さな体ならば、目立たずに行動することもできるのではないだろうか。


 日が高く、明るい光の差し込む窓辺を見上げて、フランはこくりと喉を鳴らした。


(食べるものを探しにいこう……。木の実とか、なんでも)


 椅子の座面を経由して、窓枠に飛び移った。換気のため、窓は細く開けてある。

 フランの部屋は二階の端に位置しており、すぐ目の前には立派な樹木が立っている。窓辺近くまで伸びた太い枝に飛び移り、足場を伝って外に出た。



 ――ひょこ、ひょこっ。

 視線の高さの違う散歩は、思いのほか新鮮で楽しくて。

 花の甘い蜜を吸ってみたり、野いちごを齧ってみたり、目移りしながら庭を散策するうちに、いつの間にか本城の近くまで足を伸ばしていた。


 突き当たった壁が城壁の一部だと気づいて引き返しかけたところ、どこからか漂ってくる香ばしい匂いに鼻を引きつけられた。食欲をそそる美味しそうな匂いだ。

 クンクンと鼻を鳴らし、夢中で匂いの元をたどっていく。


 反応の強い場所で立ち止まり見上げると、高い位置にある煙突から白い湯気が立ち上っている。おそらくは、この壁の向こう側に厨房があるのだ。

 もっと近づいてみようと、開きっぱなしになっていた小窓から建物の中へと入った。


 人目につかないよう廊下を進み、先ほど外から眺めていた厨房の出入り口の前へとたどりつく。

 アーチ型の通路に扉はなく、通行は可能だったが、中に入ることははばかられた。

 裸足で庭を歩いてきた自分の足の裏は、土まみれで汚れている。それに野生の動物が食事を作る場所に侵入したとあれば、騒ぎになるのは間違いない。


 見つめる方向からは、食材を調理するいい匂いが漂ってくる。忘れかけていた空腹感が、猛烈に襲ってきた。

 パンのひと欠片でも落ちていないかと思ったが、清潔な城内にそのような落ち度があるはずもない。

 諦めきれずに物陰から覗いていると、ひとりのメイドがワゴンを押して現れた。白いクロスのかかった台の上には、大きな銀色のドームカバーが被せられている。

 敏感なフランの鼻が、ひくひくと動いた。


(あ、あの中から、美味しそうな匂いがするわ……)


 メイドは、出来上がった料理をどこかへ運んでいくようだ。吸い寄せられるようにフランの足も動いて、うしろを追いかけた。

 小さな獣につけられているとは知らず、メイドは目的地を目指して進んでいく。


(どこへ向かっているのかしら……)


 新参者のフランは、城内の構造に詳しくない。広大な城の中は迷路のようで、はぐれたら迷子になってしまう。メイドを見失わないよう、必死でついていった。


 とある立派な扉の前でメイドは立ち止まり、ワゴンを脇に止めた。

 彼女が中に向けて声をかけノックすると、扉が開いてひとりの人物が顔を出した。

 現れたのは、落ち着いた雰囲気を持つ年配の男性だ。服装や立ち振る舞いからして、位の高い人に仕える側近だろう。


「クリムト様。ご指示のとおり、軽食をお持ちいたしました」

「ご苦労様でした。もう持ち場に戻って構いませんよ」


 どうやら終着点はここらしい。部屋に入られて扉を閉め切られてしまったら、ここまで来た努力が水の泡となる。

 フランは足音を忍ばせ、ふたりが会話に気を取られている隙にワゴンに近寄ると、下段の収納スペースにするりと滑り込んだ。

 幸い下の段は空で、丈の長いクロスがこちらの身を隠してくれている。


 役目を終えたメイドの足音が離れていくと同時に、フランを乗せたワゴンが動きだした。引き継いだ男性の手によって、部屋の中へと引き入れられたようだ。

 扉が閉まる音がして、室内のいずこかに止め置かれる。


 隠れているワゴンの天井部分から、かすかな作業音が響いてきた。男性がカバーをはずし、中の料理を取り出しているのかもしれない。

 そのまま息をひそめて様子をうかがっていると、やがて分厚いクロスを通して、男性ふたりの会話が漏れ聞こえてきた。


「そろそろ休憩をおとりになってください」

「ああ……。わかったから、この書類を事務官に届けてくれるか。それから、次にいい加減な申請を上げてきたら、首をすげ替えると伝えておけ。文字どおり担当者の首をな」

「かしこまりました」


(ひぇ、なんだか怒っているみたい……)


 側近の男性は、上司から言いつけられた用事を遂行すべく部屋から出ていったようだ。

 残ったほうの人物は、どうしているのだろう……。室内は静まり返り、様子が読み取れなくなってしまった。


 物音ひとつしないし、気配も感じられない。

 もしかして、疲れて眠ってしまったとか。それとも、続きの部屋に移動するなりして、この場から離れたのかもしれない。

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