第6章 日々は続くよどこまでも ④

「準備できたかー?」


 サンルームで洗濯物を干しながら、僕は子供たちに声をかけた。


「うん、できたよ」

「できた!」


 小学校五年生になった虎徹と、今日から新一年生の忍、二人の息子たちの声が元気よく返ってきた。


「「行ってきまーす」」


 重なり合った二人の声。

 玄関を出たところで、二人が仲良く手を繋ぎながら、サンルームにいる僕を見て手を振っている。


「おう、行ってらっしゃい」


 僕の声を聞いてから、二人は小学校に向かって出発する。弟の手を引く兄の姿は頼もしかった。


「私も、もう行くねー」

 洗面所から化粧を終えて出てきた奥さんは、そのまま急ぎ足で鞄を持って玄関に向かった。


「ああ」

 洗濯物を干し終えた僕は、奥さんの背中を追いかけた。


「行ってらっしゃい」

 玄関の扉を開けようとしている奥さんに声をかける。


「うん、行ってきます」

 奥さんは急ぎながらも、振り返ってそう答えてから、玄関を出て行った。


 二〇二四年、四月。

 辻昭人、四十二歳。

 僕は、専業主夫をしていた。


 結局、僕は忍が小学校を上がるのを機に、仕事を辞めて専業主夫になった。

 一人が働くだけではどうしても将来が心配だった。

 だから、子どものためにどうしてあげたいか、そのためにはどの時期に仕事を辞めた方が良いのか、二人で話し合った。


 その結果、忍が小学校に上がってから、虎徹が高校に入るまでの五年間は、僕が専業主夫となり、子どもがやりたいことを優先できるようにした。その後は、再度、理学療法士として、非常勤でいいから仕事を始めようと考えている。国家資格を持っていること、これからの高齢化社会では働き口がある程度存在する職種であること、今まで高齢者福祉での経験を積み重ねてきたこと、それらが僕の強みだ。だからこそできた決断だった。


 男のプライドというものがなかったわけではない。

 しかし、そんなことを言ったって、稼ぎが少ない現実を、容易に変えることはできないのだから、そんなプライドは邪魔以外の何物でもない。いや、僕にとっての男のプライドは、奥さんを幸せにするために尽力することだ。


 これが、僕の決断だった。


――カチャ


 不意に玄関のドアが開いた。


 ドアのすき間から、奥さんが顔を出した。


 まだ玄関で突っ立っていた僕と目が合った。


「あれ、忘れ物?」

 僕は周囲を見渡すも、それらしいものはない。


「……いつもありがとう」

 照れくさそうな笑みと共にその一言を残すと、奥さんはさっとドアを閉めて、車に向かった。


 その一言は、大切なことを僕に思い出させてくれた。


 そうだった。これは、僕だけの決断ではない。


 家族の決断だ。


 僕が専業主夫となった裏では、奥さんが専業主婦にならなかったという決断があったのだ。


「僕の方こそ」

 誰も聞いていないけど、僕はそうつぶやいた。


 さまざまな人との交流が、仕事とプライベート、両面での経験や学びが、僕の考え方を変えた。


 それはあたかも、骨が骨形成と骨吸収を繰り返しながら成長するように。

 あるいは、筋肉が運動負荷によって破壊され、より強くなって再生されていくように。

 他人の存在やあり方が、自分の考え方や価値観に揺らぎを与え、少しずつ崩していく。崩れたそれは、新しい概念を内包し、再構築されていく。それが人間としての成長となっていく。


 崩されることを拒んでしまえば、変わることはなく、人間社会への順応はきっと難しいものとなる。

 大きな崩れは、自己そのものの崩壊を招きかねないのだろうが、少しずつ、少しずつであれば、きっと大きな実りとなって自身に返ってくる。

 崩れることを恐れてはいけない。変わることを恐れてはいけない。


 将来の自分がどうなっていくのか、それはきっと自分の想像の範疇外なのだ。


 今の自分を、高校時代の僕には想像できなかった。


 そして、今の自分は、これから先の自分を想像することはできても、その通りにはならないのだろう。


 これからも生活は変わっていく。

 主に、子どもの成長に伴って、自分がやるべきことというのは変わっていく。


 子どもが親の手を離れるころが来れば、さらに生活が変わるはずだ。

 そして、その時にはまた、今とは時代が変わっているのだろう。


 これからも、時代や状況に流されながら人生は過ぎていく。


 親が、介護が必要な状態になったり、あるいは僕や奥さん、子どもたちが大きな病気やけがをすることもあるかもしれない。そんな不幸も起こりうる。


 これから先、僕には子どもの頃に言われるような、『無限の可能性』はない。でも、限られた人生の中、限られた時間の中、限られた自由の中、時代の流れに身を任せながら、その時、手が届きそうなものに手を伸ばしていくだけだ。


 それは決して不幸ではなく、ただただ当然のことだ。


「さて、部屋の掃除と行きますか」


 奥さんと子どものために、専業主夫として尽力すること、それが僕の手を伸ばした現実だ。そして、そうできる自分に、今、幸せ感じている。


 これから先、待っている時代も、将来の自分も、どうなっているかは分からない。


 でも、時代に流されたその先に、今ならば後悔せずに、辿り着ける気がした。


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