第4章 死にたい気持ち ②
休日が明けて月曜日。
いつもの忙しい一週間が始まる。
僕は朝から仕事を整理しようと意気込んで出勤していた。
しかし、朝から訓練室に上がって個別リハビリを始めてから、今日の実施予定者すべてが終わって事務所に戻る頃には、結局、終業一五分前になっていた。
挫けそうな気持ちになりながらもカルテを書き始めた。
その後、今日中に作っておかなければいけない書類の作成や、明日から利用開始予定の利用者の情報確認等を行った。
それらも落ち着いた後、いま自分が担当している利用者数等を確認し、他の療法士に担当を回しても問題なさそうな人をピックアップするために、パソコン上の名簿を確認しようとしたとき、時計を見ると、もう一九時三〇分を過ぎていた。
まずい。帰らないと行けない。
結局、いつも通りの仕事をこなして、終わってしまった。
今の仕事を整理するところまで辿り着くことができなかった。
(……困ったもんだ)
深く考え込むのはやめよう。考え込んでしまっては、また前の二の舞になってしまう。
明日でいい。
そう自分に言い聞かせつつ、パソコンの電源を落とした。
でも、きっと明日も同じような感じで、一日が過ぎてしまうのだろう。
結局変わることができないのだろうか。
他の業種でも、ほとんどの職場が残業ありきの仕事量であろう。
奥さんの仕事である教師だってそうだ。授業を教えるだけではなく、担任業務があったり、その他委員会があったりする。授業だって準備は家でしているし、テスト期間となれば家で問題を作っている。加えて部活の顧問になれば休みは返上だ。
最近車の点検のためにカーディーラーに行ったが、そこの営業マンだって、複数の顧客の対応に忙しそうだった。車を購入するときに必要な書類や手続の数を考えたら、僕らから見えていないところでの作業も膨大にありそうだ。
終業時間になればすぐに帰れるなんて、役所勤めだけじゃないだろうか?
僕は大学を卒業した。
その大学も、自慢する気は全くないが、歴史ある国立大学だ。
しかし、かといって高い給料がもらえているわけではない。
僕は仕事に対して、やりがいを求めているから、楽して稼ごうという考えは基本的にはないのだが、これだけ疲れてくると、さて自分の負担に見合っただけの給料をもらえているのかと疑問を感じてしまう。
バブルの時代のように、夫一人の給料だけでも家族を養うことができれば、家庭の事は奥さんに任せて、仕事一辺倒になることもできたかもしれないが、僕の状況ではそうはいかない。
まあ、僕の奥さんの場合、たとえ僕にそれなりの収入があったとしても、主婦をするよりも働いている方が性に合っているだろうけど。
それはそれとしても、経済的な面で奥さんの協力がいる以上、僕もしっかりと家庭の仕事に協力をするのが道理というものだろう。
正直、奥さんを養えるだけの甲斐性が欲しいとは思う。
それは、きっと男のプライドなのだろう。
女性よりも男性がお金を稼ぐことができなかったら、男性には何の価値があるのだろうか。
女性と男性を比べたとき、男性は決して女性には勝てないと、僕は考えている。
男は、どう頑張っても、子どもを産むことができないからだ。
女性だって産休や育休の期間は必要だとしても、働いてお金を稼ぐことができる。
男性も、育児や家事をすることはできるであろう。
しかし、妊娠、出産は何がどうひっくり返ってもできない。
出産の際の痛みは男性には耐えることができないものだとも言われる。痛みだけではない。妊娠と出産というのは、女性に体にも生活にも、大きな変化を与えるはずだが、女性はそれに見事に対応してみせるのだ。
僕は本当に女性を尊敬する。
男尊女卑の考えや社会が、まだまだまかり通っているところもあるかもしれないが、それはきっと、男は力以外では女性に勝てないということを、本能的に知っているからではないだろうか。
まあ、そんな考えはフェミニスト的かもしれないけれども、せめて奥さんを楽にしてあげられる、あるいは奥さんに頼りにしてもらえるだけの甲斐性が欲しいと思う。
頑張って大学を卒業したって、大した給料がもらえるわけでもなく、ただ仕事の忙しさに悲鳴を上げている現状は非常にむなしい。
これからの時代は皆大学時代とも言われている。
大卒なんて、もう大した価値はないのかもしれない。
(そういう、時代ってことか……)
『時代』という言葉を言い訳にするのは、僕はあまり好きではなかった。
どんな時代だろうと、自分がどう生きたいかが重要ではないか。
そう思って今まで自分の人生を選択してきたつもりであったのだが……。
少し心が折れそうだ。
パソコンの電源が落ちたことを確認して、鞄をもった。
(そうだ。帰る前に机の上だけは片付けていこう)
机の上の状態は、その人の頭の中を表していると言われる。
これから一つ一つ仕事を整理していこうと思っているのだから、まずは机の上だけでも片付けよう。
それだけならば、一〇分程度でできるだろうと、僕は作業を始めた。
始めて間もなく、崩れかけた書類の下から、一冊の本が出てきた。
「これは……」
僕がリハビリを担当している、鈴木さんという利用者がくれた本だ。
手書きで書かれたタイトルには、『ある兵士の回想録』と書かれていた。
鈴木さん自身の戦争体験記であった。
いつか読もうと思って机の上において、そのまま埋もれてしまっていたのだ。
表紙を開くと、目次の中にシベリア抑留の文字があった。
(あの人……シベリア抑留を体験しているんだ)
利用者から戦争の体験談を聞くことは多い。
しかし、シベリア抑留されていたという人の話は初めてであった。
僕は鞄にその本を仕舞い込むと、結局机の上の整理は中途半端にしたまま、家に帰った。
家についてから、子どもが寝静まった後、僕は寝室となっている和室から抜け出し、持ち帰ってきた本を読みふけった。
その本には、戦争と、シベリア抑留の、過酷で悲惨な様子が、脚色なく実直に書かれていた。
十九歳の青年が徴兵され、人の命を奪うための訓練をしていた。
終戦間際、敵群に囲まれ、砲弾が撃ち込まれる中、奇跡的に生き延びた。
終戦後、捕虜となり、行先を告げられぬまま、シベリアまで連れて行かれた。
極寒の中、凍傷になりかけながら作業を強いられていた。
等々……。
実際は、ここに書かれているよりも、もっと過酷であったに違いない。
まさに筆舌しがたい内容であろう。
しかし、そこには食事の内容や排泄などで日常生活上苦慮したことなど、まさに戦時の生活が描かれていた。
余暇に行われていた野球大会や相撲大会の様子ではほっと心が和み、部屋で行われていた将棋や花札の勝負では、男同士が熱くなっている様子が目に浮かぶようだった。
そんな想像できそうな記述が、戦争が決して非現実の出来事ではないという事実を、容赦なく突きつけている。
小説や映画ではない、ドキュメンタリーのような脚色もない淡々とした内容が、それら以上に僕に戦争を感じさせた。
そして、それを書いたのはただの一般市民である鈴木さん。
たまたま僕の担当で、日常的に接している人物の一人だ。
近い。
戦争が近い。
いまだかつてこんなにも戦争を身近に感じたことがなかった。
戦争は、確実に今の現実と繋がっている。
僕は身を震わせた。
しかし、同時に尊敬の念が湧き上がってきた。
こんなにも過酷な、大変な修羅場をくぐってきた人たちが生き延びて、今の日本を作ったんだ。
戦争を経験した人たちは、今の自分なんかよりも何千倍も偉大で、強い人たちだった。日本が復興し、急成長できたのも頷ける。
その人たちの作った、守った世界で、今のほほんと生きられることを、有難いことであると、素直に感じた。
物語の最終章では、ようやく抑留から解放されたとき、大陸を離れ日本に向かう船の上で、鈴木さんはソ連の人たちを皆殺しにしてやるという強い念を抱いていた。
今の鈴木さんからは想像できない苛烈さではあるが、受けてきた仕打ちを考えれば当然であろう。
だが、五十年の後に、慰霊のために戦友と共にシベリア抑留の地を訪れる様子も描かれており、そこに憎しみはなかった。
僕は気になって仕方がなかった。
あれほどの強い憎しみが、今はどうなっているのか。
僕は、いつもの寝る時間をとうに過ぎたにも関わらず、パソコンを開き、思うままに感想文を書きだした。
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