第4章 死にたい気持ち ①
すぐに死にたいと思ってしまうのは、最近の若者の悪い癖かもしれない。
いや、三十六歳にもなって、若者と言っていいものか疑問か。
しかし、昔から辛いことがあると、何となく『死にたい』という言葉が浮かんでくる。
かといって、本当に自ら命を絶とうとすることもない。
本当にそのつもりがあれば、ふとした拍子に、もう命を絶っていると思う。
この『死にたい』という思考は、今のところはただのシグナルだ。
自分の今の状況が辛いというシグナル。
高齢者が言う『死にたい』と同じようなものだが、違うのはその気持ちを他人に伝えてはいないことだ。
聞いて欲しいのだが、言えない。
本当はその辛い気持ちを、『死にたい』などという言葉は使わずに、愚痴や悩み相談で誰かに吐き出してしまうのが一番良いのだろうが、それを容易にすることができない。
他にも、日々のストレスが積み重なっている兆候は、いくつか現れる。
高校や大学で宿題に追われる夢を見るとか、休日なのに「あ、仕事いかなきゃ!」と焦って朝起きるとか、夢にうなされるようになる。
さらに悪い状態になると、休日だというのに仕事のことが頭にちらつき、考えに耽ってしまうようになる。そのため、家族に声をかけられたときに、生返事を返してしまう。
そうなってくると、日常生活全般において何となく辛い感覚がまとわりついてくる。
そして、次の段階になると、ふと鏡で自分の顔を見たときに、「こいつ誰だ?」と思ってしまう。忙しく動いている思考が、自動化してしまったような感覚になり、自分の意志で動いているという感覚が乏しくなるのだ。
最近、少しそんな状態に足を踏み入れてしまう時がある。
まずいなと思う。
でも、まだ笑えるから大丈夫なはずだ。
本当に辛いときは、楽しいはずの事が楽しくなくなる。
好きなはずの事が、面白くなくなってしまう。
実は、以前その状態になってしまったことがある。
その時、僕は心療内科に通い、一時的に仕事を休職していた。
それは三年前だ、その時も介護保険の改定があり、仕事がやたら忙しくなっていたときだ。
当時、僕はリハビリテーション科の主任だった。主任として、介護保険改正による変更に対応できるように、当時公表されていた情報を読み解き、必要書類の書式の準備をし、施設としての方向性について上司と話したりしていた。
そして四月になり改定が行われ、さらに忙しくなると、僕の心はついていかなくなった。
仕事の行き帰りの車の中では、いつも事故に合わないか考えていた。
事故が心配だから、そうなることを不安に思っているのではない。
逆だ。
事故にあってくれたら、この辛い状況から抜け出せるのではないかという、ネガティブな期待だ。
もう、自らの意思で抜け出すことはできなかったから、いっそ事故にでもあえば、あるいは何か病気で突然に、職場で倒れてしまえばと、そんなことを想像していた。
それではいけない。
そう思わせてくれたのは家族の存在だった。
奥さんも、僕の変な様子に気づき、「大丈夫?」と声をかけてくれていた。もちろん、「大丈夫だよ」と作り笑顔でかわすしかできなかったのだが。
僕には守るべき家族がいる。家族のためには、こんな状態でいてはいけないと思うことができて、僕は病院にかかろうという気になり、隣りの市の心療内科に受診した。
そうして適応障害との診断を受け、上司と相談し、とりあえず一か月の休職となった。
幸いなことに、薬を飲み、一時的に仕事を離れたことで気持ちが楽になった。
僕がいない間も、同僚のみんなが頑張ってくれたことで、仕事にも大きな支障は出なかった。そんなに気負う必要はなかったんだと気付かされた。
何よりも奥さんは、自宅療養中の僕に対しても、笑顔で接してくれていた。
おかげで、休職期間三ヶ月で復帰の目途が立ち、僕は職場に戻ることができた。
ただ、主任職だけは降りさせてもらった。
それで今は、年下ではあるが同期である高須さんが主任をしている。
だから、今のままではいけない。このままではあの頃の二の舞になってしまう。
まずは仕事を整理し、やることの順番をつけよう。
そして、同僚にも相談しなきゃいけない。自分の手が回りそうもない仕事は手伝ってもらわなきゃいけない。
そう、何も一人で背負い込む必要はないのだ。
何よりも、深刻に考えない。
なるようになるさ。
奥さんも、三年前の休職期間中に言ってくれた。
「まあ、私が働いているんだから、もし、あっくんが働けなくなっても、何とかなるよ」
この言葉は、僕の気持ちを軽くしてくれたから。
そう言い聞かせることで、『死にたい気持ち』が少しは引っ込んでくれる。
ただ、日々のバイオリズムにムラはあり、疲労が蓄積してしまった時には『死にたい気持ち』が表に出てきてしまうこともあるのだ。
そんなときは、テレビや漫画、ドラマのセリフや、歌の一節が妙に胸に刺さってしまうことがある。
とある休日。
僕は、子どもと一緒に、すっかりとビデオプレイヤーと化している家庭用ゲーム機で、何年か前の特撮ヒーロー番組を見ていた。
ヒーローたちは、大人には眩しすぎる言葉と行動で、子どもたちの胸を打つ。
「夢をあきらめるな!」
「自分のやりたいことから目を背けるな!」
僕も子どものころからアニメやゲームに親しんできた人間だ。こういった物語展開は嫌いじゃない。世の中そんな簡単なもんじゃないよ、と思うような年になっても、やはり胸を熱くさせるような言葉というものはいいものだ。
このようなセリフはすでにさまざまな作品の中で使われてきた内容のセリフであり、チャンバラ時代劇のような予定調和であったとしても、昔から好きな味はやっぱり好きで、やめられないソウルフードのようなものだと感じる。
しかし、今、この落ち込んだ心理状況の僕が聞くと、ぐさりと胸に突き刺さる。
僕の夢は、一体何だったか?
僕は、今、本当にやりたいことをやっているのだろうか?
僕は理学療法士という仕事をしているが、これは本当にやりたい仕事だったのだろうか?
高校時代、進路を決めるとき、医療関係の仕事というのは一つ選択肢ではあったのだが、それよりも何よりも、僕の中で一番の希望は、ゲームを製作する人間になることだった。
しかし、調べてみると、当時の高校生が適当に調べた程度だから、調べたなんて言えない程度ではあるが、とりあえず専門学校にでも行って、ゲームプログラマーを目指すくらいしか道が見えなかった。しかし、ゲームプログラマーは、僕のやりたいこととは少し違う気がした。ゲームを製作する人間にはなりたいが、当時パソコンなんぞ触ったことがほとんどなかった僕には、まったくイメージが湧かなかったし、面白そうにも思えなかった。
両親に進路先の相談をしたときは、とりあえず大学に行って欲しいと言われた。
そうしたときに、家族の希望も叶えつつ、僕自身も興味があり、なおかつ世間的にも評価されるであろう進路として医療職について調べたところ、理学療法士に行きついたのだ。
理学療法士になるには専門学校に行くのもよいが、保健学科に理学療法学専攻がある大学もある。僕の通っていた高校は進学校でもあったし、親の希望に合わせて大学を目指した結果、僕は石川県の国立大学に合格することができた。
しかし、大学生活が始まってからも、勉強する内容は興味があるし、面白いとは思うのだが、本当に自分のしたいことなのだろうか、という気持ちは払拭できないままでいた。
そんな時、僕はライトノベルに出会った。
たまたま同じ大学の別学部に入学した高校からの友人が、よくライトノベルを読んでいて、薦められたところ、読んでみたらすっかりはまってしまったのだ。
三ヶ月で百冊くらい読み漁る中で気が付いた。
僕がゲームを作りたいと思っていたのは、そのゲームの世界観や、シナリオを作りたかったからだ。だからプログラムには興味がなかったのだと。
そして、ライトノベルにはそんなゲームに通ずる魅力を感じた。
ライトノベルの定義はよく分からないが、アニメや漫画、ゲームで表現されるような内容を、文字という媒体を通じて表現しているものだと、僕は感じた。
それに、文字という媒体ではあるが、学校の国語の授業で読んできた小説とは、一線を画す自由さがあるように思った。これは面白いと。
いまさらゲームのシナリオライターにはなれないかもしれないが、とりあえずライトノベルのようなものを書くことはできるかもしれない。作家になれるかは別として。
だったら、僕はライトノベルを書く。
そう決意した。
有難いことに、親から、生活するのに十分なお金が仕送りされていたため、バイトをする必要がなかった。この事実は、養ってくれていた父親に、本当に感謝してもしきれないことだと思う。思いながらも、なかなか素直に言えないのだが。
部活やサークルも、入ろうか悩んでいたが、ライトノベルを書くと決めたら入る必要なんてなかった。
バイトも部活もサークルもやっていない一人暮らしの大学生なんて、実習や卒論、就活などがなければ、暇な時間はたくさんある。そのライトノベルを教えてくれた友人と、もう一人、高校時代の部活の先輩も同じ大学にいたため、三人でつるんで遊びながら、気が向いたときにライトノベルもどきの小説を書いていた。
僕の学科、医学部保健学科理学療法学専攻には、三年の夏から実習があった。
理学療法士の実習は非常にきついものだと聞いていた。
だから、それまでには何か結果が出ないかと、まずは一作品完成させ、ライトノベルの賞に応募してみた。
結果は何もなし。
その時、結果が掲載される雑誌を見て、大賞になった作品のあらすじを見たのだが、自分では到底思いつかない内容だった。
僕が書いているのは中学生レベルだ。到底足元にも及ばない。そう愕然としたのを覚えている。
でも、あきらめることはできなかった。まだ時間はある。
二年の夏ごろにもう一作品完成させ、応募した。
もちろん、それも落選。
ライトノベル作家になるなんて、夢のまた夢だ。
そう思いながら、三年の実習に臨んだ。
それはそれは辛いものだった。
一度、親に、もう辞めたいと、泣いて電話したくらいだ。
親には何とか卒業だけでもしてくれと言われ、少し冷静になりながらも、半ばやけくそで実習を乗り切った。
就職を選ぶ際、僕は病院で働きたくなかった。
理由は二つ。
理学療法士になる勉強はしてきたが、やっていく自信がなかった。
もう一つは、もう少し収入のいいところに行って、数年働いたらやめて、また別の道を探したかった。
そして、その裏には、その期間をモラトリアム期間として、趣味のライトノベルを書き続けて、何か奇跡が起きないものかと期待していたのだ。
僕は石川県で介護老人保健施設に就職した。
そして二年お金を貯めてから、実家に帰ることを理由に退職した。
家に帰ってからはしばらくの間、何もせずにリフレッシュした後、一度やって見たかったゲームショップでのアルバイトをしながら、ライトノベルを書いたり、そこで知り合った友人と同人ゲームソフトの製作に挑戦したりした。まあ、同人ゲームソフトについては、シナリオは完成したものの、なかなかゲーム作品として仕上げることはできなかったのだが。
そんな風に一年が過ぎようとしていた。
両親も、基本的には暖かく見守ってくれていた。
特に母親は本当に協力的で、僕の実現できるかどうか分からない夢を応援してくれると言っていた。
しかし、父親の心中は穏やかではなかったようだ。
そして、ある日喧嘩をした。
なぜ、理学療法士の資格で働かないのかと僕を責める父。
僕は、理学療法士は、資格を取れば十分に働けるなんて甘い仕事じゃないんだと訴えた。
ライトノベルを書きたいという夢があったのは事実だが、理学療法士としてやっていく自信がなかったというのが本心だったのかもしれない。
だから別の道に逃げたかった。
それを呑気に、理学療法士なら今は人気の仕事だからいいだろうと言ってくる父親に腹が立って、すっかり喧嘩になっていた。
父親とまともに喧嘩したのなんて、あれが初めてだった。
でも、その喧嘩も、僕があきらめる形でほどなく終結した。
父親に説得されたわけではない。
喧嘩している僕たちの横で、母親がうつむき、我慢しながらもすすり泣く音が聞こえてきたからだ。
僕の阿呆らしい夢を応援してくれていた母親を泣かせたくなかった。
そうして僕はもう一度理学療法士として働くことを決意し、今の職場に就職した。
勤めて十年以上経過した。
老人保健施設での理学療法士も板につき、仕事の面白さもいろいろ感じることができていた。一時期休職するほど追いつめられたこともあったが、それでも、今も働いている。
そして何より、結婚し、こうして子どもがいる。
僕の膝に座り、楽しそうに特撮ヒーローを見ている我が子は可愛くてしょうがない。
いま、間違いなく幸せなのだ。
だというのに、疲れているときは、『死にたい』とか、『本当にやりたいことは何か』なんて事が心にちらついてしまう。
駄目だ。
いや、駄目だ、何てことはない。
辛いのは事実としてある。
忙しくて心が追い込まれていることに目を背けたら、そのうちにまた前のように心療内科に行かなければいけないような事態になってしまう。
僕は虎徹の頭を撫でた。
虎徹はヒーローにくぎ付けで、気にもしていない。
「ただいまー」
忍を連れて買い物に出ていた奥さんが帰ってきた。
「おかえり」
この家族を守るために、僕は冷静に、今の難局を乗り切っていかなければいけない。
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