第3章 家族、そして夫婦 ③

 それから一週間ほどたったある日。

 時刻は一七時三〇分。

 終業時間になるやいなや、僕は席を立った。


「お疲れ様です。お先に失礼します」


「今日は早いですね」

 同僚の言葉に、僕はにやっと笑顔を浮かべて答えた。


「今日はね、ラーメンを食べに行くんだ」





 それは昨日の夜の事である。

 時刻は二二時三〇分

 僕も奥さんも珍しく一階のリビングにいた。

 奥さんはのんびりとスマホをいじっていた。

 僕は、奥さんに対して、意を決して口を開いた。


「あのさ」


「何?」


「ラーメン食べに行っていい?」

 奥さんのスマホをいじる手が止まった。


「……いいけど、こんな時間に?」


「だって、好きなラーメンをなかなか食べにいけないじゃん?」


 奥さんはラーメンがあまり好きではない。付き合っていた時から、ラーメン屋に行ったことは数えるほどしかなかった。それに今は子供が食べるもので外食を選ぶから、ファミレスか回転寿司かショッピングモールのフードコートになることが多い。


 ファミレスにしろ回転寿司にしろフードコートにしろ、ラーメンがないわけではないが、独身時代に一人で行っていたようなこだわりのラーメン屋には、なかなか行けない状況になっていた。


「それに、僕の行きたいところはそんなに大きくない店だから、分煙も禁煙もしてないし」

 奥さんはタバコの臭いが嫌いだし、子どもには副流煙を吸わせたくはない。


「それは、行けないね」


「だから考えた末の結論なわけよ。みんなに迷惑をかけずに、自分のどうしても食べたいものを食べるには、子どもが寝静まった夜に食べに行くしかない。僕の行きたいお店は深夜一時までやっている。……ダメかな?」


「駄目じゃないけどさ……」


 奥さんが僕の近くに寄ってきて、お腹をつんつんとつついてきた。


「やめた方がいいんじゃない?」


「……それは、わかっているけど」

 年齢的にも、中年何チャラが気になるこの頃ではある。


「でも、今日は少し夕飯のご飯をちょっと少なめにしたし、たまだから。そんなに滅多にいかないから」


「……」


「……」


「…………わかった、やめとく」

 僕はがっくりとうなだれた。


 すると、奥さんが少し笑いながらこう言った。

「じゃあさ、明日の晩、行って来たら?」


「えっ、いいの?」


「いいよ。実家に行ってご飯食べるし。残業しなかったら、ラーメン食べてきても、そんなに遅くならないでしょ」


「うん、絶対残業なんかしない」


「明後日は休みだし、行ってきなよ」





 そんな成り行きで、僕はラーメン屋に向かっていた。


 奥さんにアプリで連絡を取ると、子どもたちも特にぐずることもなく、実家でもりもりご飯を食べたらしい。これで安心してラーメンを食べることができる。


 わくわくしながら車を走らせ三〇分。目的のラーメン屋に到着した。


 店に入り、カウンターに座った僕は、メニューも見ずに注文をした。


「塩とんこつラーメンと唐揚げ丼のセットで」


 このセットが僕の一番のお気に入りだった。


 店員が持ってきた水を一口飲むと、僕はトイレに行って用を足した。

 手も洗って、これでラーメンを食べる準備ができた。

 ほどなくして店員がラーメンを運んできた。


「お待たせしました。塩とんこつです」


 目の前に置かれたラーメンを見て思わず顔がほころぶ。


 白濁としたスープに細麺。

 もやし、ネギ、メンマがトッピングしてある。それぞれはそれほど多いというわけではないが、少なくもない。三つが合わさると比較的野菜が多い印象のラーメンだ。

 チャーシューは厚切りではないが、大きめなのが一つ載っている。


「いただきます」

 ちゃんと手を合わせてから、僕はまずはスープを口に運んだ。


 うまい。


 口に入れてすぐはもう少し塩気が欲しいような、脂ももう少し欲しいような感じがするが、それぐらいがちょうどいい。最後までくどくならずに飲めるのだ。少しとろみがかったスープは、すぐに喉の奥に流れていくのではなく、口全体に味が広がる。

 麺も特に目立った特徴があるわけではない普通の細麺ではあるが、スープがしっかりと絡んでくれる。麺を食べているだけでもスープの量が減っていく。


 最初は麺だけを、次に野菜と一緒に食べる。やはりもやしもネギもメンマも、触感がたまらない。


 そうこうしていると、唐揚げ丼が運ばれてきた。


 カリカリの唐揚げは味がしっかりとついていて、男好みの味だ。それがご飯の上に三つ乗っている。

 早くかぶりつきたいが、僕はすぐには手を伸ばさなかった。


 熱いからだ。


 揚げたての唐揚げには注意が必要である。これで口の中をやけどしてしまっては、この後の食事が残念なことになってしまう。


 待望のラーメンである。そんな愚を犯すわけにはいかない。


 だからその前に、僕はチャーシューを食べることにした。


 とろとろのチャーシュー。折りたたんでしまえば一口で食べられてしまうがもったいない。まずは半分口に運んだ。


 味のしっかりとついたチャーシューは、塩とんこつのスープに包まれ、マイルドに舌を刺激してくれる。


 うまい!


 僕はたまらず、丼ぶりの上の唐揚げを少しよけ、ご飯を口に運んだ。


 何かを食べて、おもわず白飯を口に運ぶ瞬間、それは日本人に生まれてよかったなあと感じる瞬間だ。


 ご飯が少し口をすっきりさせてくれたので、再びスープを口に運ぶ。


 もう口の中は塩とんこつのスープに支配されていて、この味に何の不満も感じない。ただうまい。


 さて、そろそろ唐揚げ丼だ。


 少し待ったとはいえ、完全に冷めるような時間は過ぎていない。細心の注意を払い、少しだけかじる。


 よし、熱くない。


 三口ほどで唐揚げを食べると、ご飯をかき込む。まだ唐揚げは二つあるのだから、ご飯を食べすぎてもいけない。配分はきっちりと。


 おもむろにお茶を口に運んだ。


 口の中を洗い流し、リセットすると、その口で再度ラーメンに手を付ける。


 やはりうまい。こうして口の中をさっぱりさせながら食べ進めると、何度も味を楽しめる。


 しかし、このラーメンには客を飽きさせない工夫がある。スープの端に赤い唐辛子ペーストがあるのだ。そろそろそれを溶かす時が来た。


 溶かすと、スープが少しだけ赤くなるが、このペーストはそんなに辛くない。ちょっとピリッとする感じがあるだけだ。またそれがいい。大きく味を変えず、ただ飽きずに食べ進められる程度の味の変化。


 食欲は止まらない。

 ラーメン、丼ぶり、ラーメン、丼ぶりと、僕は久しぶりのご馳走を思うままに堪能した。


 至福であった。

 もう、スープも、米粒もない。


 つわものどもが、夢のあと、である。


「……ご馳走様でした」

 僕はしっかりと手を合わせた。

 




 僕は車に乗ると、発進させる前に、奥さんに『LINE』でメッセージを送った。

『とてもおいしかったです。ありがとう』と。

 

 そして、ふと思いつく。

 奥さんに、コンビニでお土産を買っていこうと。


 僕は常々思うことがある。

 愛とは、こういうことなのだろうなと。


 奥さんは僕のラーメンが食べたいという気持ちを理解し、一人で食べに行くことを許してくれた。自分だって、きっと食べたいものがあっても我慢しているはずなのに。


 だから僕は、そんな奥さんが喜んでくれるであろうスイーツを買っていくことに決めた。


 互いが、互いの事を思い合っているからこその行動である。

 今度、奥さんが友達とお茶したいと言ったら、僕が子供の世話を買ってでようと思う。

 互いに思い合い、助け合い、支え合い、譲り合う。


 そんな『合い』こそが『愛』の本質なのではないかと、そう思うのだ。


 一方的なのは、よくない。それは長続きしない。離婚の原因だ。いわゆる性格の不一致。


 女性が世話を焼いてくれるから、男性が好き勝手する。

 男性がちやほや優しくしてくれるから、女性がわがまま放題する。

 どちらの関係性も、あまり良いものとは思えない。まあ、尽くす方がそれで良しとしてしまうのならば、その関係性もアリなのだろうが、僕は良くないと思う。


 奥さんのために何かしてあげるということに、見返りを求めているわけではない。ただ、きっと奥さんも自分のためにいろいろ考えていてくれると思うからこそ、常日頃からそういう気遣った行動ができるし、実際自分がそう感じるようなことを奥さんがしてくれているからこそ、そういう信頼を相手に持つことができる。


 互いが互いのために思ってしてあげることで、それが正の連鎖となって、関係がより良いものになり、相手を思う気持ちが強くなるのだ。


 僕はコンビニに入ると、小さなレアチーズケーキを選んだ。

 あまり大きなものを選ばないのも、愛情である。


 しかし、僕は一つ大事なことを忘れていた。





 家に着くと、先に実家から帰ってきていた奥さん、忍を抱っこして出迎えてくれた。


「ただいま」

「おかえり」

「おかえりー!」

 少し遅れて、虎徹がドタドタと走りながら玄関にやってきた。


「みなちゃんに、お土産だよ」

 玄関から部屋の中に入りながら僕はレアチーズケーキを取り出した。


「いいねえ」

 そういいながら、奥さんは冷蔵庫にそれを入れようとした。その時――


「オレのは?」

 と虎徹が言った。


「あ、忘れてた」



 ぎゃーーーー!



 虎徹は大泣きし始めた。

「ママの半分あげるよ」



 やーだー!



 泣き止まない長男。


「ごめんよ」

「ちょっと、気が利かなったね」

 奥さんは少し困り顔で僕に笑いかけると、忍を預けてきた。

僕が忍を受け取ると、奥さんは泣きじゃくる虎徹を抱きしめて慰め始めた。





 仕事も大変だけど、それなりに楽しいし、高齢者からは学ぶべきことがたくさんある。

 子育てはホントにどうしていいか分からないこともあるけれど、それにしても代えがたい幸せがある。


 そう、そのはずなんだけど……


 どうしようもなく辛くなってしまう時がある。


 何もかも投げ出したくなる時がある。


 残業が続き、家に帰ってくるのは二〇時を回る日が続いた。

 あまり残業が続くと、奥さんへの育児や家事の負担が増大し、彼女も疲れた顔をしている。

 早く帰ってあげたいけど、仕事が終わらない。

 虎徹も、甘えたくてわがままを言うようになるし、忍はいたずら盛りで無邪気に部屋を散らかしている。


 五月になり、世間はゴールデンウィークで大型連休だが、僕たちの職場には常に利用者がいて、そんな連休はない。


 忍が寝返りを激しくするようになり、ベッドで寝ていると落下の危険があるために、最近は一階の和室に布団を敷いて寝るようになった。そこは狭いので、パパが最終的に寝るのは今まで通りに二階の寝室だ。


 そんなある日。


 仕事終わりの帰りの車内で、僕は一言、何気なく呟いていた。


「あー、死にたくなってきた」


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