第3章 家族、そして夫婦 ①

 年度をまたぎ、四月になった。


 新しい介護保険制度が始まり、その対応で仕事の忙しさは増していた。


 残業が、今まで以上にかさむ。


 プライベートでは、虎徹がスイミング教室に通い始めた。


 子どもの習い事については、奥さんと一人目が生まれる前から話をしていた。


 子育ての方針については、往々にして夫婦でぶつかり合うものだ。だから子どもが生まれる前からそういった類の話をすることは良いことだと思う。僕たち夫婦は、おおむね価値観が似通っているのだが、子どもの習い事については意見が割れていた。僕は基本的に本人がやりたいと思わなければやらせる必要はないと考えていたが、奥さんは水泳やら英語やら音楽やら、特定の習い事は、子どものうちにやらせた方が良いのではないかと考えていた。


 一つの習い事とて、お金がかかるし、習い事よりも親と接する時間の方が大事ではないかと思うのだが、奥さんは、もちろん強制するつもりはないものの、親の方からある程度は経験の場を提供しなければ、やりたいことなのかどうかも分からないではないか、というわけだ。


 それは、なるほどその通りだと思った。

 だから、吟味しながら、子どもの成長につれて分かってきた性格や、趣味嗜好に合わせて、本人にやらせてみようというのが、夫婦の統一見解となった。


 しかし、スイミングついては、泳げないと、最悪、命に関わるとの奥さんの意見から、積極的に通わせ始めた。


 これがなかなか本人に合っていたのか、週一回ではあるが、毎回楽しみにしていた。


 だが、僕としてはとても不安だった。


 虎徹は、割と自由奔放な性格をしており、先生の言うことを聞けるか心配だったのだ。

 保育園でも、去年の運動会では、みんなと踊るときに、一人座って草をいじっていたし、時に集団からはみ出していた。


「大丈夫だって」


 と、奥さんは言うのだが、普段、僕といるときは、虎徹も甘えていることもあって、言うことをなかなか聞かないし、着替えも歯磨きも、ご飯を食べることさえも自分でしようとしないこともある。それでついつい怒ってしまうというのが辻家の日常になっていた。


 だが、僕がいないときは、眠くさえなければ言うことをちゃんと聞くようにもなってきたようで、また奥さんが保育園の先生から聞く話でも、少しずつではあるが、みんなと一つのことに取り組むこともできるようになってきたというのだ。


 それでも僕が「大丈夫か?」「心配だ」と繰り返すので、僕が午前勤務の日に、スイミングのレッスンの日を合わせてくれた。一度見てみなさいというわけだ。


 十五時三〇分に保育園にみんなで迎えに行き、そのまま十六時からのスイミング教室に向かった。


「虎徹、先生の言うことをちゃんと聞くんだぞ」

 車内で真面目な顔で言う僕に対し――


「うん!」

 と元気な声で答え、うきうきしているのか体を揺らしながら、虎徹は座席に座っていた。


「大丈夫だから」

 助手席の奥さんは半分あきれ声で僕に言う。


 スイミング教室に到着して受付を済ますと、そのまま更衣室に向かった。


 プールに入るのは子供たちだけだから、男子の更衣室に子どもたちの母親の姿もあった。

 僕も初めてでよく分からなかったので、奥さんが忍を抱っこひもで抱きかかえたまま、ついて来てくれた。


 虎徹は喜んで服を脱ぐと、僕が手渡した水着を着た。


 僕が、虎徹の脱ぎ捨てた服をたたんでいると、彼は水泳帽まで自分で被り、

「行ってくるね!」

 と、そのまま駆けて更衣室を出て行った。


「プールサイドで走るなよ」

 という僕の声はもう届いていないだろう。僕は虎徹の勢いに少し面喰っていた。


「大丈夫なの?」

 確かにいつもよりもテキパキと動き、何でも自分でやっていたが、逆にテンションが高すぎる。


「大丈夫、心配しすぎ。ほら行くよ」

 僕は奥さんに連れ出されるようにして更衣室を出た。


 廊下がプールに隣接していて、室内ではあるがガラス越しにプールの様子が見えるようになっている。ガラスの前に観覧席としてベンチが並べられており、他の子どもたちの親がすでに何人か座っていた。


「いつもここで見ているの?」


「そうだよ」


 僕はベンチに腰かけたが、どうにも落ち着かなかった。

 奥さんは隣りで、抱かれたままうとうとし始めた忍を、そのまま寝かしつけていた。


「本当に大丈夫かなあ」


「大丈夫だって、そりゃ多少聞けないこともあるけど、いつも楽しそうにやってるよ。ほら来たよ」


 プールサイドに目をやると、子どもたちが目の前を歩いていく。

 ここに子どもたちの親御さんがいるのを意識してか、わざわざ入場行進をしていくかのように、先生が子どもたちを引き連れて、ガラスの前を歩いていった。


 最後の方で虎徹の姿もあった。


 虎徹は僕の顔を見ると、濡れた手で僕の目の前のガラスを叩き、水の手形をつけていった。


「本当に大丈夫なの?」


「大丈夫だって。それより忍が寝そうなんだからあんまり騒がないでよ」


「でも、あいつ先生の話を聞けるか・・・・・・。あ、一応並んで先生の話を聞いている」


「一応って何よ。ちゃんと聞いているわよ。おー、よしよし、忍、ねんねだよー」


「でもほら、体操もあんまり動けてないよ。手足もしっかり伸ばしてないし」


「まだ、数回しかやってなくて慣れてないのよ。他の子たちはもう一年以上やっている子たちばっかりだから」


 準備体操が終わると、五~六人の小グループに分かれていく。


「あ、あいつ、そっぽ向いててついていくのに遅れた」


「まあ、そういうこともあるわよ」


「あんまり周りの子たちと話せてないけど大丈夫かな」


「今日はあっくんの休みに合わせたから、いつもとメンバーが違うからね。まあ、いつもは普通に話しながらやってたよ」


「あ、あいつバタ足するのに――」


「もう、黙って見てなさいよ。忍が起きるでしょ!」


「そ、そうだね」


 黙っても気持ちが落ち着かず、僕はソワソワしながら虎徹の様子を眺めていた。


 虎徹はちゃんと順番に並んで、先生の合図にしたがって少しずつ泳いでいた。


「あいつ、普通にやれるんだね」


「そうだよ。先生の言うことは聞くし、水も怖くないみたいだしね」


「僕が思っている以上に、あいつはできるんだな」


「もちろん出来ない時もあるし、まだ出来ないことも多いけどね。あっくんは心配しすぎ」


「そうだね」


 やっていることは、ほんの数秒だけ水に顔をつけ、ほんの数センチだけ泳ぐ程度。腕に浮き具もつけているし、先生が支えている。でも、そこには、確かに新しいことを覚え、楽しそうに体を動かしている虎徹がいた。


 泣きそうになる。


「ありがとう、みなちゃん。僕の休みと合わせてくれて」


「でしょ?」


 虎徹は確実に成長している。

 確かに、まだまだ出来ないことの多い子どもではある。

 しかし、いつまでも何も出来ない子どもではない。

 保育園では、給食で苦手なものでも少しは食べるようになってきたらしい。

 トイレや着替えも自分で出来ている。

 少し、落ち着かないのがたまに傷だが、みんなでやるお遊戯も、大分と合わせてやれるようになってきた。


 少し家で言うことが聞けないくらいがなんだ。頑張っているんだから、ちょっと甘えさせてやるつもりでいればいいのだ。

 今の虎徹を見て、そんな思いが湧いてくる。


 湧いてくるのだが……。


 その日の晩御飯。


「席を立つな!」

「遊ばない!」

「早く食べなさい!」


 いつも通り怒ってしまっている僕がいた。


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