第2章 日々思うこと ②
そんなこんなで、仕事中に心に移りゆくよしなしごとを、家に帰ってから奥さんにそこはかとなく話すのが、僕は好きだった。
もちろん、子どもが寝静まった後で、奥さんが子どもたちを寝かしつけた後も起きている元気があった時だけだが、その時は僕もゲームをせずに、暗い寝室で子ども寝息を聞きながら、奥さんとこそこそ話をしていた。
「だからさ、僕は高齢者に『かわいい』なんて失礼だと思うんだよ」
とか、
「死にたい気持ちを否定しちゃったら、話が進まないと思うんだ」
なんて話を、奥さんは適当に返答をしながら聞いてくれている。適当とは言っても、いい加減ではなく、良い加減だ。
僕は理屈っぽい人間だ。自分でもそう思うし、奥さんにもそう言われる。
もちろん、高校時代から理系で、大学も医療系なわけだから基本的に思考は理系だ。奥さんは教員をしているのだが、専門は生物であり、同じ理系だからか、話は合う。
でも、僕は理系の人間の中でも、より理屈っぽい人間だと思うのだが、そういう僕の話をちゃんと聞いてくれるから、僕と奥さんは気が合うと思う。僕の方がべらべらしゃべっていて、奥さんは聞き役だ。一般的は夫婦とは立場が逆かもしれない。
「そうそう、そういえば昼休みのときに、同僚の息子さんが高校生で、理系か文系かどっちに進むかで悩んでいるみたいなんだけどさ、理系とか文系とか、今思うと何の意味があったのかと思うんだよ」
「どういうこと?」
「だって、経済学部って文系だけど、統計学を勉強しなきゃいけないから内容は完全に理系だよね? 僕の理学療法士って仕事は医療系だけど、僕は今理学療法士に一番必要な科目は何って聞かれたら国語って答えるよ。レポート書くときにはちゃんと文章書けなきゃいけないし、コミュニケーション能力は絶対必要だしね」
「まあね」
「それに、理系とか、文系とかよりもさ、どんな仕事があるかってのを高校でもっと知りたかったと、今になって思うんだ。僕はサラリーマンが嫌で今の職種を目指したってのはあるけど、今思えばサラリーマンって言っても、会社にもいろんな分野があるじゃない? 正直、高校時代は機械系の事しか頭になかったけど、食品会社とかもあれば、花火製造会社とかもあるじゃない? 僕、今にして思えば漬物を作っている食品系の会社に入りたかったよ」
「あ、私、就職活動のとき面接行ったよ」
「いいなあ」
と会話をしながら、夜は更けていく。
「そうだ。明日、リハのみんなとの飲み会があるから、行くね」
「ああ、そういえばそう言ってたね」
僕はあまりお酒が飲めない。だからあまり飲み会に行く機会が少ないが、子どもができるとますます夜に外出することができなくなった。僕が飲み会に行けば、奥さんは子どもたちの風呂から寝かしつけまで全部自分一人でやることになるからだ。自分は飲み会で楽しんでくるのに、奥さんに迷惑をかけるのは忍びない。だから――
「虎徹は連れて行くね」
そうすれば、少しは奥さんも楽ができるかもしれない。
「うん、分かった」
奥さんも快く頷いてくれた。
他のリハビリスタッフも子持ちが多いため、飲み会と言っても二一時までで解散になることが多い。僕もお酒は飲まないつもりだから、車で子どもを連れて行ける。
「その代わりにさ、飲み会代は家計から出してもらえるかな?」
「ま、仕方ないね。飲み会に行くとしても、半年に一回くらいだもんね。いいよ」
「ありがとう。じゃあ僕は下に降りるよ。ちょっとゲームしてから寝る」
「私はもうこのまま寝るね。お休み」
「お休み」
こうして今日も一日が終わる。
もちろん、夜中に一回、夜泣きで起こされるけど……。
翌日の金曜日。
僕たちリハスタッフは基本的には月曜日から金曜日までの勤務だが、毎週一人が土曜日も出勤している。他の介護老人保健施設に勤めている人たちはどうだか知らないが、この施設はそういう勤務体制にしている。
だから、大体飲み会を催すときは金曜日が多い。
仕事が終わってから、市内の飲み屋にリハスタッフが常勤も非常勤も合わせて勢揃いした。
今回の飲み会は、年度末ということもあるが、一人職員が退職するから、そのお別れ会も兼ねている。
非常勤の理学療法士の神取さんが、三月いっぱいで退職するのだ。
「お世話になりました」
乾杯の音頭の前に、神取さんが挨拶をする。
僕より二つ年下で、二人の子どもがいる。勤めて二年になる。
子どもは、一人は小学生で、もう一人が保育園に通っている。本当ならばもっと、いまの仕事を続けていたい気持ちはあるのだが、二年間子育てと仕事を両立してやってきたうえでの決断だった。もう少し家の近くで、時間の都合のつきやすい仕事をするらしい。
いままでも、何人か勤めてはやめていった。
単純に仕事内容が自分のやりたいことと違っていたという人もいれば、結婚を機にやめた人もいるが、やはり子育てと仕事の両立に悩みやめていった人もいる。
もちろん、子育てと両立できるように、何かあれば休んでもらえるよう協力し合ってはいるが、子どもの体調不良が重なって休まざるを得ない状況が続くと、どうしても申し訳ないという後ろめたさは残る。
子育てしながら働くには、家族の協力が不可欠だ。
夫の協力はもちろんではあるが、一番頼りになるのは夫婦の母親、特に奥さんの母親だ。
奥さん側の実家で同居していたり、すぐ隣に住んでいれば、物理的にも心情的にも頼りやすいだろう。そうでないと、やはり気軽に頼れるとは言い難い。
僕たち夫婦も、奥さんの親の協力を見越して、奥さんの実家の近くに家を建てた。
決して、僕の親と奥さんの仲が悪いわけではないのだが、やはりお互いに気を使ってしまうのは仕方のないところだろう。僕の母親も、女親の母親が近くにいた方が、何かと頼りやすくていいよとアドバイスしてくれた。
もちろん、それぞれの嫁姑関係があるから、一概には言えない。旦那の親とも頼り頼られできる関係を作れる人もいるだろう。
何にしても、まったく親の協力無しで夫婦共働きなんて、本当に難しいと思う。
ニュースでは、都会のシングルマザーの話題などが取り上げられるが、そもそも難しいのが当たり前で、それでも働きやすい社会が理想ではあると思うけど、それは根本的には無理なのではないかと思う。バブルのときのように、企業が潤っていれば、企業努力で何とかなるところもあったかもしれないが、公的なサービスだけではどうしても難しく感じてしまう。
だから、どうしても出産、育児は、女性の仕事を辞める理由にはなってしまう。
でも、介護、福祉の現場では女性の力が間違いなく必要だ。僕はそう考えている。
介護では、父性よりも、母性が必要とされる。
父性は厳しさ、母性は優しさが基本だ。
しかし、高齢者に対して、それよりも若い人間が厳しく接するのはおかしいと思う。さまざまな経験をしてきた人生の先輩に対して敬意を払い、優しさをもってその存在を受容する態度、それが最も重要だと思う。だから母性が必要であり、女性の方が介護の仕事に向いていると思う。それに女性のコミュニケーションの基本は共感であり、男性の場合のそれは競争だ。その点においても男性よりも女性に軍配が上がる。傾聴と共感は、相手に受容の態度を示す基本だからだ。
ただ、女性だから母性が必ずしも強いとは限らないし、男性でも母性が強い人はいる。コミュニケーションにおける共感の態度についても、男性でも上手な人はいる。
女性の力の重要性はそれだけではない。そもそも看護や介護の道に進むのは女性が多いと思うのだ。しかし、若い子たちはそのうち結婚、出産を経験する人が多い。そうするとどうしても産休、育休を取ることになる。それでも、育休が終わればまたこの職場に戻ってきたいと思える職場づくりが、介護現場では重要なのではなかろうか。そうしないと少し働いたら退職してしまうという流れをくり返し、人材が育っていかないのだ。介護の仕事というのは、誰にでも出来そうで、実はそうでもない。特に認知症の方に対する態度は一朝一夕ではできないと思う。より質の良い介護を提供するためには、女性が働きやすく、女性が女性であることの強みを生かせる職場になる必要があるのだと、いつもそう感じながら仕事をしている。
僕たちリハビリ職もそうだ。病院ではなく、介護老人保健施設等で働く療法士は、やはり家庭と育児を両立させたい人が多い印象を受ける。いまはワーク・ライフ・バランスの時代だ。働く側の人間のニーズにあった職場環境を整備することが肝要だ。
神取さんの挨拶が終わって、みんながグラスを手に持った。
僕も自分のグラスを持った後、隣りに座っている虎徹に水の入ったグラスを渡した。
虎徹はジュースが苦手で、だいたい水か、牛乳を飲んでいる。
「じゃあ、みなさんお疲れ様です。乾杯」
主任の高須さんが乾杯の音頭で、飲み会が始まった。
他にも子どもを連れてきている人もいるので賑やかい。僕も子どもにご飯を食べさせながら、話に参加していた。話の内容も子どもの話題が多くなる。
もう、大学生のときとは違うなあと、飲み会のたびに感じる。
「そうだ。辻さん。こんな時に仕事の話で申し訳ないですけど」
「なに?」
「介護保険改定の詳細情報が少し出てきました。机の上に資料置いておくのでまた目を通しておいて欲しいです」
「分かった」
「なんか、計画書が変わったり、個別リハビリを行う回数が増えたりするみたいで、ちょっと大変そうです」
「マジか……。うんざりするね」
「まあ、考えるのは週明けにしましょう。今日は飲んで食べましょう!」
介護保険は二〇〇〇年にスタートしてから、三年ごとに見直しが行われている。今度、二〇一八年は改定の年で、新年度からは新しい介護保険のもとサービスが提供されることになるのだが、その改定の詳細は三月半ばまで分からない。少しずつどんな内容になるか情報は出てくるが、その段階では確定してはいないので、心づもりくらいしかできない。
「計画書が変わるのか……」
それなのに今回のように書類が大きく変わることもある。現場としては、はっきり言ってたまったものではない。お役人は本当に現場の事が分かっていないのだろうと思ってしまう。
深く考えないようにしよう。腹を立てても、国の態度は変わらない。
「パパ?」
子どもが僕の顔を覗き込んできた。疲れた表情が出てしまったのだろう。子どもに心配されてしまった
「ん? 何もないよ。さあ、何食べる?」
子どものためには、あくせく働くしかないのだ。
飲み会が終わる頃には、子どもは眠くて僕の膝に頭を乗せて横になっていた。
車に乗せると、すぐに眠ってしまった。
家について抱きかかえて車から降ろしても、まだ眠っている。
家の中に入るとリビングには誰もいない。
奥さんはもう寝室で忍と一緒に寝ていた。
僕が寝室に入ると、奥さんが目を覚ます。
「あ、ごめん。ただいま。起こしちゃった?」
「ううん、大丈夫。おかえり」
「明日休みだし、このまま寝かせていいよね」
「うん、いいんじゃない?」
虎徹をベッドに寝かすと、瞬間、薄目を開けたが、すぐにそのまま寝入ってしまった。
でも、その時に奥さんの事は認識したのだろう。目をつぶったまま奥さんに抱きついている。
「かわいい」
奥さんは幸せそうに虎徹の頭を撫でていた。
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