第2章 日々思うこと ①

 今の職場に勤め始めたのは二十四歳のとき。はや十二年が過ぎた。


 リハビリスタッフの中でも、僕よりも古いのは常勤職員が一名と、もう一人非常勤で十歳年上の先輩職員がいるだけだ。僕が入社したときにいた職員の何人かは退職している。


 リハビリスタッフ以外にも、支援相談員や、事務職員、ケマネジャー、介護職員、看護師といるわけだが、その中でも古株に数えられるようになってきた。


 この介護老人保健施設自体が、開設十八年なわけだから、十二年で古株なのは当然だが、ただ年数だけを重ねていたわけではないつもりだ。


 僕たちリハビリ職は資格職ではあるが、国家試験に合格して免許を取得しても、ただリハビリを提供してもよい資格を得ただけであって、知識や技術が十分とは言いにくい。働き始めてからがスタートで、日々勉強し、研鑽していかなければならない。病院では職場の研修・教育のシステムがあると思うが、僕は介護老人保健施設で働いており、病院と比べ勉強や研修の機会を与えられることは少ないと思う。だからこそより自己研鑽が重要となる。自分で医学書を購入したり、全国で行われる研修に参加したりしてきた。でも、結婚してからはお金も時間も、それを許してくれない状況になっている。


 とはいえお金や時間を費やせばいいというものではない。

 日々の治療の中で、分析、実践、評価をくりかえしていくうちに身に付いてきたものがある。


 リハビリについてだけではなく、介護や福祉についても勉強してきた。

 介護保険や介護老人施設などの高齢者施設の役割についてや、認知症ケアの在り方やターミナルケアの在り方について、高齢者施設であってはならない身体拘束や、防ぐべき介護現場での事故についてなどなど……


 加えて、僕は大学時代に趣味で心理学や哲学の雑学本を読み漁っていた時期があるが、それらの知識や経験をフル動員して、日々の仕事に励んでいるつもりだ。


 だから、というわけではないが、日々の仕事の中でいろいろと思うことがある。

 例えばこんなことだ。


 朝の入所者の個別リハビリが終わった十時頃、通所利用者を個別リハビリに誘うために、機能訓練室のある三階から一階に向かっているときのことだ。


 三階のエレベーター付近で、今日から短期入所を利用する内川さんというご利用者に、二十代前半の介護職の女性が、こう声をかけていた。


「内川さん、今日からお泊りですね。よろしくお願いします。今日もかわいいですね~」


 内川さんは八十代女性だ。小柄で、細身。歩けないために車いすに乗っている。彼女は笑顔の介護職員の手を握り、


「そんなことないよぉ」

 と細い声で答えていた。


 さて、高齢者に『かわいい』という表現は適切なのだろうか?


 確かに、高齢者の中には、もともと小柄な体格な方が、歳を重ねるにつれ脊柱が変形することで、とても小さく見える方がいる。そのような方が車いすにちょこんと座っている姿は、確かに愛らしい。

 

 しかし僕は、高齢者に対して『かわいい』と言っていいものかと、疑問に思う。

自分よりもはるかに年上の人に向かって失礼なのではないかと。

 

 相手は子供ではなく、ペットでもない。人生の大先輩である。

 それに、その八十代の高齢者の女性は、『かわいい』と言って、果たしてうれしいのだろうか?

 

 こんな話を聞いたことがある。

 ある介護施設での入浴場面での出来事である。

 洗身介助をしている介護職員が、目の前の高齢者に対して、「色が白いですね」と言ったところ、その高齢者はひどく不機嫌になったというのである。

 

 介護職員にとって色が白いというのは、褒め言葉であったのだが、その高齢者にとってはコンプレックスであり、言われたくないことであったらしい。


 価値観は人それぞれであり、育ってきた環境で違うし、時代で違う。

 今では人がうらやむ女性の細い指は、昔では畑仕事もしたことのない役に立たない手だったのかもしれない。色が白いこととて同様で、社会的に良い価値ではなかったかもしれない。

 自分がどう思っていようが、相手がどう受け取るかが、コミュニケーションでは一番の問題となるのだ。


 はてさて『かわいい』はどうなのだろうか。


 僕の価値観では、高齢者に対して『かわいい』という言葉を使うのは、人生の大先輩であり、敬意を払うべき相手に対して使うには失礼な言葉なのではないかと思うのだ。だから決して使わない。確かに、『かわいい』と感じる瞬間はある。それでも利用者を前にして口には出さない。


 僕のこの考えは、高齢者に対して敬意を払うべき立場の人間として、間違いではないと思うのだが、目の前の二人を見ていると、よく分からなくもなってくる。


 若い介護職員は笑顔で、『かわいい』という言葉を、何の他意もなく使っている。手を握り、目線を合わせ、見た目にはとても良い態度で話しかけている。

 内川さんも、謙遜してはいるが、本当に嫌がっている様子ではない。

 今の二人の寄り添っている光景は、まさしく微笑ましいものだ。


 だったら、注意するようなことではないのかもしれない。


 職員の接遇教育としては、しっかりと徹底していかなければいけないこともあるだろうが、目の前の幸せそうな雰囲気に、水を差すことは僕にはできなかった。


 それでも、この若い介護職員には『かわいい』という言葉が、時に失礼な言葉となる可能性があることを、知っていて欲しいと思う。

 それを知ったうえで、相手の反応を見て、相手が嫌な思いをしていないかを推し量りながら、それでもその言葉を言っているのと、何も考えずに言っているのでは、大きく違うはずだ。


 僕の視線に気が付いたのか、若い介護職員と目があった。

 内川さんも、介護職員の視線が気になったのか、僕の方に振り返った。


「おはようございます」


 僕は、満面の営業スマイルで通りすがりに挨拶をしながら、一階へと向かった。





 昼食前、最後の時間。

 僕は、小島さんという利用者の個別リハビリを行っていた。


 小島さんは、先ほどの内川さん同様、八十代の女性だった。

 しかし、先ほどの内川さんと違い、車いすは使用せず、歩いて生活している方だ。


 高齢者の身体機能は、本当に年齢では測れないものだ。


 自宅での生活は何とか伝い歩き、身の回りのことは自分で行えているが、炊事や家事は同居家族が行っている。


「調子はどうですか?」


 僕はほぼ毎回、この切り出しで話を始めていた。


「まあ、変わりないです」


 ベッドで横になりながら小島さんが答える。

 変わりないと言いながらも、少しいつもと比べて元気がないような印象があった。


「痛いですか?」


 小島さんは腰部の疾患の影響から、下肢のしびれと痛みがある。

 神経が圧迫されていることによる症状だ。

 以前から筋力低下もあるのだが、最近はより弱くなっている印象がある。


「痛いです。しびれも変わらないですね」


「ひどくはなってないですか?」


「まあ、それほどひどくはないけど……最近疲れるね」


「ご家族と外出は最近していますか?」

 小島さんは週に一回くらいは家族と外食したり、スーパーで買い物をしていた。


「何とか、行ってますけど、もうエラくてね」

 『エラい』とはこの地方の方言で、しんどい、辛い、疲れるといった意味合いだ。


「それは、痛みというより、だるいということですか?」

 僕は少し具体的な聞き返しをしながら本人の状態を探っていく。


「そうね、なんでだろうね。最近身体がエラくてしょうがないのよ」


「定期受診のときに、主治医には相談しましたか?」


「したけど、歳だからって言われて終わり」


「うーん、そうですか……。お医者さんにそう言われてしまうと何も言えなくなってしまいますね。ご飯は食べれてますか?」


「食べてはいるけど、減ってはいるかな」

 そういった話をしながら、僕は小島さんの下肢筋のストレッチをしていた。その時に、小島さんからこの一言が聞かれた。


「もう、いつ死んでもいいんだけどね」


 こういった一言が出たとき、どんな返答が正解だろうか。


 正解はないとは思うのだが、よくある返答は、『小島さん、そんなこと言わないでくださいよ。ご家族が悲しみますよ』と少し諭すような言い方をするか、はたまた『何言っているんですか。まだまだ長生きできますよ!』と明るく笑い飛ばすような言い方する人が多い気がする。でも僕はどちらも言わないことが多い。


「そうですよね。痛みも倦怠感も大変ですもんね」

 とまず相手の気持ちに共感するような返答をするように心がけている。


 僕が入社して間もないころ、今はこの施設にはいないが、かつて長期入所していた他の利用者が同じようなことを言ったとき、何というべきか真剣に考えたことがあった。その時、僕の頭に即座に浮かんだのはやはり、『家族が悲しみますよ』という言葉だった。しかし、その方は奥さんに先立たれていて、日ごろ『私を待っている人はいない』というのが口癖だった。その人にも子どもはいるのだが、女性はおらず全員男性。正直なところ父親の様子を見に足しげく通う息子というのは、少ない。実際その人も、長男の嫁が定期的に面会に来ていた。


 だから、『家族が……』なんて言葉は、何の慰めにもならないのだと痛感したのだ。


 ではどうしたら良いか。


 そこで僕は、なぜ、相手がそんな一言を口にしたのか、考えてみた。


 それは、辛いからだ。


 そして、相手も僕が神でもなければ医者でもないことを知っている。


 だったら、偉そうなことを言っていても仕方がない。


 そのまま相手の気持ちを受け止めてあげればいい。


 日本人の気質なのか、どうも死にたいというような負の言葉を言うことを咎める風習がある気がする。特に死について語るのは、それこそ『何言ってんの! 縁起でもない!』と一蹴されてしまう。それは、あまり良くないと常々感じる。


 もちろん、『死にたい』といっている相手が、冗談交じりに言っているときもあれば、真剣に、深刻に言っているときもある。だが、この共感するという返答は、どちらの場合にも使える。ただ、相手の言っている口調や雰囲気に合わせて、こちらの態度も変える必要はある。


 そうやって共感の態度を示すと――


「そうなの、本当に辛いの」

 と話が繋がってくる。


「痛みとの付き合いも長いですよね」


「そうね、働いているときから腰が調子悪かったしね」


「そうだ。小島さんにとって、一番良かったとき、楽しかったときはいつ頃ですか?」


 相手の気持ちを受け止めながら、少し話題を変えた。

 相手の死にたい気持ちに共感するのはよいが、そのままずるずると二人で深みにはまっていくようではいけないと思う。どこで話を転換していくかは、相手の様子次第だ。


「そうねえ、仕事も辞めて、旦那もなくなってからかな。一番好きなことができたわ」


「じゃあ、戻れるとしたら、その時期がいいですか?」


「うーん、それより働いている頃がいいな。その頃の方が充実していたわね」


「子育て時期はどうですか? 最近、僕も苦労してて」


「絶対戻りたくないわね」

 そうして二人で笑っていた。


 死にたい。その気持ちや思いに対して答えを出すことはできない。

 でも、話を聞いて、人によっては、その過程で、本人が悩んでいる問題の本質に気付くことができることもある。

 また、小島さんのように、話を聞くことで少し気持ちが晴れて、そのまま楽しいコミュニケーションを通じ、良い時間を過ごすことができるかもしれない。


 ただ、その気持ちを受け入れない、共感しないような返答は、相手にとっては自分の気持ちを分かってもらえないという思いだけが残ってしまい、良いコミュニケーションにならないのではないかと、僕は考えている。


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