第1章 僕の日常 ②

 名古屋から電車に揺られ五十分程度で着く愛知県の地方都市。それが僕の住む町だ。

 トヨタのお膝元だからだろうか、一家に一台ではなく、成人一人に一台、車がある町。だから車に乗れないと非常に生活しにくい町でもある。


 そして、理学療法士というのが、僕の仕事だ。


 理学療法士という言葉を知らない人も多いかもしれない。しかし、『リハビリ』という言葉であれば知っている人も多くなってきたと思う。


 リハビリとは、病気やけがになった後に行われる治療の一つだ。最近は経験したことのある人も多いだろうし、ニュースやドラマなどでも聞いたことがあるだろう。


 リハビリ=リハビリテーションに係わる専門職には理学療法士、作業療法士、言語聴覚療法士とある。その中でも理学療法士は、筋力トレーニングや歩行などの運動療法や、ホットパックや電気刺激などの物理療法などで治療を行う専門職だ。詳しい説明をし始めるとキリがないため割愛するが、おそらくリハビリと聞いて多くの人が想像するようなことを、僕は仕事としている。しかしながら働いている場所は病院ではなく、介護老人保健施設という施設だ。


 介護老人保健施設という施設がどのような場所について十分な理解をしている人は少ないであろう。


 医療ではなく福祉の施設であり、介護保険制度のもとで運営されている高齢者の施設だ。

 おそらく高齢者の施設と聞いて多くの人が頭に浮かぶ言葉は『老人ホーム』であろう。介護が必要となった高齢者が入り、そのまま一生過ごす場所というイメージ。


 しかし、介護老人保健施設はそれとは異なるものである。病院と自宅の中間に位置する施設であり、病院では退院の期限が来てしまったが、まだ本人の身体能力や自宅の環境、介護する側の問題から自宅に帰ることが難しい人が、一時的に泊まり(=入所)、在宅に帰ること(=在宅復帰)を目指す施設である。また病院に入院するような重篤な状態ではないのだが、動くことがままならなくなってしまった人が、能力の向上を目指し、リハビリのために入所することもある。ただ、さまざまな理由からどうしても家に帰ることができず、ずっと施設にいる人も中にはいる。


 二〇〇〇年に介護保険が制定された当時は、なかなか在宅復帰の難しい方が多かったが、介護保険は三年ごとに改定され、現在ではその割合は増えてきている。


 同建物に通いのサービス(=通所リハビリ)もあり、リハビリのために施設の送迎で通ってくる方々もいる。


 これまでの制度の変遷や、そこで問われてくる施設の役割の変化などは、簡単には説明できない。


 とにかく、高齢者が入所していたり、通ってくる施設で、僕は理学療法士として仕事をしており、ご利用者の方々の身体機能の維持・向上や生活の質の維持・向上、在宅復帰をめざして、日々忙しく働いている。




 朝の通勤時間は少し道が混んでいる。自転車を漕いで学校に向かっている高校生の姿も多い。


 車を運転し二十分ほどで職場についた。


 施設一階の事務所に、僕たちリハビリ職の机がある。勤務時間の多くは機能訓練室で理学療法を提供しているのだが、電子カルテの記入や、計画書の作成など、デスクワークもある。


 現在、リハビリ職員は常勤では理学療法士が僕を含めて二人、作業療法士が三人、言語聴覚士が二人いる。加えて非常勤職員で理学療法士が二人、作業療法士が二人いる。総勢十一人ではあるが、今日は非常勤職員が二人、勤務日ではないため、出勤者は九人だ。僕と理学療法士の新美君、作業療法士の柵木君が男で、あとはみんな女性だ。


 事務所にはリハビリ職以外の職種の人たちもいる。

 事務職員に、支援相談員、正確には事業所が異なるのだが事務所を同じくしているケアマネジャーの皆さんに、地域包括支援センターの皆さん。施設の多くを統括している看護部長の机もここにある。やはり女性が多い。


「おはようございます」


 社会人として当然の挨拶を交わしながら、僕は事務所に入った。


 事務所の真ん中ほどに僕の机があるのだが、その机上はうんざりするほど整頓されていなかった。


 こういうところに育ちがでるなあと、つくづく思う。


 昔から片付けは苦手だった。家でも脱いだ靴下をそのまま適当な場所に放置してしまうのが癖だ。


 もちろん職場ではそんなことはしないのだが、机の上は申し送りのメモや、会議や話し合いの日程のメモ、自分が印刷した書類や福祉用具のパンフレットなどいろいろなものが置きっぱなしではある。


 僕も、年齢的にはリハビリ職員常勤の中では上から二番目であり、抱える仕事が多くなっているのではあるが、他の机は僕の机ほど汚くはなかった。


「もう、張るところがないですね」


 振り返ると、主任の高須さんがにこにこしながら立っていた。彼女は僕より三つ年下であるが、同期である。僕は石川県の大学を卒業してから、二年間石川県の施設で働き、地元に帰ってきて一年ほどフリーターをしたのちに、今の職場に就職している。年齢的には僕の方が上ではあるが、まあいろいろあって、今のリハビリ部門の主任は彼女がやっていた。

 かれこれ十年以上一緒に仕事をしているので、気軽に話せる相手だ。


「えー、返す言葉もありません」


 そう返すと、高須さんは僕の肩に張り紙をした。


 剥がして確認すると、最近入所された利用者の話し合いの日程が書かれた紙だった。


「了解です」


 受け取った紙のやり場に困っていると、八時三十分になり、朝の朝礼が始まった。

 その後、各リハビリ職がそれぞれの仕事を始めていく。


 僕も、まずは手帳や机の上の張り紙を確認し、訪問や会議の予定がないかを確認した。

 お、今日は午後から利用者宅を訪問する予定がある。これは近々在宅復帰する予定の方の自宅での環境調整と介護指導等を行うための訪問だ。

 今日リハビリを行う予定の利用者も確認して、一日のスケジュールを立てた。

 九時になると、事務所を出て、三階にある機能訓練室に移動する。

 こうして、僕の仕事が始まっていく。




 この施設の利用者は、基本的には六〇歳以上の高齢者であるが、さまざまな方が利用されている。


 高齢者と言ってしまえば一言でくくられてしまうかもしれないが、高齢者ほど個人差の大きな人たちはいない。


 年齢からみると、七十代~九十代前半の人が多く、百歳を超える人もいる。だから、七〇代の利用者に対してはつい、「まだお若いですね」と言ってしまう。


 しかし、九十代でも、何にも頼ることなく歩くこともでき、物忘れもせいぜい人の名前を覚えるのに少し時間がかかる程度の人もいれば、ベッド上生活を余儀なくされ、意思疎通も困難な人もいる。七十代でも、同じく意思疎通が困難な人だっている。物忘れや関節の痛みに対して、「年相応です」なんて言う医師もいるが、ここにいると年相応がよく分からなくなる。

 

 疾患から見れば、脳血管障害の人もいれば、変形性膝関節症などの整形疾患の方もいる。パーキンソン病や、神経難病、循環器の疾患に、呼吸器の疾患。さまざまな疾患の方がいるが、高齢者は疾患が一つとは限らない。場合によっては、診断はないものの、見るからに膝の変形があるとか、認知症の症状がある、なんて方もいる。


 過去の経歴、家庭環境、そういった個人因子も様々である。


 この施設の機能から見ると、ここは一〇〇床のベッドがあり、通いのサービスである通所リハの利用定員は四〇人だ。

 一階が事務所と通所リハビリのスペース。

 二階が認知症棟で、認知症があり、ある程度症状の重い利用者が泊まっている。

 三階は一般棟で、特に認知機能の問題のない方、あるいは多少認知機能低下が見られていても、集団生活において大きな問題のない方が泊まっている。

 そして四階は重介護棟で、胃瘻増設している方や、食事介助が必要な方、自力で起きることが困難な方など、ベッド上での生活時間が長い方々が泊まっている。


 入所者に対し、リハビリ専門職により行われる療法は個別リハビリと呼ばれ、入所三ヶ月以内の方は週三回、それ以外の方は週二回行っており、時間は一回二〇分以上である。加えて一日四〇人弱の通所リハビリ利用者がおり、それらの利用者の個別リハビリを常勤、非常勤合わせて十一名のリハビリスタッフで実施していく。


 各利用者の状態や、希望、将来方向に合わせて、リハビリ三職種のうち、どの職種がどれだけ対応するのか、あるいは担当数の兼ね合いから誰が担当するのかをリハ職内で話し合って、実施していくのだが、一人の勤務時間は八時間であり、一回の対応で二〇分以上は取られてしまう以上、効率よくやっていかなければ、時間が足りなくなってしまう。


 加えて今日のように、利用者宅に訪問する仕事があれば、時間に遅れるわけには行かないため、かなり焦りながら個別リハビリを行うことになる。


 そんなこんなで、朝から大忙しで動き回って、再び事務所に戻ってきたのが一七時一五分だった。


 あと、一五分で終業時間だ。

 これで一日の仕事が終わる……わけではない。

 今からカルテを書かなきゃいけいない。

 それに明日は新規入所者の入所の可否について検討する会議があるから、情報を確認して、意見があればパソコン上に残しておかなければいけない。

 水曜日にはリハビリの計画書を作成するための会議があるから、その準備もしなければいけないし、先週会議が終わった計画書も出さなきゃいけない。

 今日行った訪問の結果の資料もまとめておかないといけない。


 あと、他に何かしなければいけないことがあったかな。


「はあ」


 仕事は山積みだ。

 僕は水分補給に買っておいた炭酸飲料を飲みながら、ため息をついた。

 まあ、でも優先順位をつけながらやってくしかない。

 気持ちを切り替えながら、席に着くが、少しカルテを入力すれば、もう終業時間の一七時三〇分だ。


「おつかれさまです」


 子どもを託児や保育園に預けている母親たちは、足早に帰っていく人が多い。

 僕は大体いつも一九時三〇分くらいまで残業していく。

 本当はもっと早く帰りたいけど、それくらいまで残業しなきゃ仕事が片付かない。いやそれでも全部は片付かない。優先順位をつけて、遅れてはいけない仕事からこなしていく。これ以上時間が遅くなると奥さんへの家事・育児の負担が大きくなりすぎてしまう。ギリギリの時間だ。


 事務所で、その時間まで残っているのは二、三人だ。


 他のリハビリ職のみんなも帰っていることが多い。


 子育てや家事を担いながら働いている職員は、そう簡単には残業できない。

 だからそれぞれの事情についてリハビリ職員間で理解し合い、協力し合いながら、極力残業がなく帰れるようにしている。あるいは残業できるスタッフが少し仕事を多めに抱えるしかない。しかし、本来であれば、就業時間過ぎたら、家庭があろうがなかろうが、子どもがいようがいまいが帰れるのが理想だ。そう思っていると、他のみんなが早く帰れるようにと、ついつい自分が仕事を抱え込みがちになってしまう。結果、リハビリ職員の中では僕が一番残業している状況になっている。自己犠牲と言ってしまえば格好いいかもしれないが、これも本当は良くないことだ。


 でも、仕方のないこと、どうしようもないことだ。それに、今の自分の残業時間だって、世間一般から見たら少ない方かもしれない。よく分からないが、テレビやインターネットで知る情報から判断する限り、まだマシなんじゃなかろうか。


 そう自分に言い聞かせながら残業をしていると、僕のスマホが震えた。

 

 画面を見ると、奥さんからのメッセージが届いていた。僕は急いでアプリを開いて、それを確認した。


――今日は遅くなる?

  忍がグズグズで寝なくて、寝そうになっても虎徹の声で起きちゃって、

  虎徹は基本的にいい子にしてるんだけど……

  ご飯も作れておりません――


 文章の末尾には泣き顔のイラストが添えられている。

 時間を確認すると、十八時〇五分だ。

 このメッセージが来たからには、帰るしかない。


 奥さんに了解した旨をメッセージで送ると、僕はパソコンの電源を落とし、荷物を抱えた。


「お疲れ様です。お先に失礼します」

「あれ? 今日は早いですね」


 いつも同じ時間くらいまで残ることの多い残業仲間が、そう声をかけてきた。


「奥さんからSOSがあったんで、帰ります」

 僕は駆け足で更衣室に向かった。




 僕は、奥さんと結婚する前に、稼ぎが少ないから共働きになると伝えていた。

 理学療法士の仕事は収入がそれほど多くはない。それは医療でも福祉でも変わらないと思う。奥さんは私立の高校の教員をしていて、奥さんの方が、月収が二万くらい多いし、夏のボーナスは一月分多い。


 だから、奥さんが僕の扶養に入って、僕の稼ぎだけで生計を立てるなんて、ありえなかった。


 だからというわけではないが、育児や家事も分業だというのが、二人の共通認識だった。それは子供が生まれる前からそうだ。


 今、奥さんは育休中ではあるが、かといって、育児や家事は奥さんだけでやるものではない。


 もちろん、僕が仕事の間は、奥さんが家事も育児もやるが、僕が家に帰れば、それ以降のことは二人での分業になる。


 育休で子どもたちとずっと過ごしている状況、ずっと育児と家事に従事しなきゃいけない状況というのは、想像以上にストレスだ。もちろん人によって、そのストレスの度合いは違うだろう。しかし、うちの奥さんは、どちらかと言ったら仕事をしていた方が生き生きするタイプで、休日も活動的で家の中に閉じこもっている方ではない。そんな人がどうしても家にこもりがちな生活になり、人との接触も少なくなってしまうだけでも、ストレスがある。


 仕事をしていれば適度に休憩があったり、また時間が来れば仕事から離れ、家に帰れるのに比べ、育児というのは逃げ場がない。それこそ、今回奥さんからのメッセージにあったように、子どもがぐずって寝なくて、抱っこしていなきゃいけないけど、他にはやらなきゃいけいないことがあるのにできなくて、その状況は時間で終わるものでもなくて先が見えない……というのは、非常に苦痛だ。


 それだけ、育児は大変だ。


 だから、仕事から家に帰るときは、車中でもう一度気合を入れる。

『さあ、今からもう一仕事始まるぞ』と。

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