第9話

そんな事が三日にも渡って繰り広げられた。ただ只管に理不尽な暴力に晒し続けられる僕の精神は崩壊寸前。傷は殆ど治らなくなってきた。何とか耐えているが、それももう長くはもたないだろう。「おい、これ見ろ!」犬はそう言って走ってやってくると、僕に新聞を差し出した。「何さ、手錠の解除で忙しいんだけど」「いいから見ろって、お前が怪しいって言っていた奴が載ってるんだぞ」視線を下すと、そこにはデカデカとした見出しにしたり顔の髭面が映っていた。煽り文句はこうだ『独占!!第七隔離街の英雄に密着スクープ!!』「何これ」「知らねぇよ、そこら中で売られてたんだ」『ずばり、街を守るための秘策とは何だったのでしょうか!?』「第三の人間を逃がしてから蟻を集める。そこをワームの餌場とする事ですよ……本当になにこれ」髭は独自のルートで手に入れた情報から、サンドワームがこの街を襲おうとしていたことを知った。そこで計画を練ったのです。彼はとある企業の有力者である兄に相談して受け入れを確約すると、市長に上告。第三の街そのものをワームの餌場にするというのです。市長は語る「計画は実に綿密に練られたものでした。街を蟻を巣にする方法から蟻を集める方法に、第三との交渉方法。そして村民の受け入れ。はっきり言って、一介の検問官にしておくには余りにももったいない人物でしたよ」「計画は成功しました。しかしこれは私と彼だけでは絶対に成功しなかったでしょう。彼と彼の兄、そして第三の村長に、何よりの敬意と感謝を」「彼と第三の町長は後々町長の右腕としてこの街のために働いていくでしょう。村民は後日確実に各街へ送り出され、そして並列して第七の近くには大規模農園が作成される予定。食料は自給自足が容易になり、街はより多くの人間で賑わうでしょうね」新聞はそうして締めくくられていた。「奴ら仕組んでいたのか、それとも途中で思いついたのかは知らんがいい度胸をしている。僕にケンカを売って自分たちは英雄気取りだと?」気が付けば新聞はびりびりに破れて空中を舞っていた。その瞬間僕は決めた。奴ら全員を地獄に送り、死ぬまで苦しませてやると。だがそれには準備が足りない。この三日間で復讐の方法は考えていたが、やはり最も大きな障壁は蛙と繋がっているであろう目の前にいる筋肉バカだ。

「ねぇ、神の存在を信じるかい?」「俺が幸せじゃないから信じねぇよ」「ならば僕が神の存在を証明してやろう。いいか、見ておけよ?」「僕は神をこの場に償還する方法を見つけたんだ」「はぁ」「宣告です。僕はこの身を一生掛けて神のために働くことを誓います。ですのでどうかお願いです。今この瞬間に僕の前に姿を現したまえ!」「でねぇな」「出ないね。つまり神は居ないということだ。居たとしても人の一生を舐めた糞野郎だよ」「だろうな」「神はいない。少なくとも僕が一生をかけて進行し続けたとしても現れなかった。神はいない。不在だか何だか知らんけど居ないもんはいない。きっとこの世界自体に存在しないんだろうね。ではどうするか?僕が神になるんだ」「だとすれば今この瞬間志遠の前に神になったお前が現れるんじゃないのか?」「僕の前?何のために。神である証明をするためにか?いいや違うね。神は僕だ。そして神とは今日からなるとか明日からなるとか、そういうものでもないだろう。生まれた瞬間から神なんだ。いつだってそうだった様に、これからも。今だなんだよ。僕が神となった瞬間、僕は生まれた瞬間から神だったということになる。つまり今の僕も神だということだ。もう一度問おう。神が誰の為に自分の存在を証明するだろうか?僕?それはない。必要ないね。我思う故に我あり。これで僕という神が僕に対する存在の証明は完了した。では君のために?あるいはそうなのかもしれない。では僕が神であるという証拠の一端を見せよう」僕はそう言って拳にパワーを込め始める。特に意味はない。「1から10の中で好きな数字を思い浮かべて、口に出しちゃ駄目だよ」犬が頷いたことを確認してから、話を続けた。「その数字を強く感じて、そして9を掛けるんだ。勿論声に出したらいけない」彼は7が9個で……と、ぶつぶつ念じながら指を折る。お前それ絶対に間違えるなよ。「一桁ならそのままで。二桁なら、そうだね一の位と十の位を足してみようか。強く念じて。心の奥底に溜まったパワーを乗せて手を伸ばすんだ」僕は差し出された腕をつかむと、手を重ねた。「見えて来た、見えて来た……あぁぁぁぁ!!!!」彼の手のひらに指を置くと、円を描く様に動かす。それは徐々に速度を上げて行き、やがて一本の線を書くように飛び出した。出来上がったのは紛う事なき彼の思い浮かべた数字だ。「……9だね」「な、なぜそれを?」なぜかと言われたらマジックだからだ。最初にどの数字を言っても答えは結局9になる様にできている。倭文に教えてもらった物だが、まさかこんなところで役に立つとは思ってもみなかった。「言っただろう。僕は神だと」感動する余裕すら与えず犬に畳みかける。「僕は昔からこの世界が夢か幻だと思っていたんだ。胡蝶の夢という説話があるだろう?ここは誰かが見ている夢じゃないかっていうやつさ。だけど夢というのは少しばかりややこしいよね。ここではシュミレーションされた世界だと仮定しよう。オリジナルの世界ではシュミレーションをしていて、コンピューター上でもう一つの世界を作っている。シュミレートした世界でもシュミレートが出来て、これが無限に続く。では僕らが生きる世界はオリジナルの世界か、それともシュミレーションされた世界か。簡単な割り算の問題だ、ここがオリジナルである確率は無限分の一。まず間違いなくシュミレートされた世界だろうね。だけどその「間違いなくシュミレートされた世界」に神がいたとすればどうだろう?」「……シュミレートされた全ての世界にも神がいるんじゃないか?」僕は彼の頬を殴って脳を揺らした。ばたりと倒れる彼に僕は言い放つ。「神は森羅万象において人柱だけだ!ぶっ飛ばすぞ!!!」「す、すまん」「僕という神が居るこの世界こそがオリジナルなんだよ、この世界線こそが、銀河を統べる大宇宙の中に存在する数々の中で僕がいるこの世界が!!!」涙を流す犬に僕は手を差し伸べた」「ようこそ真世界へ。これから君は本当の自分を取り戻す旅へと出るんだ。さぁ、僕と一緒に統一された世界で平和について考えようじゃないか!」「真の、自分……ど、どうすればいい!!」「君を敬虔な信者と見込んで一つ試練を与えよう」「ボタ捨て場があるよね。そこへボタを捨てるのが君の役職だろう?」「ち、ちがう、違います」「いいや、君の役職だ」「はい」「いつも石炭を運ぶ場所があるね?あるんだ。最も奥のレーンに、ありったけのボタを持っていきたまえ」「ど、どうして」「君と世界の為、かな」もう彼の視界は涙で埋め尽くされていた。しかし洗脳はきっとそう遠くないうち解けてしまうだろう。だがそれでいい。僕が商人を始めて直ぐのことだ、最も価値のある脳について考えたことがあった。秀才の脳みそ、天才の脳みそ、長齢の脳みそ。だが全て大した価値はない。なぜならそれらはどこまで行っても中古品だからだ。今だけでいい。僕がこの監獄から出るその瞬間まで、犬の裏切りがバレなければそれで。表面上だけの浅い洗脳で事足りるのだ。「あ、次にやって来る時は斧を持ってきてね。それと、絶対にここでの事を他の人間に言っちゃいけないよ。僕が神だとばれたら行動どころじゃなくなるからね」だから今だけ新品同様の、最高級の脳を、少しの間だけ僕に貸しておくれ。「我が神志遠、俺はきっとやり遂げて見せます」「僕は教祖だ。教祖様と呼べ!!!」僕はそう言って彼の頬を叩いた。「ありがたき幸せ!!」「僕はまだ完全体じゃ無いが志遠教では神を特別に神聖視しているんだ。貴様のような『†領域†』へ達していない物が軽々しく我の名を呼ぶな!!!」「申し訳ありません!!!」「だが困難な道を行く信徒へ手向けの花もなしだと見栄えが悪いな。君には一つ教えを説いておこう」「志遠教第四条。汝、障壁となる対象に暴力を振るう事を恐れるなかれ」今、野蛮って言ったな。それは神への冒涜か?「まだ完全に理解出来なくとも良い、きっと後からわかるだろう……もう行け。そして示せ」彼はそそくさと部屋を出て行ってしまった。ふと冷静になられても困るけど、もしかしたら思っていたよりも洗脳の刷り込みが上手く 行ってしまったのかもしれない。それにしても何を示すんだろうね、彼は。妙にやる気いっぱいだったけど。

次の日、積載作業でへとへとに疲れた僕のもとへ太った足長おじさんがやってきた。「ご機嫌いかが?ドブネズミ」陸に上がったヒキガエルの様な男はそういうと、僕の部屋に唾を吐く。「汚い部屋に臭い鉄格子。見りゃ分かると思いますが絶好調ですよ。しかし監督ともあろう方がどうしてこんな下水道まで?」「なに、じきに死ぬお前の顔を最後に拝んでやろうと思ってな。」「不思議ですね。僕はどうしてこんな目にあっているのですか?」「新聞を読んだなら分かるだろう。知りすぎたんだよお前は。俺の昇進のために全ての情報を持ったまま死んでくれ」「もはや隠そうともしませんか」「どうやら死人に口なしという言葉も知らんらしい。精々来世では沢山勉強するんだな」僕の死が確定したからというのもあるだろうけど、どちらかといえば権力によってもみ消すことができるようになったからと言うほうが近そうだ。「今世での勉強代は随分と高く付いてしまいましたからね」「では一つ教えてやろう。今お前に着けた錠は特別製で特殊な回路が組まれていてな。繋がっている時はいいが、不正な手段でこじ開けて電気回路が止まったら自動的にこの部屋ごと吹き飛ぶように出来ている」その言葉を聞いて僕の心臓はドクンと跳ねた。「おっと、覚える必要はないぞ?」「……流石監督、ダイナマイトの扱いは一級品ですね」「よせ褒めるなよ、うっかり起爆してしまうだろ」「ユーモアまで兼ね添えているとは。靴でもお舐めしましょうか?」「安心しろ、最後の晩餐は俺の靴にしてやる」「では、その時を楽しみにしていますよ」そういって互いに笑いあうと、蛙は消えてしまった。僕は殺意を隠せなかった事を反省しながら眠りについた。それから何時間か経った頃、人の気配を感じた僕は深夜にも関わらずふと目を覚ました。松明の火も落とされてシンと静まり返った監獄の中は外から入り込んだ黄緑色の光によって怪しく照らされている。ここへ来たばかりの時は気絶するように眠っていたのに、今日ばかりは妙に目が冴えて仕方がない。まぁ、作戦決行の日だから仕方もないのだけれど。そんな事を考えながら牢に入ってきた大男を見上げた。「おい、いいんだな?」「いいよ」そう返すも、彼は未だに思い悩んでいるらしい。「本当にいいんだな!!??」「焦らさないでよ。思いっきり頼む」僕と犬は仲良く乳繰り合っている訳ではない。事前の計画で今晩に脱獄する事は決まっていたのだが、その時は彼の持つ斧で枷を壊す予定であったのだ。だがそんな日の数時間前にやってきた蛙さんによって枷を壊してはいけない事が分かった。僕の目的は炭鉱から出る事であって、手錠を外す事ではない。蛙の出まかせかもしれないが、爆死だけはごめんだ。錠を壊すこともなく、不正に外すこともなくこの部屋から出るにはどうすればよいか?簡単だ。手首を落とせばいい。「本当の本当にいいのか!!??」「いい加減にしろよ!!僕がどれだけの覚悟を決めて君に斧を持たせていると思ってるんだ!!」既に看守は感付いているかもしれないし、迷っている暇はなかった。「わかったって!!大きい声を出すなよ!!!」犬はそう叫んで斧を強く握りしめた。僕も深く深呼吸をして目をつむる。「歯ぁ食いしばれや!!!」麻酔をするでもない。氷で冷やすでもない。だが拷問ではない。これははっきりと意識を持った僕の決断なのだ。断腸ではあるが、この後の事を考えれば意識を飛ばす訳にはいかない。だからはっきりとした意識を持ったまま、この左手を、憎き奴隷印ごと消し去る必要があるのだ。僕は人生最後になる左手の動く感覚をひとしきり楽しんでから、やがて身震いのする腕から力を抜いた。別に変わらないだろうが、もしも一度で手首を落とせなければ更に悲惨だ。今か今かと待ちわびるそのさなか、一瞬にして左手首が消え失せた。鞭の一発や二発では到底賄えぬ鈍く鋭い激痛に、嚙み締めた布が軋みを上げる。視界が歪んで赤く染まり、脳は今までに覚えたことのない感覚で爆発しそうな程に沸騰している。僕は尿と涎をまき散らしながら声にもならないくぐもった嗚咽を漏らした。手放したくなる意識を気合だけで必死につなぎ留めて、ただただ鮮明に鮮烈に感じる痛みを怒りに変える。劈く耳鳴りで音は聞こえず、あふれ出る体液で呼吸すらままならない。だが、意識は手放さなかった。目玉を飛び出させる様な気迫だけを頼りに、恐ろしい程冷たくなっていく左手の喪失感に耐えていた。とはいえ失った血液が多かったせいか眩暈で意志とは関係なく意識が黒く塗り潰されて行く。気が付けば僕は激しく上下する犬の背中で揺られていた。あれ程まで必死になって痛みに耐えて居たのは何だったのか。結局は気を失って眠っていたらしい。「起きましたか」「何が?寝てないからね僕は最初から」「そういうことにしておきましょう。今は医務室の近くです、消毒液と包帯を失敬して治療を終えましたが如何ですか」「痛い」「本当にあれしか方法はなかったのですか。時間を掛ければ俺が鍵を入手するという方法もあったと思いますけれど」「前に言っていた部下を、別の街から助ける事にしたからね。時間がなかったんだ」「以前は助ける気がないとおっしゃっていたのに、ではこのまま昇降機まで?」「それでもいいけど流石に検問所の人間は全員町長一味だと思うよ。こんな夜中なら怪しさも満点だし、僕は止められちゃうでしょ」「では、密脱街ですか?」「いや、まずは北東かな」そう決めて医務室と言う名の休憩室前に伸びる病院の様な廊下を進んだ。通路には節約のために殆ど灯りが設置されていないので光苔に照らされたスラム街の方が明るいだろう。トイレや食堂の部屋を通り過ぎれば炭鉱場入り口の横に繋がっていた。外にはちょっとした空き地が広がっているものの、周囲は鋳鉄製のフェンスに覆われているので​ちっと​も解放的な気分を味わう事はできない。​普段ならば出入りを管理する駐在の元へ行って左手に囚人の印である焼き印がない事を示すと二重ゲートのロックが開いて外へ出られるようになるのだが、今回はその方法を使うことが出来なかった。左手が無い人間が居れば怪しすぎるからね。犯罪炭鉱夫はこのまま一匹も逃げられないように珍獣と同等の扱いをしてやって欲しい。僕は犬の手も借りて一番近い鋳物フェンスをよじ登ると、先端の尖った突起物が腹部に刺さるのも意に介さず、転がるように教会から脱出した。少し小高い炭鉱場から街を見下ろして全身で自由を感じる。凄く良い気分だ。犯罪を繰り返す人間の心理が理解できた気がした。

「……やってくれたなカエルがよぉ」僕等二人は元凶のいるであろう炭鉱の中に向かって中指を立てると、埃の匂いが充満する街へ駆け出した。

 志遠が商人を目指したのは、彼の父親である遠真が今より少しだけまともだった頃だ。志遠は5歳にして商人という仕事に興味を持ったが、遠真は彼に仕事を教えはしなかった。その代わり、父は志遠に金の価値について説いた。金とは種子である。そこにあるだけでは何の意味も持たないが、土に植えれば芽が生える。新芽は弱くすぐに枯れてしまうが、何年も時間と愛情をかけて育てれば、やがて何者にも侵されない大木となる。金も同じで、持っているだけでは意味がないが、丹念に育てて増やせば何者にも犯されることの出来ない力となる。志遠は父からもっと沢山の事を教えて貰いたがったが、遠真は鋭い眼光を更に細めて少し照れくさそうにはにかんで、続きは帰ってからだと言い仕事へ行った。志遠はその言葉を信じて、夜になると毎日家の窓から外を覗いては父の帰りを待っていた。一日が経ち、二日が経ち、三日が経ち、母親の志織はそんな彼を微笑ましく眺めていたが、帰宅を予定していた一週間から更に三日がっ経った日の朝、母の表情からは笑顔が消えた。そうして一ヶ月が経った頃、家の前へボロボロの馬車が止まった。志遠は大喜びで外へ飛び出したが、そこには満身創痍の人間が4名ほど乗っているだけで、父の姿は見られない。そのうちの一人は自分の事を遠真の部下だと名のり、志遠の前で唐突に土下座を始めた。彼が訳も分からずに立ち尽くしていると、騒ぎを聞きつけた母親が血相を変えて飛び出してきた。母が部下を名乗る人物と二、三言交わしてから崩れ落ちしばらの時間が過ぎてから、志遠はようやく父の死を悟った。それきり、母は外へ出る時間が増えた。毎日綺麗な服ときつい香水を振り撒いて、夜になると決まって家を出ていくのだ。しばらくすると、質素だった食卓に幾つかの小鉢が追加されるようになった。主食にフェイクミート以外が出る事も多くなったし、母の服もどんどんと煌びやかになった。しかしそれと比例する様に化粧と香水は強くなり、外へ出ない日の母がつくため息の量も多くなった。そんなある日の夜中、志遠がトイレの為に起きてくると、家に帰ってきた母が洗面台で嘔吐していた。頬には涙の伝った跡があり、アイラインの真っ黒い筋が伝っている。志織はすぐに良くなるからと志遠に言い聞かせたが、その日から母が夜に出歩くことはめっきり無くなった。食事は質素になったが、志遠は母と一緒に寝る事が出来ると喜んだ。何ヶ月ぶりかに抱かれた母の体は以前よりも少し小さかったが、あの時の優しい香りに包まれて眠ると自然と心が安らぐのだ。しかし、結局母の容態は酷くなる一方だ。原因は幼い志遠にもすぐに分かった。当たり前だが、貧しい食事では治る病も治らない。とはいえ満足な分の食事をする金はなかったので、志遠も友達と遊ぶふりをして、子供ながらに出来る仕事を探しては生活の足しにしていた。そんな日が続き母が限界に達した頃。唐突に父が帰ってきた。父の体は痩せ細り、頬はこけ、皺も増えている。しかし鋭い眼だけは変わらずに光を帯びていて、志遠にはそれが逆に不気味に思えた。しかし父は志遠の顔をみるや、すぐに笑顔になって積もる話を聞かせてくれた。父は三年前のあの日、海で船に乗っていたらしい、しかし嵐に見舞われていくつかの船が波に攫われたという。父の乗っていた船もそのうちの一つで、気がつけば鳥取から遠く離れた北朝鮮と言う国に流れ着いていたというのだ。話がその国での苦労話に変わる前、志遠は父を母親の元へと連れていった。その後の事はあまり覚えていない。珍しく体を起こした母が涙を流して父に抱きつき、父は自分以上に変わり果てた姿の母に動揺して居たと思う。しかし元より限界がちかかったらしい。母はその日の夜、眠るように息を引き取った。反面、家に帰ってきた父は随分と変な事を始めるようになっていた。家に地下を作っては一日中そこで機械の様なものを弄ったり、時には軽く爆発もしていた筈だ。今思えば収入のない父が壮大な装置を用意できる訳もないのだが、結局最後まで何をしていたのかが分からなかったという事を思い出すと腹わたが煮えくり帰るような気持ちになってしまう。そんな事がしばらく続き、突然家にスーツ姿の男性がガラの悪い人間を連れて押し入って来た。まるで話に聞く所のギャングの様だったが、僕はその人達に命令されて急ぎお茶を入れた。台所から帰って来たのは父の作った地下室の扉が男によって壊される瞬間だった。当時僕は16歳。色々と察していたし覚悟もしていた。とりあえずボスっぽい男性の前に茶を置くと彼は涙を流して笑った。それが今の榊原である。さて、言うまでもないが父は捕まった。家の中は徹底的に捜索され、金目になりそうな物は全て回収された。僕はそんな事を予見して半年ほど前に母の遺品を整理していた。大切なものは全て別の場所に倉庫を借りて保管してあったので、母の部屋が荒らされる事はなかった。しかし彼らは家をひっくり返しただけでは飽き足らず、家そのものを売ろうと言うのだ。流石の僕も了承するのに時間はかかったが、遺品は手元にあったので父を残し家から出た。爆発するぞ。そんな声が聞こえてきたのは僕が出てから数分後のことである、父は地下室から自然薯のように引っこ抜かれると、中にいる男達にそう叫んだ。流石のマフィアも危険物を触りたくなかったのか、ちょうどいい所にいた僕へ代わりに中へ入って物品を運び出すよう命令した。中には小さな研究室が広がっていて、見るからに高性能のコンピューターや微細な検査機器がこれ見よがしに並べられていた。爆発うんぬんは父の負け惜しみだったのだろう。最終的に僕は全ての機材を無事に外へ運び出す事ができた。あまりの呆気なさに放心状態でいると、榊原がやってきて僕に話しかける。どうやら父はどこかの企業で一生技術者として働くらしいが、生きていては何かと不都合らしくこのままマフィアに殺されたことにするらしい。借金はそのまま僕が引き継がなければならないという。残念ながら拒否する事は出来なかった。一夜にして全てを失った僕はその日、そのままの足で街の華族が住む地域へ赴き盗みを働いた。


いや、正確には金に輝く壺に触れた時点で妙に関西弁な女の子に声を掛けられて逃走したのだが。後日、街で行き倒れていた僕が彼女の家で働く事になったのはまた別の話である。

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