第7話

志遠は一人、街を彷徨っていた。行く先は分かっている。工業地帯にあると言う横穴が目的だ。「退路の確保ねぇ」彼はそう言って重たい前髪を指で弄ぶ。「結局、僕には詳細を教えてくれないんだもんね」更に付け加えるなら、志遠は落下中気絶をしていたので街の構造があまり頭に入っていないのだ。分かるのはここが農園都市だという事と検問所の位置程度。西に村長宅があるというのは聞いたが、方位磁石は持っていないので肝心の方角が分からなかった。彼は倭文に悪態をつきながらも、適当な生存者を探して周囲にある中で最も大きな建物へと近づいていく。余談であるが、志遠は倭文と京介の交渉を見ていないので街がどれ位の被害に合っているかを知らなかった。何なら、先程倉庫で蟻の侵入経路をさも常識かの様に語る倭文に対して恐怖を抱いていた程である。立ち止まり見上げると、そこにはやはりと言うかなんというか、飾り気のない長方形のコンクリート塊がそびえ立っていた。周囲は少し開けた空間となっているのでより異物感が強調されている。彼はひんやりと冷たい鉄のノブに手を掛けると壁に同化している扉をゆっくりと開き、隙間から顔を突っ込んで中をかくにんした。そこにあったのはまごう事無き食糧庫である。「この街には倉庫しかないのか」図書館の様に均等な棚の中には砕かれた穀物や芋類と言った物が袋詰めにされている事から、ここは長期保存の出来る物だけを取り扱う倉庫なのだろう。蟻は甘い物が好きだと言うが生体的には雑食、なんなら割と肉が好きだ。この街では少なくない数の生き物が育てられているので、蟻は最初に家畜や人間を捕食する事が予測できる。というか実際にこの様にタンパク源の少ないしけた食糧庫は奴等に荒らされることも無く綺麗な形を保っているので予想も何も無いのだが。しかし蟻が来ないという事は安全に直結する。この場所ならば生存者が残っていても不思議ではない。志遠は意を決して中へ入ると、物陰に隠れる様にして慎重に倉庫の探索を開始した。まず最初に向かったのは向かって手前側の角だ。そのまま外側を一周すれば倉庫内を凡そ確認する事が出来るだろう。それに、四方の内一つでも確認する手間が省けるならば安全も確保しやすいという考えもあった。角の棚に背中を預けて一辺の直線を覗き込む。鼓動の速度とは裏腹に、その通路には如何なる生物も確認できなかった。志遠は一度薄くなった空気を吐き出すと、背を付けたまま棚の裏側をクリアリング。これでようやく一段目の棚にモンスターが居ない事を確認できた。正確に言えば中央と反対側にある通路の一部は棚自体が死角となるが、そんな事を言っていても仕方が無い。上手くいけば生存者の発見だけではなく、この倉庫自体を安置として使用する事が出来るので多少のリスクは許容する必要があった。そういった調子で一段ずつの地道なクリアリングの成果によって全長の半分程までやって来る事が出来た。棚には相も変わらず穀物と芋がたんまりと詰められている。しかし、人間とはなんとも愚かであるが、半分という一定の進捗へ達した時に集中力が途切れる事が多い。志遠も例外ではなく、それまで緊張感を持っていた彼の脳裏には一つの可能性が浮かびつつあった。それは「この倉庫自体に生き物が居ない」という事だ。志遠は今までに倉庫の大部分を確認したが、それには十数分の時間を要した。だが、ハッキリ言って志遠の隠密能力は素人のそれであり、室内にはローブが放つ絹ずれの音が響いている。更に言えば汗なら倉庫へ入る前からかいていた。人間よりも遥かに高い嗅覚を持つ蟻が居るのならば、既に感づかれていてもおかしくはないだろう。というか、そうでなければおかしい。そういった思考が一度浮かび上がった時点で、振り払う事は不可能。訓練された人間が上官により命令される事でようやく遂行できるレベルだ。「というかここにある食料は調理が前提じゃないか。芋も穀物も火を通さなきゃ木や砂利と区別が出来ないし、最初から人間が居る筈も無かったんだ」彼はそう言って引き攣った背中の筋肉を叩きながら無遠慮に倉庫内を闊歩し始めた。革の靴がコンクリートの地面を叩いてカツカツと音が鳴る。志遠は何となく目についた長芋を手に取ると、それを素振りして笑みをこぼした。「まさかここで手に入るとはね、いい感じの棒」そうしてご機嫌で歩いていると、次第に踵ではない何か別の、音にも満たない気配の様な物が聞こえて来た。最初は志遠も勘違いかと思ったのだが、歩いている内に相では無い事を察した。立ち止まって耳を澄ましてみると、水気を帯びた反響の様な音が確かに聞こえて来るのだ。志遠は源に近づくにつれて一定のリズムを繰り返し刻みながら、時折果物を割る時の様な音が混じっている事に気が付いた。雨漏りや元栓を閉め忘れた事による水漏れではない。生物が動いて発していなければ説明が着かない事は明らかである。複雑で寒気がする程に事務的、それでいて耳障りな音だ。志遠は負けじと主張する己の心臓を服の上から握りしめて、震える歯を固く閉じる。その場から離れようと後ずさりながら乾いて上手く動かない喉に固まった唾を通すと、咽頭に擦れて音が鳴った。あまりにも気味が悪く不自然な調子で響くものだから、志遠はそれが奴にも聞こえたのではないかと錯覚して思わず体を硬直させた。数秒にも、数十秒にも思える様な時間が過ぎて、彼は理解した。理解してしまった。数個の棚越しに蠢く生き物が、先程の自分と同じ、ねっとりとした何かを繰り返し嚥下している事に。ローチに襲われた時は既に思考する事すら儘ならなかったが、今は違う。捕食。そのたった二文字の単語が浮かんだ瞬間に全身の筋肉と血管が収縮して視界がぼやけ、呼吸すらできない程に力が抜けてしまうのだ。だが、ここまで来て何もせずにそのまま帰る方が難しい。数メートル先で起こっている事象をはっきりと認識してからではないと、落ち落ち眠る事もできないだろう。志遠はそういった直感のもと、音源へと歩みを進めた。一歩、また一歩と進む毎に脂汗が吹き出し、身を震わす寒気が増していく。風邪を引いた時のようにまとまらない思考と熱を持った頭が、自分の脳みそをかき混ぜているような錯覚すらしてしまう。そうして彼の生物のいるであろう棚の手前までやって来た瞬間、倉庫内の時が止まったように全ての音が止んだ。しかし志遠は歩みを続けた。恐る恐る慎重に、かつ大胆に、確実に着実に其れらへと。悠久の時と手順を踏んで漸く息を整えると、志遠は満を持して触れた棚の裏へ回り込んだ。



「鴻さん………?」京介は戦慄していた。それもその筈。村人に囲まれて看取られる血塗れの男は、彼が検問官になる以前から世話になっていた恩人なのだ。元は県知事の知り合いだが、京介にも数々の事を教えてくれた。剣の捌き方から足の運び方、そして賄賂の渡し方といった世の渡り方まで。あまり会うことのなかった実父よりも、よっぽど敬愛していた人間だ。そんな男が、今、この瞬間にも息を引き取ろうとしている。もう一度念を押しておこう。京介は戦慄していた。彼は首を垂れる人々をかき分けて中央に踏み入り、鴻と呼んだ男の前で膝をつく。「子供達は?」しかし答えは返って来なかった。血の気の引いた白い肌で、じっと瞳を閉じたままダンマリを決め込んでいる。触れた頬からは熱を感じられず、指はただ只管に反発力の失った肌へと沈み込む。京介は鳳の耳元で静かに短く囁くと、鎮痛な面持ちで部屋を見渡した。部屋の隅には騎士風の鎧を身に付けた肉塊が打ち捨てられている。村長の雇い入れた私兵だ。だが既に人間の形は保っていない。先程から指先すら動かさない子供達を抱きしめた村人の仕業だろう。死体に鞭を打つ行為は褒められたものではないが、彼らの気持ちを鑑みれば責めることはできなかった。京介はゆっくりと立ち上がり、対面に位置した分厚く重たい鉄の壁へと近づいていく。扉と思わしき切れ込みには取手すらなく、完全に内側からロックされていることが分かった。中には20人が節約して3日ほど過ごせるだけの食料がある。1人ならば二ヶ月以上の籠城が出来る事だろう。その頃には死臭を感じ取った蟻達に場所を突き止められて、村人達は連れ去られているだろうが。「帰るで、ここに助けるべき人間なんて1人も残っとらん」そう言って倭文は打ちひしがれる京介の背中に手を置いた。



「やばいやばいやばい」譫言のように繰り返す。志遠はあれほど慎重に進んで来た倉庫の通路を、意識ばかりが先行したように転がりながら突き進んでいた。認識では全力疾走しているつもりなのかもしれないが、体はまるでついて来ていない。だが腰を抜かさなかったのは幸運である。ある程度状況を察していたからかもしれないが、とにかく彼は蟻から逃げていた。いや、正確に言えば蟻達というべきか。小型犬サイズの昆虫とはいえ、それが20匹以上の数にも及べば人間1人程度容易に殺せるだろう。ともすれば単独のローチよりもよっぽどの脅威だ。だが志遠を追いかけるパラライズアントの数は50匹を超えていた。棚の裏の小さな隙間で、犇く様にして寄って集って小さな肉に跨り蠢いていたのである。志遠もまさかそんなに沢山隠れていたとは思っていなかった。怖いもの見たさで行動せず、あのまま逃げ帰っていればよかったのだ。だが、そんなことを言っても仕方がない。そもそも好奇心が弱ければ外へ出る事も、商人になろうと思う事もなかっただろう。彼は走った。今度は2本の足でしっかりと立ち、前を見据えている。もはや息を潜める必要すらないので、道中では棚をひっくり返して少しでも追手の勢いを削ぐ事に尽力した。数匹が下敷きとなって動きを止めても、群全体を足止めする事はできない。奴等は志遠を捕まえる為に仲間を踏み場として足蹴にすると、行軍を強行し続けるのだ。息も絶え絶えに倉庫の入り口へと辿り着いた志遠は引き戸にタックルをかまして扉ごと外へ飛び出した。臓物が体の中で暴れ狂い吐気を催すが、立ち止まる理由にはならない。他の場所にいた蟻の群も騒ぎを聞き付けていたのか、そのまま開けた畦道を真っ直ぐ走る侵入者を取り抑えんと畑の影から飛びかかる。志遠は偶然にも未だ手に持っていた長芋を振り、その内の一匹を空中で叩きのめした。「い、いい感じの棒!?」彼は心中で長芋に相棒という渾名を付け、切り開いた道を颯爽と駆け抜ける。すると畦道は舗装されたメインストリートへと合流して姿を変えた。周囲から畑が消えて建物が増えたので、この辺りは工業地区という事になる。靴底で地面を捉えやすいのは勿論のこと、先程に比べて道幅も広くなっているので随分と走りやすい。だが志遠の体力は限界を迎えようとしていた。口内には血の味が広がり、鮮烈な痛みが腹を焼く。それでも走り続ける最中、建物の上から降り注ぐ蟻の数がどんどんと増え始めた。志遠は止まる事すら許されず必死に足を上げる。幸いパラライズアントは視力が弱いので注意さえしていれば直撃することは無い。だが休憩や群を撒く為に建物の中へ入れないのは苦しいと言わざるをえなかった。視界が遮られるのは畑でも一緒だが、潜む場所に関しては街中の方が多いので、その点を持ち上げるのならば工業地区へやって来たのは間違いだっただろう。唯一点存在する光明はどこかに存在するという横穴か。そこならば昇降機を介さずに第三隔離街から脱出できる。とは言え四方八方から迫り来る数百のモンスターから逃げつつ駆け込める程に近くはない。というかそもそも志遠には場所がわからなかった。工業地区の壁際だと言うことは理解しているが、それだけである。それに彼には現在別行動中の倭文と京介を、確保した退路へ案内するという大仕事が残されていた。いっそ助けを求めて2人の元へ馳せ参じると言う事も考えたが、村長宅は西の果てにあると言う。最早、この街に居る総戦力とすら思える程の蟻から逃げつつ退路を確認してから2人と合流、そのまま横穴へ向かう事は不可能である。赤子でも鼻で笑い飛ばすだろう。そう考えれば選択肢は2つだ。ここでむざむざと殺されるか、生き恥を晒して逃げるか。「ごめん倭文、あと検問官の人。僕等の旅はここでお終いらしい。2人の命と僕の命を天秤にかけた時、全くといっていいほど後者に傾く気配がしなかったんだ!!」長考に次ぐ長考。苦肉中の苦肉。断腸の末に導き出した答えならば結局どちらを選んだとしても後から後悔するものである。志遠は涙を拭う事すらせずに足を早めた。「どうしてかな」彼は呟いた。「どうしてこんなにも足が軽いんだろう。心は深く沈んでいる筈なのに、長年囚われていた鳥籠から羽ばたいたみたいに軽快で仕方が無いんだ」順当に考えればセカンドウィンドかランナーズハイの類だろう。いいやその筈だ。もし違うと言うならば、まるで彼が血も涙もない人間だと決めつけるに等しくなってしまう。だから志遠が笑顔なのは、激しい運動によって放出された脳内麻薬やエンドルフィンといった成分による影響なのだ。きっとそうだ。じゃなきゃ困る。彼は路地裏から飛び出してきた蟻を軽やかなステップで避けると、無防備な背中へ長芋を振り下ろす。だが長芋は武器ではなく所詮ただの根菜だ。幾度となく降り注ぐ火の粉を払っていれば​、いずれ折れてしまう事は当然である。その瞬間は突然訪れた。十数匹目の蟻が己の頭蓋を犠牲に芋を叩き割ったのだ。「あ、相棒ぉぉぉぉ!!」撒き散らかされた脳髄は、とろろ共々地面にべチャリとへばり付く。信じられないとばかりに開いた瞳孔を丸くする志遠を、狡猾な蟻共は姑息にも好奇と捉えたらしい。先程から更に大きくなった群の全てで一斉に襲い掛かった。それは後方からであり、左右からであり、頭上からであり、そして前方からでもある。だが、圧倒的に優位な立場からでしか手を出さぬ強者とは違い、常に挑戦者として格上に挑み続けて来た弱者は如何なる状況でも冷静であった。合法脳内麻薬でシャブ漬けの、黄金に輝く脳細胞を焼き切らんばかりに高速で回転させると、一瞬にして包囲の薄い前方左側下部。壁と地面の角に生じた僅かな隙間へとスライディングで侵入した。それはさながらに青天の霹靂、プロのサッカー選手が股抜きをされるかの如く。完全なる意識外から繰り出された急所に対する芸術的なまでの一撃である。文字通り​針の穴に通す様な曲芸に蟻達は反応すら間に合わなかった。気が付いた時には既に志遠は遥か遠く、だが無駄に気合いの入った突進は急ブレーキで止まれない。いち早く身を翻そうとした前列の蟻達も後ろから​背中​を押されて前方へと転がされる。向かい合い挟み撃ちをしようとしていた群れにとっては藪蛇どころの騒ぎではなかった。ボーリングのピンみたく、轢かれて宙を舞うだけで済む事は無いだろう。​良くて挽肉、運が悪ければ蓋から飛び出たケチャップよろしく誰にも気づかれぬ壁のシミになりかねないのだから。志遠はドンガラがっしゃんと悲惨な音を立てる後方を振り返らず、愉快気に笑うだけで立ち上がり再び走り始めた。しかしそこは流石のモンスター。運良く生き残った個体だけではなく今に息絶える満身創痍な個体でさえも、たった今命を落とした仲間の死体を踏み越えて侵入者を追いかけ続けるのだ。異常な固執もここまで来れば狂気の域である。だが志遠は止まらない。最盛期に比べれば多少少なくなったとはいえ、先ほどの攻防で仕留めた蟻は氷山で言うところの先端も先端。一角にすら含まれない欠片程度である。未だ左右後方からの追撃は止まないが、北側。つまり前方から追い立てる個体に関しては大分整理出来た事で、ここにきてようやく心置きなく前方へと走る事が許されたのだ。志遠はもはや重力すら感じさせない速度で走りだす。目指すはとにかく壁がわ、目の前に建物が現れて曲がり角 に差し掛かっても、直線距離でしか進まない。志遠はむしろ好都合だと立ち塞がる建物の窓へと飛び込んだ。冊子を背で折りガラスを破って転がり込むと、中には地中で見られる一般的な民家があった。広さ8畳のリビングには質素な椅子とテーブルだけが置かれており、上には先程まで人がいたかの様に穀物の重湯が残っている。志遠は地面に散らばるガラスの破片によって肌を割かれたが、後ろからやってくる蟻達に追い立てられてテーブルを蹴散らしながら入り口へと走った。行儀は悪いが、直後パラライズアントの物量によって部屋は全て無に帰すのだから証拠は残らない。狭苦しい廊下を滑り、今度はバランスを崩さない様に扉を蹴破ると、左右後方上部から蟻達の波が押し寄せる瞬間であった。既に前方の道すら閉じようとする最中、志遠の目には壁ぎわにぽっかりと開いた横穴が写っていた。ようやく見えたゴールに志遠は疲労を忘れて走り出す。手に残った拳台の長芋を投げて進路を防ぐ蟻を黙らせて、そのすぐ横を走り去る。寸手のやり取りが続いているものの、出口さえ分かって仕舞えばこちらのもの。ここから先は線で結んだ最短距離だけを進めば良いのだ。建物を介せば蟻達は外回りか狭い通路を通るしかなくなるので、一度にかなりの距離が稼げるらしい。倉庫へ侵入し、工場へ飛び込み、民家へお邪魔し、その度に中を踏み荒らして幾星霜。気がつけば目の前には鉄の扉が聳え立っていた。志遠の体は瓦礫やら破片やらで傷だらけになっていたが、横穴にも蟻達は残っているだろうし挟み撃ちにされないようにせめて少しでも突き離しておきたかったのだ。洞窟が出来た経緯はどうであれ、基本的には入口から出口へ向かうよも出口から入口へ向かう方が簡単である。なぜなら出口に関しては複数個あるが、入口は多くても二、三が限度であるためだ。樹木で例えるならば幹から的確に目的の枝先へ向かうようなものである。枝先からならば、ある程度下へ向かうだけでも幹に到達する事は容易だろう。しかしそれでも一寸先は闇。僅かに聞こえる風切り音と微かに漏れ出す光、そして後は運だけで出口を見つけなければならない。何より洞窟内には蟻が残っている可能性がある。だが迷っている暇はないだろう。後ろから催促する蟻共に囃し立てられて、志遠は洞窟へと足を踏み入れた。地獄の赤い光に灯された街中から一転、そこにはどこまでも暗闇が支配する世界が広がっている。脳シャブによる高揚感は落ち着き、志遠は不安と焦燥感に胸を締め付けられた。今はなき相方の名前を呼びそうになる口を固く閉じ、意を決して坂道を走り出す。街では津波から逃げるような恐怖だった。逃げる為にただひたすら逃げればよかった先程までとは違い、ここからは夜のキャンプ場で殺人鬼から逃げるような恐怖が待ち受けている。後ろからはカサカサと不気味な音が鳴り響き、それが洞窟内に反響して耳を撫でる。常に心臓を掴まれているような、身悶えするような焦りだけが募る思いだ。自分を追いかけているのは本当に蟻なのか?得体の知れないクリーチャーではないのか?そんな疑問が浮かんでは振り払うという、己との格闘が幕を開けたのだ。早く地上へ戻りたいという一心で、分かれ道はなんとなく傾斜の激しい方を選んでいるせいか、未だ行き止まりには当たっていない。更に言えば、道の先から見える光も強くなっているようだ。そんな折り、志遠は地面に転がる石ころに足を引っ掛けた。それは余裕が産み、慢心が助長し、疲労が重なった結果である。というか、大して運動神経の良くない彼が今までに足をもつれさせる事もなく走り続ける事が出来たという事態こそが異常であったのだ。本来ならば初手で転び殺されていても不思議ではない。全てがスローモーションになり、突如として坂道が起き上がってくるかの様な錯覚に陥りながら志遠は地面へと体を投げ出した。咄嗟に起き上がろうともがくが、暗闇と内臓疲労のダブルパンチで完全に平衡感覚を失った彼にはどちらが天か地かを推し量る事はできないだろう。遂には追いついた蟻達に噛みつかれて毒液を注入されてしまう。体の自由が効かなくなっていく時でも尚、鮮烈な痛みだけはしっかりと認識してしまうらしい。痛みに耐えきれなくなった志遠の脳が緊急処置として意識を手放そうとする最中。彼が最後に感じたものは、体の芯から振るわす様な重低音であった。

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